第3話 骨のきしみを聞け
昼の光は白く乾いて、影の縁だけが濃かった。南西へ伸びる線路は灰に半分埋まり、その上を渡る古い高架が、夏に熱せられた鉄の匂いをまだ放っている。骨組みは曲がり、溶けかけた飴のように垂れ、風が通るたび、金属の微かな唸りが腹の底まで響いた。
寺脇定が足を止め、高架を睨むように見上げた。額に灰が貼りつき、汗が細い筋を作って落ちる。片手で丸めた地図筒を背に押し当て、もう片方の手で鉄骨の継ぎ目を指差した。
「ここは“節”や。荷重が偏ってる。渡るなら一列。歩幅、同じに。立ち止まるな。リズムを崩したら、そこから落ちる」
綴木蓮が短く頷いた。先頭の顔は硬く、眼だけが遠くの明暗の差を計るように動く。
「進もう。時間を食うほど死ぬ」
列の中にざわめきが走った。ミツエはアユを抱き直し、凪砂は腕に括りつけた手帳の角を押さえる。手帳の紙は熱で波打ち、鉛筆の痕が指に移って黒くなる。廻谷頼は背負っていた毛布を降ろし、最後尾を振り返って全体の歩幅を合わせた。
「呼吸の合図はいらない。足だけ合わせて。十を数えたら渡り切る」
高架の下は暗く、崩れたコンクリートの塊が影を作っていた。そこをくぐると、空気の密度が一段重くなる。鉄骨が身をよじるように軋み、耳の奥で“きい”と細い線が引かれる。凪砂はその音を骨の音だと思った。鉄の骨、町の骨、列の骨、そして自分の中の骨。全部が、同じ方向へ無理やりに動かされて、嫌がるみたいに鳴っている。
先頭から、寺脇の合図が落ちてきた。
「歩幅、今。一定、一定、一定」
列が昇り、鉄板の上へ移る。足もとの鉄は柔らかいゴムのようでいて、実際には硬く、靴底を通じて冷たさが脛を刺す。凪砂は視線を落とし、枕木の等間隔を盾に歩幅を支える。足を止めない。止まったら、どこか別のところで止まる命になる。
半分ほど渡った時だ。乾いた音。後方で、短く潰れた悲鳴。列の動きが一瞬鈍り、すぐに揺り戻しのように速くなる。それでも振り向く者が出る。頼の声が跳ねた。
「止まらないで! 視線だけ後ろ、足は前!」
足場の隙間から下を見ると、砕けたコンクリートの間に、小さな人影が斜めに挟まれていた。最後尾の少年だ。膝から下が瓦礫に埋まり、上半身だけがねじれて鉄柱にもたれている。顔は灰に汚れ、唇の色が悪い。薄い胸が浅く上下していた。
蓮が前を見たまま言った。
「救助隊じゃない。進む」
その言葉に、列の表面温度が一気に下がった気がした。誰かが息を呑み、誰かがかすれ声で反対しかけて飲み込む。
頼が蓮の背へ一歩踏み出し、短く言い切る。
「最小人数で救助する。三人。ロープ代わりの布、木材、テコ。私と凪砂、あと一人」
凪砂は、手帳より先に手が上がっていた。
「行く」
蓮の視線が凪砂に向き、短い間が生まれる。その間に寺脇が割って入った。
「構造を見る。落ちるリズムがある。俺が節を指す。そこから外れるな。残りは高架の出口まで進め。二十歩先で待機」
蓮は、ためらいは短く、決断は早かった。
「分かった。列は俺が出す。止まるな」
ミツエがアユの手を握り、凪砂を見た。視線は揺れているのに、言葉は揺れない。
「ここで待つ。必ず戻って」
凪砂は頷き、自分の喉の奥の乾きを意識した。約束は、喉で作られる。喉が乾いているほど、言葉は軽くなり、でも軽さのぶん、遠くまで飛ぶ。
三人は分かれた。寺脇が鉄骨の節を左手で示し、右手で短くカウントを切る。
「いち、に、いち、に。踏むのはこことここ。割れ目を跨ぐときは腰を落とせ」
凪砂は腰の紐を外し、薄い毛布と手拭いを裂いて繋ぎ、ロープ代わりにした。頼がその端を自分の腰に回し、空いた手で折れた手すりをテコにする。もう一人の男――作業ズボンに軍手、名前を聞きそびれた――が、足場の板を拾い、少年の足を覆うように滑り込ませる。
崩れは一度では終わらない。灰は軽いのに、水に濡れた紙のようにまとわりついて重さを増す。少年の足は灰と砂利に吸われ、引くと皮膚が擦れて血が滲む。頼が短い声で痛みの合図を求め、少年は返事代わりに息を吐いた。呼気は細く、途切れ途切れ。
「吸わないで。吐くことを先に。吸うのは、あとでいい」
頼の声は指示であり、祈りでもあった。凪砂はロープを引き、頼がテコで瓦礫を起こし、男が板を滑らせる。三つの動きが合う瞬間を探す。合わせ損ねるたび、鉄骨がきいと鳴り、遠くで誰かが「やめろ」と小さく言って、しかし誰もやめない。
「今!」
頼の合図で全員が力を入れた。少年の体が半歩ぶん浮き、瓦礫がずれ、再び落ちかけたところを板が支えた。灰の粉が舞い、喉の奥が砂で詰まる。凪砂は咳を堪え、ロープをさらに引く。少年の靴が見えた。裸足だ。皮膚が汚れと血で黒くなっている。
「もう一回」
頼が言い、凪砂は頷く。テコの位置を数センチずらす。寺脇の指先が、次の節を指し示す。その合図だけは、何度聞いても安心した。そこに、嘘がなかったからだ。
「今」
少年は、抜けた。体全体が滑り出し、頼の腕の中へ落ちた。軽い。軽すぎた。抱き上げる頼の顔に、痛みと安堵が同時に走る。
「横に」
三人は鉄骨の陰、比較的平らな場所へ少年を移し、頼が胸を触診する。肋骨の形を確かめ、皮膚の下の不自然な段差に指を留める。少年は声にならない声を出し、歯の間から白い息をこぼした。
「折れてる。複数本。浮いてる音がする」
頼は自分の帯を外し、布を折って胸に当て、圧迫の固定を始める。呼吸が浅すぎる。空気は入っても出にくい。顔色は土の色に寄っていく。
「痛み止めは?」
凪砂が問うと、頼は短く首を振った。
「ない。冷やせない。できることは固定と、できるだけ動揺を避けること。動かすのは悪化させる。でも、ここで止まるのはもっと悪い」
その“もっと悪い”は、具体的で、残酷で、正直だった。凪砂の胸の奥で、何かがきしんだ。助けるとは、歩かせることなのか。歩かせるとは、痛めつけることなのか。それでも進めと言うのは、善いのか。
高架の反対側から、列のざわめきが戻ってきた。蓮が先頭で、高架の出口付近に列を整列させている。動かさないために、動かし続ける。寺脇が頷き、頼が少年の肩に手を添えた。
「起きられる?」
少年は目を開け、焦点の定まらない視線で凪砂を見た。凪砂は薄く笑う。
「二歩だけでいい。二歩歩いたら、抱いてもらおう」
少年は頷いたように見え、体を起こす。その動きが胸の中で軋む音を作り、頼の顔がわずかに歪む。布の帯で固定された胸郭が、短く上下する。
「いち」
少年が一歩進む。鉄に靴底が擦れ、白い粉が舞う。
「に」
二歩目を踏んだ瞬間、膝の力が抜け、少年の体が沈んだ。頼が支え、凪砂が背中に腕を回す。しかし少年の意識は灯りを落とすように消え、首が軽く傾く。
「抱える」
蓮の声が降りた。彼は二歩で駆け寄り、少年を抱き上げる。抱き方は覚えていた人のそれで、迷いがない。少年の頭が蓮の肩に乗り、呼気がかすかに彼の襟を揺らす。
その時だった。空気を裂くように、耳障りな金属音が高架の腹を這い、続いてスピーカーの割れた音が周囲のコンクリートに反響した。
『線路を横断せよ。向こうはセーフ・ゾーン。線路を横断せよ。向こうはセーフ・ゾーン』
声は近い。近いのに、方向が分からない。複数の壁に跳ね返って、耳が混乱する。凪砂は思わず蓮を見る。寺脇が顔を上げ、鼻で笑った。
「“セーフ・ゾーン”やて? 鉄道にそんな用語はない。誰が教えた」
蓮の目が細くなる。音の切れ目に小さな空白が挟まる。その空白を追うように、彼は視線を瓦礫の谷間へ滑らせた。
「あった」
瓦礫の陰、割れた梁の裏に、小型の拡声器が置かれていた。黒いプラスチックの箱。スイッチは入ったばかりなのだろう、側面のバッテリーはまだ温かい。蓮が指先で触れると、熱が皮膚に移る。彼はその熱を握り、少しだけ強く息を吐いた。
「ここに置いて、電源を入れたやつがいる。今朝、またはついさっき」
列が黙った。噂が誰かの作為を孕んでいた事実が、みんなの歩幅をわずかに乱す。頼が拡声器を見て、ミツエとアユを見、それから少年の胸の上の帯を確認する。寺脇が低く言う。
「罠か親切か、判断は今いらん。問題は、これがあることで、足が止まることや。止まったら落ちる。動け」
蓮は拡声器のスイッチを切り、電池を外した。電池の端子はきれいで、泥ひとつ付いていない。最近交換された印だ。彼はそのまま電池をポケットに入れ、拡声器本体を瓦礫の上に伏せた。
「音に足を預けるな。足は自分のとこの鉄に預けろ」
言葉は無骨だが、意味は真っ直ぐだった。凪砂は手帳を開き、震えの残る指で短く書く。
〈誰かの善意でも、意図でも、進ませる合図は合図。合図に従った結果だけが私たちを測る〉
列は再び動き出す。寺脇の「一定」の合図に合わせ、鉄に均等に重さを落としていく。頼は少年の頭を支え、蓮が胴を支え、凪砂が足元の板を滑らせる。三人で運ぶのは重いのに、重くないふりができた。そうしないと、重さのほうが勝つからだ。
高架を渡り切った時、太陽は少し傾き、影が長く伸びた。風が変わり、灰の粒の向きが南西から北東に反転する。蓮は少年を地面に静かに降ろし、頼が呼吸と脈を確かめた。
「浅い。けれど、ある。固定はこのまま。歩けない間は交代で担ぐ。肩を作る位置を決める。交差点まで行ったら再度判断」
寺脇が地図の余白に小さな×印を付け、「高架×」と書いた。そこはもう、通らない場所になった。凪砂はミツエと目を合わせる。アユは母の胸で眠っている。額の熱は少し下がり、口元に色が戻っていた。
夕方。ビルの間の風は冷たく、骨の内側に入ってくる。列は細く伸び、長く影を引きながら歩く。少年は意識を戻したり落としたりしながら、蓮の肩の上で二歩ぶんの夢を見た。二歩歩いたという事実は、体に残り、列に残り、言葉にならなくてもみんなの足を前に押す。
やがて、蓮の歩幅がわずかに揺れ、頼が肩替えを申し出た。蓮は首を横に振る。少年の手が彼の服の裾を握っているのを、凪砂は見た。握りは弱い。弱いのに、放そうとしない。放したら、どこかに落ちてしまうと分かっている握り方だ。
「まだいける」
蓮の声は低く、穏やかだった。そこには苛立ちがなく、ただ、選んだ重さを自覚している音があった。
寺脇が前方を指差す。
「交差点。そこで一旦整える」
角を曲がると、広い道路に出た。アスファルトは波打ち、マンホールの蓋がねじれて飛び出している。道路標識は膝の高さで折れて、矢印が地面を刺していた。そこに、先に描かれた赤鉛筆の矢印と同じ筆跡の新しい印があった。
〈南西〉
矢印の尾は短く、描いた者が急いでいたのが分かる。寺脇はそれに重ねて、今度は矢印の先に小さく“休”と添えた。休むという漢字は、うまく息を抜くための指示だ。
短い休息。頼が少年の胸の布を点検し、ミツエがアユの唇を水で湿らせる。蓮は何も飲まず、背中を伸ばし、肩の筋をゆっくり解いた。凪砂は手帳を開き、鉛筆の芯を袖で拭ってから書く。文字は少し滲み、紙は空気の水分を吸って柔らかい。
〈助けたのに、痛めつけている気がする。それでも進むのが、助けることだと教えられる。進む音に紛れて、私たちの良心も軋む。骨といっしょに〉
そのとき、また遠くで放送が鳴った。さっき切ったはずの拡声器とは違う、もっと古いラジオのようなノイズ混じりの音だ。
『……線路……横断……セーフ……』
途中で消え、風が代わりに答える。誰も立ち上がらない。寺脇が肩を竦めて笑い、蓮は何も言わず、少年の額に浮いた汗を親指の腹で拭った。
再出発。影がさらに伸び、空は夜に向かう準備を始める。骨のきしみは止まない。鉄の骨も、人の骨も、心の見えない骨も、全部が小さな音を立てながら進む。音は耳から消えやすい。だが、消えたあとに残る沈黙が、進んだ距離を測ってくれる。
交差点をもう一つ渡ったところで、少年が薄く目を開けた。蓮の肩の上で、唇がわずかに動く。
「……に……ほ」
頼が耳を寄せる。
「二歩、歩けたって言ってる」
凪砂は思わず笑って、泣きそうになった。手帳に書く必要もないくらい、鮮やかな二歩だった。蓮が短く顎を引いた。
「見た。だから、次は俺が二歩分進む」
少年はそれを聞いたのか聞かなかったのか、再び目を閉じる。息は浅く、しかしつながっている。
夕暮れの色が街に落ち、灰の白さは青に変わる。高架の向こうから、また骨の音がした。別の列なのか、崩れなのか、確かめには行けない。行けないと分かっていることが、逆に心を楽にする瞬間がある。選べない道が消えると、選ぶべき道の輪郭が濃くなるから。
ミツエが静かに言った。
「ねえ……“セーフ・ゾーン”って、結局どこにあるんだろう」
寺脇が振り返らず、前だけを見て答える。
「言葉の上。地図の上。放送の上。ほんまにあるのは、今、足が載ってるこの線の上や」
蓮が続ける。
「渡れる線と、渡れない線の、ちょうど上」
頼が付け足す。
「だから、足を揃える。揃えた分だけ、落ちにくい」
凪砂は手帳を閉じ、親指で赤い紐の結び目を確かめた。ほどけない。けれど、もしほどけても、今なら結び直せる気がした。骨が軋む音を、もう少しちゃんと聞けるようになったからだ。
その夜、列はビルの陰で小さな火を起こした。火は弱く、灰を動かさない程度の控えめな明るさしか持たなかったが、十分だった。頼が少年の体勢を整え、ミツエがアユを膝に置き、寺脇が明日の進路を頭の中でなぞり、蓮は周囲に耳を澄ませる。凪砂は火の手前で膝を抱え、今日一日の音を胸の奥で並べてみた。鉄のきしみ、誰かの息、紙を破る音、布が締まる音、足が揃う音、そして、拡声器の嘘の音。どれも混ざって、同じ方向へ押していく。
火がぱちり、と小さく弾けた。蓮が視線だけで凪砂を呼び、彼女も視線だけで応えた。言葉にすると崩れそうなことほど、言葉にしないほうが強い夜がある。貴重な水を一口ずつ回し、唇を湿らせ、喉に道を作る。明日の一歩は、今湿ったこの喉を経由して生まれるのだと、凪砂は思った。
眠りは浅く、短く、そしてありがたかった。夜のどこかで、遠い鉄橋が短く泣いた。音はすぐに消え、代わりに、それを聞いたという事実だけが残った。骨のきしみは止まない。止まないまま、朝へ連れていく。止めるのは、終わりだけでいい。
夜明け前、凪砂は手帳をひらき、今日の始まりの一行を書いた。
〈骨のきしみを聞け。私たちは骨でできている。きしむたび、進んだぶんだけ、形を変えていく〉
火が消え、灰が静まり、空が薄くなる。列は立ち上がる。蓮は少年をもう一度抱き、頼が帯を締め直し、寺脇が指で南西を示し、ミツエがアユの毛布をはだけないように整える。凪砂は赤い紐の結び目を確かめ、深く息を吐いた。白い息は、もうほとんど見えない。けれど、見えなくても、ここにある。見えないもののほうが、長く残る。
進む音に紛れて、今日もきっと良心は軋む。軋んでもいい。軋むぶんだけ、手は離れにくくなる。手が離れにくいほど、落ちにくい。落ちにくいほど、二歩目が近い。
列は、骨の音を連れて歩き出した。




