第29話:南シナ海、絶望の波濤
本日3話目
【1869年 晩冬 ―― 南シナ海、大英帝国東洋艦隊】
荒れ狂う波濤の中、大英帝国が誇る東洋艦隊は、かつて経験したことのない恐怖に直面していた。
旗艦『インヴィンシブル』の艦橋で、ジェンキンス中将は双眼鏡を持つ手を激しく震わせている。
「提督! またも我が軍の砲弾が弾かれました! 敵艦の装甲、傷一つついておりません!」
「馬鹿な……! 我々の主砲は最新の三十二ポンド砲だぞ! 鉄の板に弾かれるなど、物理的にあり得ない!」
ジェンキンスが咆哮する数海里先。
そこには、巨大な黒煙を吐く大英艦隊とは対照的に、排気すら見えぬほど洗練された機関で波を切り裂く漆黒の巨艦『鳳凰』が迫っていた。
表面硬化処理と傾斜装甲という、この時代には存在しない概念で設計された特殊鋼の装甲版は、旧式の砲弾をことごとく滑らせ、無力化していく。
【鳳凰・最高指揮室】
魁斗は漆黒の玉座で足を組み、手元の計器板に流れる数値の変動を静かに眺めていた。
「マスター。敵艦隊の砲撃パターン、すべて計算済み。有効打率はゼロ」
軍事統括のカルマが、抑揚のない声で報告する。彼の頭脳は、風速、波のうねり、敵の装填速度を完璧に計算し、鳳凰の舵を最適な角度へと指示していた。
「ありがとうございます、カルマ。彼らは石炭を無駄に燃やし、ただ鉄の塊を放り投げているだけ。実に非効率で、野蛮な振る舞いですね」
魁斗は、運ばれてきた紅茶のカップを優雅に傾けた。
「……彼らの旧式なプライドなど、我がパレスの最適化された論理の前では、ただの『ノイズ』に過ぎません。ロキ、予定通り進んでいますか?」
魁斗の足元に控えていた攪乱統括のロキが、薄笑いを浮かべて立ち上がる。
「ええ、マスター。ヘルメスと連携し、電信線をジャックしました。現在、各艦には『本国で反乱勃発。女王陛下は幽閉された』という偽情報が流れています。彼らの脆い精神には、これが一番効く」
「結構。情報は、物理的な装甲よりも脆い。恐怖と疑心暗鬼を与えれば、彼らの指揮系統という名の歯車は、自ずと噛み合わなくなります」
魁斗の言葉通り、インヴィンシブルの艦橋では、絶望的な偽電報に士官たちが恐慌状態に陥っていた。
「カルマ。敵の足を止めなさい。ヴォルフ、桜華、露払いを」
「……御意」
低い、地を這うような声が響く。
強襲統括のヴォルフが、銀髪の下で飢えた獣のような瞳を光らせた。第3話で見せた、一切の無駄を削ぎ落とした、戦闘のみを追求する猟犬としての狂気がそこに宿っている。
カルマの指示を受け、鳳凰の側面に格納されていた精密速射砲が火を噴いた。
狙いは敵艦の装甲ではなく、海面に露出している外輪やスクリュー、そして舵の駆動部。極めて高い工作精度で作られた砲弾が、寸分の狂いもなく弱点を穿ち、大英艦隊の機動力を奪っていく。
足の止まった旗艦へ向け、小型の蒸気強襲艇が射出された。
乗っているのは、ヴォルフ、桜華、そして無機質なパレスの兵士たちだ。
ワイヤー付きのフックが、インヴィンシブルの甲板に突き刺さる。
「……邪魔だ。消えろ」
ヴォルフがワイヤーを伝って甲板に降り立つ。彼の手には、この時代のガトリング機関銃を徹底的に小型・精密化し、取り回しを極限まで高めたような連装銃が握られていた。
喚き散らす水兵たちに向け、ヴォルフは一切の迷いなく引き金を引く。
「あ、が……!」
「次だ」
ヴォルフの動きには「遊び」がない。精密な連射が敵の膝や肩を正確に射抜き、死なない程度の重傷を負わせることで、瞬く間に甲板を戦闘不能の山へと変えていく。
「……ヴォルフ、相変わらず無骨ですね。ですが、九条様の平穏を乱すノイズを消すには、その実直さが一番です」
桜華もまた、甲板を舞うように移動する。彼女の刃が閃くたび、水兵たちが構える銃の『撃鉄』や『引き金』といった脆弱な稼働部だけが、正確な点突きの衝撃で破壊されていく。
銃身を切るような魔法じみた真似ではない。圧倒的な動体視力と精密な筋力制御によって、銃という機械の「急所」を突いているに過ぎない。しかし、その神業のような手際に、水兵たちは自分たちの武器が「触れられただけで動かなくなる」という理不尽な恐怖に叩き落とされた。
「さあ、ミューズ。彼らに『新しい神』の論理を教えてあげなさい」
魁斗の合図を受け、広報統括のミューズが指向性拡声器の前に立つ。
『哀れな羊たち。あなた方を救えるのは、ただお一人……九条魁斗様だけなのです』
ミューズの声が海原に響き渡る。音響工学に基づいた特殊な周波数が、兵士たちの喪失感に付け入り、彼らの精神を急速に書き換えていく。
「……脆いものですね。19世紀のプライドなど、少しの物理的な圧倒と、情報の介入で、容易く崩れ去る。ただのバグだらけのシステムです」
魁斗は玉座に背を預け、冷たい眼差しでモニターを見つめた。
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