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灰のレースー「線路の向こうは安全地帯」進む一歩が最も怖いサバイバルが始まる  作者: 妙原奇天


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第七話 レールの向こう側

 寺脇定は地面に膝をつき、割れたコンクリートの継ぎ目からのぞく配線溝に細い金棒を差し込んだ。金棒の先は、自転車のスポークを加工した即席のスパイクだ。刃の角度は彼の指の癖に馴染み、震えない。汗が灰を濡らし、指紋の溝が黒くなっている。彼は深く息を吸い、金棒をわずかにひねってから、掌で一気に叩き込んだ。

 ゲート上部、噴口の脇に並ぶ赤い警告灯が一瞬だけ消え、すぐに点く。次の瞬間には何事もなかったように均整を取り戻し、列の肩に赤い反射を投げた。

「一回目。覚えとる手応えやない」

 寺脇は独り言のように言い、金棒を引き抜いた。先端に焦げた匂いが付く。金属と樹脂の焼けた臭い。配線の皮膜のどこかに、微小な傷をつけた証拠だ。彼は角度を変え、二度目を打つ。警告灯がまた消え、点く。さっきよりわずかに長い、まばたき。

「三つ目で落とす。戻りのラインだけや」

 頼が赤布を握り直し、凪砂と蓮は同時に頷いた。ミツエはアユを胸に抱え、少年の顔を見てから、ゲートの向こうを見た。向こう側の空気は薄く明るく、灰の粒が少ない。目を凝らすと、遠くに色の違う帯が横たわっている。緑。黄土色の上に、薄く刷いた絵の具のように。

 寺脇は三度目のスパイクを構え、低く数えた。

「いち、に——」

 金棒が落ち、噛み、きしむ。配線溝のどこかで火花が小さく噛んだ気配がして、ゲートの赤が一度だけ完全に消えた。次に点いたとき、戻り噴霧の系統灯だけが沈黙したままだった。空気の奥で機械のうなりが一段下がる。

「落ちた。戻りが死んだ。時間は——」

「ない」

 蓮が言い、凪砂が続ける。

「行く」

 二人は枠の中央を選ばない。昨晩の記憶の通り、左から二つ目のゲート。床の塗装が薄く剥げ、足跡が一番濃い。機械が人の通行を最も想定した幅。そこはセンサーの視線がまっすぐで、死角が少ないが、癖が読みやすい。蓮は先に、凪砂は半歩遅れてくぐる。センサーは点灯しない。噴口は無言だ。十歩。二十歩。三十歩。白い霧は降りない。背中に熱が追ってこない。

 向こう側の地面は、踏み心地が違った。灰の層が薄く、靴底がコンクリートの目を拾う。風が違う。ここまで吹いて来た南西の流れに、もう一つ別の方向からの涼しさが混じる。鼻の奥に湿りの匂いが触れ、喉の奥の渇きが迷う。遠くの緑は、まだ薄い線にすぎないのに、色そのものが肩の力を一段落としていく。

 蓮は振り向かない。振り向けば、戻る衝動に“仕組み”が牙をむくと分かっているからだ。背後の視線は刃物になる。凪砂も前だけを見る。体はそれを理解しているが、耳は勝手に後ろへ伸びる。悲鳴が上がったのは、そのときだった。

 短い、乾いた声。足がもつれて転ぶ音。骨と鉄の擦れ。続いて、低い、聞き慣れた悪い音——噴口の奥でバルブが目覚める咳払いの音。境界線の白い霧が、絵の具の一筆のように細く立つ気配。凪砂の心臓が痛む。頭だけが振り返りかけて、蓮の掌が肩に置かれる。強くない。強くないのに、前へ戻すには十分だった。

「見ろ。生きる景色を」

 彼の声は震えていた。震えているのに、前へ出す音を保っている。前へ出す音は、耳の奥で手綱になる。

 背後で、頼が走った靴音が灰を散らす。ミツエの叫びは短く、名前を呼ばない。名前を呼ぶと、足が戻る。寺脇が工具を投げる音が続いた。スパナが空気を斜めに切り、噴口の縁に当たって鈍い音を出し、白が一度だけ流れを乱す。老人が倒れた位置から半歩ほど、霧の向きが逸れる。頼が滑り込む気配。抱き起こす。胸の帯を締め直す。霧の縁を読む。寺脇の手が地面を叩き、次の工具を探す音。ミツエの息が、祈りの途中で止まる。

 凪砂は走る足を止めないまま、胸の手帳を外した。紐を解くのではなく、引き千切る。ページはいくつも埋まっている。最初の紙片に、列の名前が並んでいる。「遺留品」の欄。「式次第」。鳥居の触感。噴口の位置。戻らない、の文字。生き延びる、の文字。彼女はそれを足もとの白線のわき、目につく石の上に置いた。帰り道を塞ぐ代わりに、向こうへの名簿を置く。置いた瞬間、胸が空洞になった。空洞に風が入る。軽くなるのに、痛い。

 蓮は前を指さす。視線の先に、フェンスがあった。斜めに連なる金網。規則正しい等間隔の支柱。支柱の根元にはプレートがあり、剥がれかけた英数字と、上から塗られた別の文字が共存していた。検問。さらにその先、もう一つのゲート。形は似ているが、こちらの簡易枠とは違い、塗装に光沢が残っている。近づくほど、人の気配と秩序が増す。片付けられた瓦礫、整えられた導線、足跡の型の揃い方。

 秩序の前に立つと、凪砂の胸には別の重さが生まれた。置いてきた手帳。置いてきた名前。置いてきた式。置いてきた街。戻らない覚悟は、戻りたい気持ちと同じだけ重い。二つは釣合いをとりながら、足を前へ押す。釣り合ったものは、そう簡単には壊れないが、壊れないまま痛い。

 背後で、噴口の音が完全に止む。機械の呼気が下がり、静けさが広がる。寺脇の作業が“成功”したのだ。戻りのラインは落ち、前へ押す力も弱まったのだろう。凪砂は振り返らない。音の変化だけを背骨で受け取り、前のフェンスへ顔を上げる。

 放送が再開した。昨日よりも近い音質。雑音がなく、言葉の輪郭が硬い。

『横断者は前進のみ許可』

 許可。たった三文字のその響きに、冷たい重さがあった。救いの硬度は、自由の角度を鈍らせる。許される、という言葉は、いつも誰かの手の形を映す。凪砂は顎を引き、足をもう一歩出した。

 検問までの道は短いが、歩幅は細かく、時間が伸びた。蓮は列から半歩離れて前へ出、右手を下げたまま掌を広げた。見せる。武器ではない。紙と包帯だけの手。フェンスの向こうに影が動く。人の輪郭。マスク。腕章。迷彩ではない、灰色の作業服。人のいる気配は、安心と緊張の両方を連れてくる。

 検問の手前で、地面の白線が二重になった。そこから内側は、灰が掃かれて薄い。掃いたのは、きっと向こう側の人間だ。こちら側の足音の形とは違うリズムで、丁寧に往復した足跡が残る。蓮が白線の手前で止まり、凪砂も隣に止まる。背後では頼の声がし、寺脇が名前を呼ばずに点呼をとる。ミツエの息が一度だけ震え、少年の帯がもう一度締め直される。

 フェンスの扉が開いた。開く音は軽く、油がよく回っている。四角い台が二つ押し出され、そこに透明な容器と、白い布と、ペンが置かれた。台の向こうの男が、マスク越しに言う。声はくぐもらず、はっきりしている。

「横断者は一列。手を見せる。名を書ける者は名を書く。書けない者は印でいい。質問は後回し。前進のみ許可」

 言葉の順番が整っていて、余白がない。余白がないことが、安心であり、窮屈でもあった。蓮は頷き、先に手を出す。掌の「生き延びる」の字は汗で薄く、だが読める。男はそれを見ても何も言わず、透明の容器を指差した。中には薄い液体。消毒だろう。蓮は指先を浸し、滲む文字を壊さない程度に手を擦った。

 凪砂も手を出す。掌の「戻らない」は、灰と汗で滲みながら、まだ輪郭を保っていた。男はやはり何も言わない。ペンを示す。凪砂は台のカードに自分の名を書いた。苗字と名前。出発地点。同行者の数。空白の欄が一つ上にある。そこには「帰還予定」の枠。線だけが引かれ、何も書かれていない。書こうとすれば、誰でも書ける。けれど、書く権利は、まだ与えられていない。許可という言葉は、そこに口を閉ざす。

 背後から、頼と寺脇が到着した。頼はまずアユを台の陰に座らせ、ミツエに短く指示を出す。寺脇は胸ポケットを押さえ、折りたたまれた紙の存在を確かめた。ミツエの名前が書かれた紙。渡す相手は決まっていないが、ここでなら、誰かに届く可能性がある。彼は台の男に目で合図し、紙を差し出した。男は受け取って、背後の箱に入れた。箱の蓋は透明で、同じような紙が複数重なっている。名札の箱。名の重みは、箱の軽さに反して、台の脚をわずかに沈ませている。

 放送がもう一度、短く鳴った。

『横断者は前進のみ許可。停止は指示があるまで禁ず』

 禁ず、という言い回しは、紙の上の言葉に似ていた。活字の固さ。柔らかい言葉がここにはない。凪砂は胸の奥で小さくうなずき、心の中で言い直した。禁じられるのではない。選ぶ。止まらないことを選ぶ。選ぶことで、禁じられていない場所を広げる。

 検問の内側、もう一つのゲートの前まで進むと、空気の匂いがさらに変わった。塩素の薄い匂い。紙の乾いた匂い。布の匂い。人の生活の匂い。列の肩にそれが乗り、筋肉がほぐれる一方で、緊張は別の形で硬くなる。門の上には、薄く消された古い英数字の上に、新しい塗料で「SAFE」と書かれていた。外と同じ書き手。筆致は太く、急いでいて、少し右上がり。誰かの「安全」の線が、ここでも見張っている。

 ゲートの脇に、白いボードが立てかけてある。注意事項。番号付きの短い文が並ぶ。手短で、正しい。背後の世界の言葉ではない、こちらの世界の響き。寺脇は無意識に読み上げ、途中でやめた。声にすると、余計に固くなる。彼は代わりに指で順番だけを追い、頭にしまった。

 蓮が凪砂の肘を軽く触れた。

「目を閉じないで。閉じると、置いてきたもののほうへ引かれる」

「分かってる」

「俺も分かってる。だから言う」

 短いやり取りで、胸の奥の空洞が少し形を変えた。痛みはあるが、穴の縁が滑らかになり、風が刺さらなくなる。

 背後で人の気配が一段落ち、頼が合図を送る。列が揃った。少年はミツエの隣で座り、胸の帯の下で呼吸が浅く続く。アユは眠りと覚醒の間で目を開け、閉じ、また開いた。寺脇は赤線で×印をつけた図面を折りたたみ、工具の位置を確認した。彼の指は今日、いつもよりも静かだ。成功の余韻と、まだ終わっていない緊張とが、同じ指の中に同居している。

 ゲートが開いた。金属の扉は軽く、背後から押される風が内側へ流れ込む。向こうの地面は乾き、灰は薄く、遠くの緑が少しだけ濃い。緑はまだ遠い。しかし、見える。見えるという事実だけで、胸の中の重さの半分は、前へ移動した。

 放送が三度、最後に短く落ちた。

『横断者は前進のみ許可』

 許可。救いの中で、不自由になる。だが不自由であることは、今は悪ではない。無秩序に戻るより、こちらの窮屈を選ぶ。選ぶことで、明日の余白が少しだけ増える。余白は、いつか自由に変わるかもしれない。

 凪砂は最後に、自分の掌を見た。薄く残った「戻らない」の文字は、線が欠け、点になり、それでも読めた。蓮の掌の「生き延びる」は、輪郭が太くなっている。二つの言葉は、指を絡めなくても、並べるだけで指の中に橋を作る。橋は向こうにだけ架かるのではなく、こちらにも、背中のほうにも、胸の奥にも架かる。

「行こう」

 蓮が言い、凪砂が頷いた。頼は医療袋の口を締め、ミツエはアユの毛布の角をつまみ、寺脇は胸ポケットを押さえた。名前を、持っていく。持っていくことは、置いていくことと釣り合いになる。

 列が動く。フェンスの影が足もとで交差し、灰の薄い地面に新しい足跡が刻まれる。風が右から左へ、左から右へ、入れ替わる。緑はまだ遠い。検問も、もう一つあるだろう。許可という言葉は、何度も聞くことになるだろう。それでも、前進は前進だ。前進だけが、今は約束されている。

 凪砂は背後を振り返らない。けれど、置いてきた手帳の重さは、掌に残った文字の感触とちょうど同じだった。重さの形が一致すると、人は歩ける。歩きながら、彼女は心の中でページをめくる。そこには、列の名前が連ねられている。今日、生きている名前。今日、数えられた名前。今日、前へ出た名前。名簿は紙の上から離れ、足音の中に移り、呼ばずに数えられるものになった。

 前へ。

 許された前進は、狭い。だが狭い道は、真っ直ぐだ。真っ直ぐなぶん、迷いは少ない。迷いが少ないぶん、持てる重さと持っていく名が、はっきり分かる。

 レールの向こう側で、彼らは初めて、その狭さを自分たちの意思で歩いた。救いの中で不自由になりながら、自由に向けて、歩幅を揃えた。

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