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灰のレースー「線路の向こうは安全地帯」進む一歩が最も怖いサバイバルが始まる  作者: 妙原奇天


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第4話 硝子の鳥居

 南西の空は白く乾き、風が向きを変えるたび灰が横へ滑った。建物の角が黒く溶け、日陰は油膜のように鈍く光る。線路は途中で持ち上げられ、熱で飴のように曲がり、アーチの形で凍りついていた。二本のレールが空へ弓を描き、真ん中は透けるほど薄く、陽の角度で青みが混じる。寺脇はそれを見上げ、顎をわずかに上げて言った。


「橋桁が落ちて、レールが吊られて残ったんや。見た目は鳥居やけど、実際は鉄の畝や。ここが『線路への最後の入り口』。ここをくぐれば操車場に出る。出たら戻られへん可能性がある」


 列の息がひとつ分だけ浅くなった。ミツエはアユを毛布に包み直し、その指が震えないように一度指の根元で握り直す。廻谷頼はすでに段取りの声を落としている。迷う余白をつぶすための、いつもの声だ。


「三層に分ける。先頭の偵察、中央は母子と負傷者、後尾は補助と警戒。中央は私が見る。偵察は蓮。後尾の指揮は寺脇さん。凪砂は中央で」


 綴木蓮が頷き、肩から下げた小さな工具袋を前に回す。寺脇は地図筒を脇に挟み、鳥居の右柱の根元を靴で叩いた。音は乾き、金属というより硝子に近い澄み方をしている。凪砂はその音が骨の内側で跳ね返るのを感じ、腕に括りつけた手帳の角を無意識に押さえた。


「レールはガラス化してる。触るな。崩れへん代わりに、割れる」


 鳥居の下は黒い影で、影の内側はひんやりしていた。凪砂は柱に指先を置く。表面は冷たく、乾いていて、指の腹がくすぐったく痺れた。硝子の手触りだった。触れた記憶が皮膚の奥に残り、今離しても、まだ触っているみたいな余韻が続く。


「行くぞ」


 蓮が鳥居の下へ消え、五歩分の距離をとって頼が中央を促す。寺脇は最後尾の列の幅を詰め、落ちる瓦礫を避ける角度を決める。鳥居の向こう、灰の薄い幕が切れて視界が開けた。操車場。複数の線が広がり、線と線の間に低い草の黒い影が連続している。草は焼け、その上を灰が均等に積もっていた。


 誰もいない。風の音だけが広い場所を斜めに切っていく。遠くで何かが動いた。耳慣れない金属の擦過。蓮が左手を挙げて停止の合図をして、しゃがみ、右の手袋の指で地面の突起をなぞった。凪砂は中央の列でアユの呼気を確かめ、ミツエの肩の高さを見た。呼吸はまだ速いが、さっきよりは揃っている。


 寺脇が低く言う。


「地面の突起、見えるか。散水ノズル……いや、違う。等間隔すぎる。口径も広い。焼却の噴口や」


 空気が薄くなる。頼が凪砂の肩を軽く引いた。引く力は弱いのに、身体が自然に従うほど確かだった。


「ここは“向こう”へ押し出すための口。戻ろうとする群れに火の壁を作るための配列」


 言葉が耳を過ぎた瞬間、頭の奥で形になった。操車場という器。線路の分岐という誘導。焼却の噴口という圧力。出口はひとつ。入口は、鳥居だけ。境で押し出す装置。境を守る装置。


 スピーカーが鳴った。昨日までのザラつきより一段クリアで、語尾が鋭く耳を刺す。


『横断者は列を崩さず進行せよ。戻るな。進め』


 ミツエが手を挙げた。蓮ではなく、声の方向へ。


「戻るって、どうして言うの。誰に向けて?」


 答えは返らない。指示だけが重なり、重なるほど文が軽くなる。不思議な軽さだった。軽さに足を預けると、気づかないうちに前へ傾く。凪砂は手帳を開き、短く書く。


〈誰かに向けて、ではなく“列”に向けて。列という形に効果がある言葉が選ばれている〉


 蓮が戻ってくる。腕に灰が薄く積もり、足取りは速いが、息は乱れていない。彼は操車場の端を手で示した。線の外側、黒ずんだ地面。そこだけ灰が薄く、ぼこぼこと泡みたいな形が連続している。焼けたあとにできる気泡の痕。溶けた金属片が陽に鈍く光り、その上に靴の半分の形が残っていた。右足。左足はない。


「戻ろうとした足跡がある。途中で途切れてる」


 寺脇が唇を噛んだ。言うかどうか迷う間に、頼が拍を打つように列へ目配せをする。ここで黙ると崩れる、と分かっている目だ。寺脇は短く息を吐き、言葉を置いた。


「封じ込めや。向こうは安全やけど、こちらへは戻さへん。戻る流れを焼却で遮断し、境界を守っとる。合理的で、ひどい」


 その説明は、理解しやすく、救いがなかった。ミツエがアユの頭を包むように抱き、目を閉じる。


「向こうへ行けば助かる。でも、戻れない」


「戻られへんように、設計されてる」


 寺脇の声は乾いて、砂の上を滑った。蓮は頷き、偵察の続きを簡潔に伝えた。操車場の中央は線路の歯が噛み合うように枝分かれし、その分岐の根元に焼却口が一定の角度で並ぶ。風向きに応じて噴出の偏りが出るよう、出口の向きが互い違いに設置されている。火は壁になる。押し戻す壁ではなく、押し出す壁。戻るという選択を物理的に消す壁。


「進む」


 蓮の声は低く、短かった。頼がすぐに続ける。


「中央の移動速度は変えない。母子と負傷者は列の中心を維持。焼却口の上に体重を乗せない。蓋があるとはいえ、熱で弱くなっている可能性がある。踏むなら口と口の間の梁」


 寺脇が指を鳴らし、列の後尾に目配せした。


「列は細く、長く。隙間を一定に。散らばるな。音に釣られるな」


 スピーカーが再び鳴る。今度は言葉の境界に小さな笑いのようなノイズが混じった。人為の匂いだ。凪砂は鳥居の柱へもう一度触れた。冷たい。さっきより冷たい。風向きが変わり、影が指に重なる。硝子の冷たさは信号のように身体へ伝わる。生きているものの冷たさではない、ものの冷たさ。けれど、その確かさが今はありがたい。


 列は鳥居をくぐった。足音は薄く、灰を押しつぶす音と混ざって長い帯になった。噴口は円形で、直径は手のひらより少し大きい。蓋は薄い金属で、中央に穴がある。熱は感じないが、縁の色が不自然に濃い。焼けたことがある色だ。頼が凪砂の肩越しに指をさし、踏んでいい帯を示す。


「ここ。ここ。ここは空洞。避ける」


「分かった」


 ミツエが小さく頷き、アユを胸から下の位置に抱き直す。アユは眠っているのか、軽くまぶたを動かしただけだった。少年は蓮の背で体重を半分預け、もう半分を自分の足に乗せるようにゆっくりと息を整えている。胸の帯は締まり過ぎず、緩過ぎず、そのぶんだけ息は浅い。


 操車場の真ん中に入ったとき、風の向きが変わった。灰が左から右へ流れ、空が一段白む。金属のきしみは遠く、代わりに低い唸りが地面から上がってくる。凪砂は足の裏でそれを受け、骨の内側でたしかめる。頼も感じたようで、短く言う。


「今、起きる可能性がある」


 その「起きる」が火だと、誰も言わなかった。言わなくても分かるものは、言葉にすると軽くなる。軽くなると、油断が入る。寺脇は右手を上げ、列の肩の高さを揃える合図を出した。揃う肩。揃う影。揃う呼吸。揃う足音。揃えることで、散らばる恐怖をつぶす。


 音が変わった。耳鳴りの手前で、空気に棘が立つ。次の瞬間、操車場の端で短い火が咲いた。噴口ではなく、壊れた配管の裂け目から。白い火。音は鋭く、しかし長続きはしない。確認だ、と凪砂は思った。誰かが動作確認をしている。今、ここで。列を見て。


「走らない。歩幅は変えない」


 頼の声が列の背骨を通る。蓮が少年の体を持ち上げ直し、寺脇が進路を一つだけ左へ寄せる。噴口の列から半歩分だけ遠い側を選ぶ。その小さな差が、厚みになる。厚みは壁より頼りないが、ゼロよりは強い。


 放送がまた来る。今度は風に乗らず、真上から降る。


『横断者。列を崩さず進行せよ。戻るな。戻るな』


 ミツエが抑えた声で呟く。


「戻らないから、言わないで」


 誰の返事もなく、火の音が一度だけ短く鳴る。灰は舞い上がり、空が薄くなる。凪砂は手帳を開いた。鉛筆の芯はもう短く、指で包むと手の熱で柔らかくなる。


〈安全と自由、どちらもは選べないのか。選べないなら、どちらの死に方を選ぶのか。今の私は“選ぶ”という言葉に寄りかかっているだけかもしれない〉


 蓮が立ち止まらずに言った。


「選ぶのは“今”だけでいい。先は着いてから選べ」


「着けなかったら?」


「そのときは、そのときの場所で」


 短い対話は、灰の上でよく響いた。言葉が軽くならないように、力を抜き過ぎないまま置かれているのが分かった。凪砂は頷き、足元の梁を確かめ、噴口を跨いだ。冷たさはない。熱もない。そのことが、逆に怖い。いつ来るか分からないほうが、いつも来ているより怖い。


 操車場の真ん中あたりで、無人の台車が動く音がした。小さな車輪が錆びたレールの上をひとりでに進むような、寂しくて、厄介な音。蓮が音の方向だけ目で追い、肩の角度を変える。


「右から来る。線は跨がない。待つ」


 台車は姿を見せないまま、音だけで近づき、音だけで遠ざかった。遠ざかった先で、短い金属の衝突音。何かに当たって止まったのだろう。頼が囁く。


「誰かが動かしてる。風じゃ動かない。人がいる。見てる」


 見られている、という言葉は、背中を冷たくする。凪砂は鳥居を思い出した。あの硝子の冷たさ。触れていないのに指の腹に残る触感。見られている事実も同じだ。触られていないのに、触られた痕が残る。痕に支配されないように、足場だけ見る。腕の紐だけ確かめる。アユの呼吸だけ数える。少年の脈だけ感じる。


 夕刻に差しかかり、操車場の影が長く伸びる。境界の向こうは陽が当たり、こちらより空が淡い。風はそこから吹き、灰は向こうへ流れていく。向こうは乾いて、こちらは湿っている。境は風でも示される。寺脇が短く言う。


「出口、見えた」


 彼が指さした先、複数の線が一本に収束する手前に、地下へ降りる斜路の口があった。斜路の両脇には低い壁。壁の上には何もない。ただ、そこだけ灰が薄く、足跡が重なっている。斜路の先は光が差し込まず、代わりに柔らかい風の逆流だけが肌を撫でた。


「地下の退避路。生きてる」


 頼が息を整え、ミツエに視線を送る。ミツエは頷き、アユの毛布を直す。蓮は少年の重心を直し、肩の筋を一度だけ伸ばした。下りに入る前に、誰もが体のどこかを確認する。靴紐。帯。地図。紐。手帳。


 スピーカーが最後に一度だけ鳴った。さっきよりさらにクリアで、今度はやけに近い。鳥居のほうからではなく、前から。


『横断者。列を崩さず進行せよ。戻るな』


 凪砂は手帳に書いた。


〈合図は合図。善意でも意図でも、従って進めば測られるのは足跡だけ。結果だけが私たちを測る〉


 寺脇が放送の言葉を遮るように低く言う。


「放送は道具や。道具は使う側の手の形を映す。ここでは“戻るな”が正義や。向こう側の」


 蓮は頷かなかった。頷かないという頷きの代わりに、斜路へ足を乗せた。列が続く。焼却口は背後に広がり、鳥居の硝子は遠くなった。風はまだ向こうから吹き、灰は前へ流れる。


 斜路の途中、壁の角に黒い焦げ跡があった。手のひらの高さ。誰かがここで支えた場所。支える前に、火の舌が触れた場所。頼が指でその縁をなぞる。


「熱は古い。ここ一日ではない」


「ここ一日じゃないということは、何日も、同じことが繰り返されてる」


 凪砂は頷き、目を閉じずに瞬きをした。目を閉じると、鳥居の硝子が裏まぶたに出る。硝子は美しい。美しいものを境界に使うのはずるい、と彼女は思った。怖いものは醜くあってほしい。美しいと、近づきたくなる。近づくと、選びたくなる。


 斜路の底は広く、天井が低い。壁に沿って小さな灯りの痕跡が並び、今はすべて消えている。空気は湿り、遠くのほうで水が落ちる音がする。蓮が止まり、頼が列を整える。寺脇は後尾の人数を確認し、数の端を確かめる。数は合った。誰も落としていない。誰も増えていない。


「ここで一旦休む。二分だけ」


 頼の声は短く、しかし柔らかかった。二分が短いことは分かっているが、短さが崩壊を防ぐことも分かっている。二分のうちに、人は泣けない。泣く前に呼吸を整える。泣く代わりに水を分ける。泣く代わりに帯を直す。泣く代わりに、明日の足場を考える。


 凪砂は手帳を膝の上に置き、最後の余白を探した。紙はほとんど残っていない。鉛筆の芯はもう限界に近い。親指と人差し指で挟むと、すぐ折れそうだ。彼女はそれでも書く。


〈安全と自由は、両方は選べないのか。もし選べないなら、どちらの死に方を選ぶのか。安全の中で消えるのか、自由の途中で消えるのか。今はまだ“途中”でいたい。途中でいられるほうへ行く〉


 書いた文字は薄い。薄いのに、紙の裏まで透けるように見えた。蓮が彼女の横に腰を下ろし、何も言わずに手帳を一瞥した。その視線は、言葉にしない了解の形をしている。頼が向こうでアユの額に手を当て、ミツエがその手の上に自分の手を重ねた。寺脇は地図を巻き直し、筒の蓋を確かめた。少年は壁に背を当て、浅い息をつなげた。


 地上から風が抜け、灰の匂いが弱くなる。上では、硝子の鳥居が夕陽を受けて赤く縁取られているはずだ。美しい。美しいから、怖い。怖いから、進む。進むから、選べる。選べるから、まだ生きている。


 二分が過ぎ、列は立ち上がる。蓮が前へ、頼が中央へ、寺脇が後ろへ。凪砂は手帳の角を押さえ、赤い紐の結び目を確かめた。ほどけない。すべてがほどけそうなときに、ほどけない結び目が一個あるだけで、人は前を向ける。鳥居の硝子は冷たく、焼却の口は乾いて、放送は近く、風は向こうから。選ぶべきものは、目の前にある。


 列は、斜路の奥へ消えていった。背後で、乾いた金属音が一度だけ鳴り、すぐに風が持っていった。灰は上へ流れ、下は静かだ。静けさは、進む人の背中を押す。押された背中が、次の人の足を呼ぶ。足が揃う。揃うたび、境は遠ざかる。遠ざかった境は、しかし、必ず背後に残る。


 硝子の鳥居は見えない場所にある。見えないのに、指の腹はまだ冷たい。凪砂はそれでいいと思った。冷たさが残っているうちは、触れたことを忘れない。忘れないうちは、戻らない。戻らないなら、進むしかない。


 たぶん、そのために、鳥居は美しく作られていた。美しさは、記憶を長持ちさせる。長持ちする記憶は、列の形を守る。列の形が守られれば、誰かが生きつく場所が増える。生きつく場所が増えれば、選べる明日が一つ増える。


 放送の声はもう聞こえない。代わりに、水の音が近づく。暗さに目が慣れ、壁の凹凸が輪郭を持つ。地下の匂いは新しい。新しい匂いがする場所は、まだ人の手が届いていない。届いていないなら、そこに最初に触れるのは、今の私たちだ。


 凪砂は最後に小さく息を吐き、胸の内側で誓いを作った。白い息はもう見えないが、息で作る誓いは、見えないから消えにくい。消えにくい誓いを、今は一つ、持っていたい。


 進む。

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