第35話:鋼の街と忘却の労働者
パレスが極東に顕現してから、一年が経った。
かつて「江戸」と呼ばれたその街は、今や見渡す限りの鋼鉄とレンガの街へと変貌していた。
無数の配管が這い回り、幾何学的な模様を描く都市。
元大工の頭領であった辰五郎は、地上五十メートルの鋼鉄の梁の上にいた。
彼は、パレスから支給された新型のリベット打ち機を慣れた手つきで構える。
「よし、五番の梁、固定完了だ。次を回せ!」
辰五郎の合図とともに、重機が狂いなく次の鋼材を運んでくる。
最近配備されたその重機からは、これまでの蒸気機関特有の排気音はしなかった。
代わりに、重低音を響かせる「内燃機関」の駆動音が、腹の底を震わせる。
パレスの技術はすでに蒸気を超え、より高効率な動力源へとシフトしつつあった。
かつての彼は、木の匂いと墨壺を愛した大工だった。
長屋の喧嘩を粋とし、祭りに命をかける。そんな江戸っ子だった。
しかし今、彼が組み上げているのは、木材ではない。
パレス規格の冷たい鋼鉄だ。
ミリ単位の誤差すら許されない、無機質で完璧な建造物。
それを淡々と組み上げるのが、今の彼の「仕事」だった。
(……昔は、この鉄の化け物どもを追い出そうと本気で思ってたんだがな)
辰五郎は、油に塗れた手で額の汗を拭った。
パレスの建築技術は、大工としての彼の誇りをへし折るのに十分すぎるほど圧倒的だった。
職人の勘など必要ない。
配られた図面通りに、用意された規格品を組み合わせるだけだ。
かつては何年もかかったであろう高層の建築物が、わずか数ヶ月で形を成していく。
正午。
パレスの正確なサイレンが街に鳴り響く。
作業員たちは一斉に工具を置き、配給所へと向かった。
辰五郎が受け取ったのは、銀色のトレイに乗せられたパン。
そして、家畜プラントで生産されたという、栄養満点の肉のシチューだった。
「……おう、辰さん。今日も同じ味だな」
「ああ。だが、美味くはないが不味くもねえ。それに……」
辰五郎はシチューを口に運びながら、かつての記憶を思い返した。
天候に左右され、米の値段に怯え、冬の寒さに凍えていた日々。
その「飢えと寒さの恐怖」は、パレスの支配下に入ってから完全に消滅していた。
「……もう、あの腹の減る時代には戻りたくねえな」
若い職人のその呟きに、辰五郎も黙って頷くしかなかった。
誇りや粋といった目に見えないものは、確かに奪われた。
だが、代わりに「絶対の生存」が保証されたのだ。
その甘美な毒は、江戸の民の反骨精神を、一年かけて確実に溶かしていた。
作業が終わり、夕闇が街を包む頃。
都市の広場に設置された巨大なスクリーンに火が灯る。
そこでは、パレスが提供する「娯楽番組」が流されていた。
刺激の少ない穏やかな音楽と、ただ美しいだけの風景映像が繰り返される。
(……俺は、何を怒っていたんだっけか)
パレスへの反発も、失われた故郷への郷愁も、穏やかな音楽とともに白く薄れていく。
思考が鈍り、ただ明日もパレスの歯車として働く。
配給の飯を食う。それが世界のすべてに思えてくる。
鋼鉄の街には、もはや怒りの声も悲鳴もない。
ただ、巨大なシステムの一部として組み込まれた人間たちがいた。
パレスが与える「安寧」の中で、彼らは静かに、確実に、自我を眠らせていくのだった。
高評価とブックマークをよろしくお願いします。
コメントへの返信はしないと思います。




