第39話:飢餓の果ての懇願と、次なる盤面
ロンドン地下に新設された、パレスの特別収容区画。
冷たいコンクリートと強固な鋼鉄の格子で囲まれた独房の中に、ハミルトン卿はうずくまっていた。
捕縛されてから、すでに七日が経過していた。
パレスは事前の宣告通り、彼に一切の食料を与えなかった。
一日に一度、生命をかろうじて維持するための「水」が、チューブから少しだけ滴り落ちるのみである。
「……うぅ……あぁ……。」
かつて大英帝国の近衛騎兵隊長として、威風堂々と振る舞っていた男の面影は、もはやどこにもない。
頬はドクロのように痩せこけ、誇りだった軍服は泥と自らの排泄物で汚れ果てていた。
格子の外、彼の手がギリギリ届かない位置。
そこには、銀色のトレイが置かれていた。
トレイに乗っているのは、パレスが市民に配給している規格化されたパン。
そして、肉の脂が溶け込んだ、温かく栄養満点のシチューだった。
香ばしい匂いが、容赦なくハミルトンの鼻腔をくすぐり、脳髄を直接揺さぶる。
(……食べたい。)
頭の中に浮かんだのは、かつて「奴隷の餌」と蔑んだはずのその食事への、猛烈な渇望だった。
(肉……温かい、スープ。喉を通る、柔らかなパン……。)
かつて王宮の晩餐会で口にした最高級のローストビーフよりも、今の彼にはその規格品のパンが神々しく見えた。
最初の三日間、ハミルトンは格子に向かって「帝国の誇りは屈しない!」と叫び続けていた。
しかし、五日目には胃液を吐き散らし、七日目の今、彼の頭の中に「誇り」という言葉は一滴も残っていなかった。
胃袋が痙攣し、内臓が自らを消化し始めているかのような激痛が走る。
(誇り……忠誠……そんなもので、この腹は満たされない……!)
ハミルトンは泥にまみれた床を這い、格子の隙間から、骨と皮だけになった震える手を伸ばした。
指先が、空気を掻きむしる。
「くれ……それを、私に……。」
床に額を擦り付けながら、彼は泣き咽んだ。
「誇りなど、どうでもいい……腹が、減った……頼む、食べさせてくれ……!」
彼は涙と涎に顔を濡らしながら、自らが最も蔑んでいたはずの「パレスの配給」を乞うた。
大英帝国の誇りが、一杯のシチューの前に完全に屈服した瞬間だった。
巨大航空戦艦『鳳凰』の執務室。
魁斗は、モニターに映し出されたハミルトンの惨状を、氷のように冷たい無表情で見下ろしていた。
「……人間の精神など、肉体の飢餓の前ではいとも容易く崩れ去る。」
魁斗は静かに独り言ちた。
「彼が命を懸けて守ろうとした『誇り』の正体は、結局その程度のものだったということです。滑稽ですね。」
魁斗はモニターの電源を消し、傍らに立つシエルに視線を向けた。
「シエル。ハミルトンの映像を、残存する旧貴族や反逆分子の端末へ密かに送信しなさい。」
「彼らの最後の希望が、いかに醜くパレスの配給に縋り付いたか。それを知れば、つまらない反乱の芽も完全に摘まれるでしょう。」
「承知いたしました、総督。」
シエルは一礼し、手元のタブレットを操作して新たなホログラムを空間に投影した。
「ハミルトンという『英雄』の偶像が破壊されたことで、ロンドン市民のパレスへの依存度は九割五分を超えました。」
「これでロンドンは、完全にパレスの『歯車』として機能し始めましたね。」
魁斗は執務机の上で、一枚の古い世界地図を広げた。
極東は塗りつぶされ、今、大英帝国もパレスの支配色に染まった。
「大英帝国という強大な象徴が落ちたことで、世界の勢力図は大きく歪んでいます。」
魁斗の指先が、欧州大陸をなぞる。
「フランス帝国、ロシア帝国、そして新大陸のアメリカ合衆国……。」
窓の外では、パレスの管理下で完全に統制されたロンドンの街並みが、機械のように正確な鼓動を刻んでいる。
「彼らがどれほど足掻こうと、パレスの圧倒的な技術と秩序の前には無力です。」
魁斗は冷たい微笑を湛え、地図を見つめた。
「すべてを飲み込み、世界を新しく書き換える日は近い。楽しみですね。」
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