表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
灰のレースー「線路の向こうは安全地帯」進む一歩が最も怖いサバイバルが始まる  作者: 妙原奇天


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/8

第5話 遺留品検査

 操車場の奥へ進むと、地面がわずかに滑らかになった。線路の分岐はここで収束し、複数の枠が低く並んでいる。腰の高さほどのゲート。四角い輪が通路をまたぎ、上部に丸い目玉のようなセンサーと、小さな噴口がいくつも口を開いていた。工業用の簡易スキャナだ。人が潜れば、中身を透かす。生き物と金属、熱と冷え、数字で見分ける機械。


 寺脇定は地図筒を脇に挟み、しゃがんでケーブルの束を追った。灰を払う指先は迷いがなく、古い友人の癖を探るように細い導体をたどっていく。束は床の溝に沿って走り、右奥の平屋へ吸い込まれていた。窓の割れたコンクリートの箱。制御棟だ。

「配線の癖が出てる。ここの工区は、あいつの仕事かもしれん。なら制御は単純や。電源は二重。切っても数分は持つ」


 廻谷頼は無言で頷き、ゲートへ近づいた。中央の枠に手をかざし、ひと呼吸置いて、先にくぐる。音はしない。彼女は三歩進んで止まり、自分のポケットから古釘や安全ピン、金属片を取り出して地面に置くと、枠をふたたびくぐって戻ってきた。目元だけで笑い、短く言う。

「向こうには医療区画があるはず。匂いがする。消毒と、紙の匂い。それから水。……でも戻る路は、物理で“閉じる”ように設計されてる。ゲートの上、あれ」

 頼が顎で示した先、センサーの列の間に、丸い噴口が等間隔で並ぶ。さっき鳥居の下で見た焼却の口より小さい。けれど、狙うには十分の口径だ。


 凪砂は手帳の角を押さえ、枠の縁を見つめた。四角い輪はどれも同じに見えるのに、微妙に違う。左端の枠は上部のセンサーがひとつ欠け、右端の枠は塗料が新しい。中央の枠だけ、床の塗装が削れて足跡が濃い。人が試した跡だ。


「試す」

 列の後ろで、ひとりの男が名乗り出た。顎に煤の筋がつき、目は落ち着いている。彼は肩の上着を脱いで丸め、凪砂と頼と寺脇を交互に見て、言葉を少し探してから言った。

「俺がいく。子どもがいる列だ。先に躓くのが、大人の仕事だ」

 嘘ではなかった。彼は誰にも手を借りず、中央のゲートを一歩でくぐった。センサーは点灯しない。アラームも鳴らない。男は二歩、三歩。十歩まで数えて、振り返った。


 列の空気が一気に軽くなった。胸の上の石が薄くなり、背中のこわばりがほどける。誰かが歓声に似た息をこぼし、誰かが両手を胸の前で握り合わせた。ミツエがアユの額を撫で、蓮が肩を落として息を整え、頼が足を一歩、前に出した。


 その瞬間、遠くで乾いた破裂音。続く高い金属音。ゲートの向こう、男の背後に並ぶ配管のどこかが弾けたのだろう。途端に、天井の噴口が白い霧を吐いた。連続した細い糸が斜めに降りて、男の頭、肩、胸を斜線で切り取った。霧は殺菌なのか焼却なのか、判別できないほど早い。皮膚が赤く、薄く、次の瞬間には白く、そして力が抜ける。男は膝を折り、掌をついた。掌の跡が床に貼りつき、すぐに欠けた。


「待って!」

 頼が駆け出す。蓮が腕で抱きとめる。抱きとめる力は強くないのに、止まるには十分だった。蓮の声は低く、抑えに適した硬さをしている。

「戻れない。戻れば、みんなにかかる。拡散する」

 頼は刹那のためらいのあと、顎を固めた。目だけで男の状態を測り、瞳の動きと胸の上下で時間を数えた。男は振り返った顔のまま、視線をこちらに留め、口を開こうとして開けなかった。白い霧が薄れ、噴口は静かになった。床の上に、乾いたものの匂いと、焦げた紙のような匂いが残る。


 列は黙った。音が目に見えるみたいに、沈黙は濃くなっていく。ミツエはアユの耳を毛布で包み、自分の手で覆う。アユは目を閉じ、呼気が細く漏れた。寺脇は立ち上がり、ゲートの側面へ回り込む。英数字を塗り潰した古い注意板が打ちつけられていた。角が剥がれ、下の文字が半分見えている。

〈ZONE B —— 〉

 その上から、新しい塗料で雑に「SAFE」と書き足されている。筆跡は太く、急いでいて、傾いていた。誰かが安全を演出した。演出のインクはまだ新しい。


「切れば、無効化できるかもしれん」

 寺脇は震える指で配線を辿った。束はゲートの柱の内側で分岐し、天井の配管へ上がり、制御棟の壁を通って床に降り、足下でまた束ねられている。彼はペンチを取り出して、空中で刃を噛み合わせる。鉄の薄い音。指は迷っている。迷いは刃先を曇らせる。

「切っても、向こうに行ける保証はない。反応しなくなるだけかもしれん。閉ざされる動作のほうが優先される設計もある」

 彼はペンチを引き、ポケットに戻した。指先が小さく震えるのを止めるために、拳を一度握って開いた。


 蓮はゲートの枠を見上げ、視線を白い霧の筋が残した薄い跡へと移した。頼はその横でしゃがみ込み、床の汚れが霧の降り方でどの程度流されたかを観察する。凪砂は手帳を開き、ページの上に新しい欄を作った。タイトルは「遺留品」。左に「置くべきもの」、右に「渡すべき情報」と書き、罫線を引く。

〈置くべきもの:金属、硝子、火薬類、刃物、鏡面〉

〈渡すべき情報:名前、連絡先、出発地点、行き先〉

 連絡先に書くべき番号はもう繋がるか分からない。そもそも、誰に連絡が届くのかも分からない。それでも、欄を作る。欄を作ることで、ここで失うものと持っていくものを、自分で仕分けできる。


 ミツエがアユの耳を塞いだまま、凪砂に近づいて囁いた。

「ここで立ち止まるのが、いちばん怖いね」

 凪砂は頷いた。止まることは、考える時間をくれる。けれど、考えが増えるほど、足は重くなる。重さは列の形を崩す。崩れる前に、形のほうを先に決める。


 頼が立ち上がり、列に向き直った。

「順番を作る。まず、私が向こうへ行く。医療区画の確認。戻らない。次に蓮、寺脇。母子、負傷者は中央で待機。遺留品をゲート手前に置くこと。金属は全部。水は半分を置く。名札を作る。紙がない人は袖へ直接」

 彼女は手袋を外し、指で自分の脈を確かめる。脈は速いが、一定だ。手袋はポケットにしまわず、ゲートの手前の地面にきちんと置いた。

「向こうで手を使う。直接、皮膚で確かめる必要がある」


 蓮は胸ポケットから細い鉛筆を出し、自分の左胸に名前を書いた。綴木蓮。字ははっきりしていて、斜めに傾かず、止めと跳ねが強い。寺脇は地図の裏紙を破り、太い赤鉛筆で自分の名字だけを書いて上着の襟に貼り付けた。凪砂は手帳から小さく紙片を千切り、赤い紐の結び目の下へ挟む。名前。出発地点。今日の日付。思い出せる範囲の連絡先を、消えた番号も含めて書き込む。


 列のいくつかの場所で、同じ動きが広がる。帯の裏に名前を書き、ペットボトルにマジックで印をつけ、靴の踵に目印の傷をつける。人は無意識に、自分を「検査」する側と「検査」される側に分け始めた。自分で自分を検査する。手が届く範囲の重さを、歩ける重さに調整していく。誰も声を荒げない。誰も泣き叫ばない。泣く代わりに、手順が増える。


 少年の胸の帯を頼が直し、その上から人差し指と中指で軽く叩く。音で肺の奥の空気の残りを測る。浅いが、まだ動いている。ミツエはアユの名を何度か呼び、耳を塞いだ掌をゆっくり外す。アユは眉をひそめ、凪砂を見て、また目を閉じた。額は朝よりも冷たい。


 寺脇が制御棟の扉へ向かい、鍵が破られていることを確かめ、戻ってきた。中に入るべきか迷っているのが、歩き方で分かった。

「中で全制御を切れれば、噴射は止められる。けど、止めた瞬間にどんな閉鎖動作が走るか分からん。封鎖板が落ちたら、ここにいる全員が挟まる。……やれることは、配線の一部を“見える”状態にしておくことくらいや」

 彼はケーブルの束の外皮をほんの少しだけ剥いで、中の色分けを露出させた。赤、黒、黄。古い規格にありがちな単純な三色。最後に絶縁テープを緩く巻き直し、剥ぎやすいように端を折っておいた。切る瞬間には迷わないように、弾く準備だけはした。


 蓮がゲートの脚元にしゃがみ、床との固定ボルトを一本ずつ指で撫でた。緩んでいるボルトが二本。外せば枠がわずかに傾く。その傾きが、噴口の角度を変える。彼はボルトの位置を目で覚え、何も外さず立ち上がった。今は、触らない。触った結果起きることが分かっているものにしか、手を出さない。


 夕方が来る前に、光は鈍り、色の飽和が減った。放送は、さっきから止んでいる。音がないことが、最も不気味だ。敵が眠っているのか、見ているのか、それとも笑っているのか、判断ができない。判断できない沈黙は、判断を増やす。増えた判断は、列の形を曇らせる。


「順番どおりに行く。走らない。振り返らない。何があっても、戻らない」

 頼の声に、誰も反論しない。蓮が視線だけで彼女に合図を送り、寺脇が後尾へ目配せする。凪砂は手帳を閉じ、赤い紐の結び目を確かめ、右手の指先で鉛筆の芯の残りを触った。短い。短いから、次のページは慎重に使う。慎重すぎて、書く前に時が過ぎるのは、それでも避けたい。


 頼が一歩、ゲートへ進んだ。枠をくぐる瞬間、彼女は掌を上に向けて開いた。なにも持っていないことを機械に示すように。センサーは光らず、噴口は黙っている。頼は一定の歩幅を保ち、十歩を越え、二十歩を数え、そして止まらずに奥へ消えた。


 蓮が続く。彼の足取りは静かで、床との摩擦音が一定だった。ゲートの上の目玉が、彼の熱を追う。蓮は見ない。見ないことで、視線の矢印を折る。彼が消え、数を数える時間だけが残った。寺脇が続き、最後に凪砂が枠の前に立つ。


 枠は低く、覗き込むように屈まないと額が当たる。凪砂は息を短く整え、金属ではなく、紙に触れている自分の指先を意識し、枠をくぐった。センサーは反応しない。噴口は黙ったまま。足裏が床のざらつきを確かめ、膝が沈まないかだけを確認する。十歩、数える。十一、十二。振り返らない。目の端に、ゲートの縁の影が下がっていくのが見える。十三。十四。瞼の裏に白い霧の線が浮かぶ。十五。十六。彼女は自分の名を心の中で呼んだ。名は、足の裏に重さを集める。十七。十八。十九。二十。


 向こう側は、少し暖かかった。壁際に低い棚が並び、金属の盆、布、圧迫帯、古い包帯。医療区画の前庭。頼が振り返り、目で「無事」を伝える。蓮は視線で応じ、寺脇は肩の力をわずかに抜いた。


 残った者たちが順番にやって来る。ミツエはアユを抱いたまま、枠の前で一度だけ目を閉じ、すぐに開いてくぐった。センサーは光らず、噴口は黙った。少年は蓮の肩を使い、足で二歩ぶんの意思を示して枠を越えた。凪砂はそれを見て、手帳を開きかけたが、今は書かなかった。書くより先に、手を貸すべきときがある。


 全員が向こうへ移り終えたとき、ゲートは静かなままだった。放送は止んだまま。制御棟の窓は暗く、鳥の影も、風の影も、動かない。静けさが音のように鳴り、耳の奥で薄く震えている。頼が医療区画の扉を押す。鍵はかかっていない。重い蝶番が低く鳴り、薬品と布と、乾いた紙の匂いが溢れた。


 中は狭く、清潔を保つ気配の残骸があった。シーツは畳まれたまま黄ばみ、棚にはラベルの剥がれた小瓶。注射器のケースは空で、体温計は折れている。使えるものは少ないが、ゼロではない。頼は手袋をせず、指で瓶の口を拭い、匂いを嗅いで、安全なものだけを選り分けた。塩水。消毒。ガーゼ。包帯。ゼロではないという事実が、列の背骨へゆっくり返っていく。


 ミツエはアユをベッドに仰向けに寝かせ、枕の高さを手で整えた。アユは目を細く開き、天井の蛍光灯の長い影を見て、また閉じた。頼が額の熱を測り、脇を挟み、短く頷いて水を少し飲ませる。喉が動いた。喉が動く音は、外の放送よりも力があった。


 寺脇は部屋の隅で壁の図面を見つけ、指でなぞった。避難経路。封鎖板の位置。非常発電の切替。図面の端に、雑な文字で「SAFE」と書き足されている。太い筆致。外の注意板と同じ手だ。誰かが、ここでも同じ言葉で同じ方向を作った。


 蓮は扉の陰に立ち、外の通路を見張った。音はない。ないまま時間が伸び、伸びた時間が薄く削れていく。静けさは優しくもあり、罠でもある。頼が短く言う。

「一時間だけ、ここにいる。体勢を整える。二時間はいない。長い静けさは、よくない」


 凪砂は手帳を開いた。さっき作った「遺留品」の欄の下に、新しい欄を足す。

〈ここに来るまでに拾ったもの/ここから先へ持っていくもの〉

 拾ったものは、約束。名前。二歩。水の重さ。鳥居の冷たさ。焼却口の口径。手のひらの匂い。持っていくものは、同じもののうち、今夜失われない分だけ。彼女は芯の短い鉛筆で、書けるだけ書く。紙は水を吸い始め、字が少しだけにじむ。にじんでも、読める。


 夜が来た。ゲートは静かなまま。放送は止んだまま。音がないことが、最も不気味だ。だから、音を作る。頼が瓶を置く音。寺脇が図面を巻く音。蓮が靴裏の灰を払う音。ミツエがアユの髪を撫でる音。凪砂がページをめくる音。小さな音の集まりが、列の形を守る。


 眠りにつく前、凪砂は自分の名札に指をあて、ゆっくり押した。紙越しに感じる自分の脈は小さく、しかし確かだった。名は、自分へ戻るための短い橋だ。橋は向こうに架かるものだと思っていた。違う。こっちにも架ける。戻らないために。戻らないと決めるために。名札は、戻らないための印だ。


 灯りを落とす。闇は静かだ。遠くで水が落ちる音がする。誰も放送を恋しまない。放送を恋しがるのは、これまでの私たちだった。明日の私たちは、別の音で歩く。

 凪砂は最後の一行を書き、鉛筆の芯をそっと閉じた。


〈ここで立ち止まるのがいちばん怖い。だから、立ち止まる前に、置く。置けるものを置いて、進めるだけ進む。検査は、私たち自身がやる〉


 外で、ゲートの上に取り付けられた小さなライトが、一度だけ赤く点滅して、消えた。誰も気づかなかった。気づかなくてよかった。気づいていたら、眠れなかった。眠れなければ、明日が遠ざかる。明日は、近いほうがいい。近い明日には、歩幅が届く。届く歩幅は、列の形を守る。


 夜は深く、音は薄く、列は静かに息を合わせた。音がないことは、もう恐怖ではなかった。音をつくる手が、ここに揃っているからだ。

 明日、また検査を続ける。失うものと持っていくものを、自分の手で分ける。分けることが、生きることの代わりになるうちは、まだ歩ける。歩けるうちは、進む。進むうちは、戻らない。戻らないなら、選ぶ必要がある。選ぶために、名札を胸に貼る。

 そして、眠る。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ