第2話「白い息の誓い」
夜明けの色は、白かった。
灰の雲が空をすり傷のように覆い、地面のあちこちで崩れかけの瓦礫が小さく鳴る。火は昨夜の名残を残して消え、黒い焦げ跡に靄の水気が降りて、匂いだけを濃くしていた。
凪砂は、眠るアユの頬に手を当てた。
熱い。掌が押し返されるくらいの熱。微かに早い呼気が、唇から白くほどけては、すぐに灰の粒と混じって消える。ミツエは肩から外れかけた毛布を両腕でたぐり寄せ、震える唇で娘の名を呼んだ。
「アユ、起きなくていい。息だけして」
声は明るく作られていたが、喉の奥は泣き腫らした色をしていた。
廻谷頼が手を伸ばし、アユのまぶたを軽く上げて瞳の動きを見、脈を測った。手は習慣のある動きをする。
「脱水。夜のあいだに汗をかいて、水を補えなかった。今ここで水が要る」
頼の視線が、周囲の建物へ流れる。瓦礫の海に突き出た、四階建ての鉄筋。階段室の窓が割れて朝の白さを吸い込み、屋上に銀色のタンクが載っているのが見えた。
「屋上のタンク。生きていれば少しは残ってる。灰は入ってるだろうけど、濾せば飲める」
寺脇定が、肩に掛けた地図の筒を鳴らしながら首を振った。目は蓄えた疲れを誤魔化すようにぎらついている。
「列から離れたら、戻れん。子どもがいれば列は止まる。止まれば死ぬ。そうならんためにここまで歩いてきたんや」
綴木蓮は無言で灰を払った。髪に薄く積もった白が、朝に光っている。
「寺脇さんの言う通りだ。時間で死ぬ。道草してる間に、空気も食料も減る。俺たちの背中を押してるのは希望じゃない。残量の数字だ」
言葉は冷たかったが、凪砂の耳には不思議とまっすぐ入ってきた。
ミツエはうつむいて、凪砂と頼に頭を下げた。
「私は、列を止める人間になりたくない。でも、娘は置けない。どうしたらいいのか分からない」
凪砂は手帳を握る。赤い紐は昨夜の灰を吸い込んでくすんでいた。彼女はためらい、そして一気に二枚だけページを千切った。荒い紙の繊維が音を立てる。鉛筆を走らせる指は震えていたが、字は読める形にまとまってくれた。
一枚目。
〈私が上へ行く。水をとって戻る。〉
二枚目。
〈戻れなければ、先へ進め。待つな。〉
蓮が手を伸ばして二枚を受け取った。目だけが動く。
「本気か」
「約束は必要。約束がないと、誰かが誰かを恨むから」
寺脇は舌打ちして顔を背けた。頼は短く息を吐き、アユの額から手を離した。
「行こう。十分で戻る。戻れなかったら、十分で諦める」
段取りはすぐに決まった。凪砂と頼が屋上へ向かい、蓮と寺脇は列を交差点の先まで送り、そこで合流する。ミツエは最後尾に付き、アユを抱いたまま歩幅を保つ。
凪砂が立ち上がると、白い息が短く揺れた。それは誓いの形に見え、そしてすぐに溶けた。彼女は足を踏み出す。
階段は瓦礫とガラスで埋まっていた。靴底が何かを噛むたび、音が建物の骨に移って鈍く響く。壁の剥がれた配電盤、黒く煤けた配線の束。頼は先に立ち、片手で手すりを確かめ、もう片方の手で足場を作るように瓦礫を寄せていく。
「気をつけて。上ほど外気が冷えてる。体温を奪われる」
「頼さん、病院で働いてたの?」
「看護員。戦地にも行った」
短く答える頼の声は、淡々としていて、かえって重い。
「撃たれたことがある?」
頼は首だけで笑い、肩の毛布をめくった。古い銃創の痕が、肩の筋に沿って凹んでいた。
「戻れない選択ばかりしてきた。戻るより、前に押されるほうが楽なときがある。だから気をつけるの。前に押されてるだけじゃ、着く場所は選べない」
踊り場の窓から、オレンジ色に錆びたタンクの影が覗いた。屋上の扉は金属が歪み、蝶番は厚く錆びている。頼が体重をかけて押すと、板金がきしみ、灰が雪のように室内へ滑り込んだ。
屋上には、白が棲みついていた。
息を吐くたび、目の前に薄い幕が生まれ、朝の光で縁取られてすぐ消える。タンクの表面は凍って白く、天板のボルトに霜の粒が並んでいる。凪砂は手の甲で触れて、痛みを噛みしめた。
「凍ってる」
「蓋の縁だけでも開けばいい。中は温い層が残ってるかもしれない」
頼は肩から工具袋を下ろし、小さなヘラとドライバー、錆落としの粉を取り出した。彼女の手は確信のある順序で動く。ヘラで蝶番の錆を削り、粉を少し振り、ドライバーの腹で擦る。凪砂はその横でペットボトルの口に布の切れ端を重ね、輪ゴムで縛った。
「濾し布。灰をできるだけ止める」
「いい。やれることをやる」
蓋は最初、岩のように動かなかった。二人は体重を乗せ、息を合わせて押し上げる。凪砂は歯を食いしばり、肘に力を溜め、頼の「今」の声に合わせてもう一度押した。
鈍い音がして、蓋がわずかに跳ねた。凪砂は指先を差し入れ、皮膚を切った。痛みで指が逃げそうになるのを堪えて、少しずつ、ほんの少しずつ隙間を広げる。白い息が二人の間で触れ、薄い水蒸気の輪を作って消える。
ようやく、蓋が片側だけ開いた。中の水面は鉛色で、灰の粉が薄い膜になっている。頼は持ってきた紐でペットボトルを吊り、凪砂が布の口を水面にそっと触れさせる。
一滴が落ちた。布を透り、透明になって口に溜まり、それでも微細な白が舞っている。
「ゆっくりでいい。焦ると濁る」
凪砂は頷き、手の震えを押さえるように左手をタンクの縁に置いた。金属の冷たさが骨に刺さる。アユの熱い頬が、頭の中で揺れる。
二滴、三滴。やがて、とくとくと細い糸が続き始めた。ペットボトルの底に貯まってゆく水は、朝の光に揺れて、ほとんど美しかった。
どれくらい経ったか分からない。ボトルが三分の一ほど満ちたとき、頼が肩で風を切るように顔を上げた。
「聞こえる?」
屋上の縁を越えて、かすかな声が上がっていた。携帯スピーカーのあのざらついた音色。
『……線路は南西、戻らないで……繰り返す。戻らないで』
まるで二人の動きを見透かして合図しているみたいな、寸分違わぬタイミング。凪砂は思わずタンクの蓋に手を置いた。冷たさが指を刺す。
「どうして今」
「たまたま、だと思いたいが……」
頼は言葉を飲み込み、蓋の角度を戻し始めた。
「十分。戻る」
扉を閉め、踊り場に差し掛かったときだった。
足元で柔らかい音がした。灰だ。積もった灰が、段差から静かに崩れ落ち、階段を雪崩のように流れた。凪砂が一段下りた瞬間、踝までの深さで灰に埋まり、次の瞬間に頼の体が傾いて、足を挟まれた。
金属と骨の鈍い衝突音。頼の顔が歪み、息が詰まった音が漏れた。
「大丈夫?」
「……挟まった。動かすと、傷が開く」
灰の重みは雪より重く、まとわりつく。凪砂はボトルを見た。透明な中に、やっと集めた水。指が自然に緩みかける。
「捨てる。両手を使う」
「やめて」頼が鋭い声で止めた。「食料より、水が命。ここで捨てたら、上へ行った意味がなくなる。足は私が抜く。君は、手すりを支えて」
凪砂は言われた通りにした。手すりに体重をかけ、頼の肩を支える。頼は灰を手で掻き、膝をひねり、噛み合った瓦礫の角を手の平で押し戻す。額に汗が浮かび、それが冷えて白い息に混ざる。
ゆっくり、足が抜けた。頼は壁に背を預け、しばらく目を閉じた。
「歩ける?」
「痛むけど、折れてはいない」
頼は立ち上がり、凪砂が差し出す手を取った。二人の掌は、灰と冷気で乾いていた。
「行こう」
階段を降りるたび、心臓が一段ぶん跳ねる。外の光が近づくにつれ、灰の匂いは薄くなり、人の匂いが戻ってくる気がした。
地上に出た。
そこに、列はなかった。
交差点の方に、靴跡が密集し、赤鉛筆で描いた矢印が道路の端に現れていた。寺脇の癖字。
〈南西〉
矢印は何度も重ね描きされ、急いでいたことが伝わる。凪砂は胸の奥で何かがきしむのを感じた。
戻れ、という自分の紙片。進め、という別の紙片。両方に頷いた自分。
嫌悪は、体温を一瞬で奪う。
頼が肩を叩いた。
「走ろう。走れる?」
「走る」
二人は歩幅を合わせ、灰を蹴り、矢印を追った。角を曲がるたびに風の向きが変わり、視界の白い縁取りが濃くなったり薄くなったりする。瓦礫の上は不規則で、頼の足は何度か躓いたが、そのたびに凪砂はボトルを胸に抱え、彼女の肘を引いた。
交差点を二つ抜けると、前方に列の背中が見えた。遅れた者がちらほらと振り返り、手を上げる。
蓮が先頭から戻って来た。息は乱れていない。
「約束は守ったな」
短い言葉だったが、凪砂には十分だった。蓮は頼の足元を見て眉を寄せる。
「平気か」
「平気じゃないけど、動く」
「ならいい」
ミツエが駆け寄り、震える手でボトルを受け取った。布をずらし、慎重に口をつける。アユの喉が細く動いた。唇に色が、ほんのわずか戻る。ミツエは何度も何度もありがとうを繰り返した。言葉の形が崩れて、声というより息の連続に近い。
「少しずつ。ゆっくりでいい」頼が言う。「一気に入れると吐く」
アユは目を開けなかったが、額の熱は明らかにわずか下がった。ミツエが顔を覆い、肩を震わせる。喜びと恐怖が同じ波形でそこにある。
寺脇は地図を片手に、周囲の建物の影を確かめていた。
「線路はこっちや。放送も同じ方角を指してる。歩幅を揃えよう。ここから先、止まるな。止まったら、さっきの選択が全部悪手になる」
列が動き出す前に、凪砂は手帳の余白を探した。灰を払うと、紙はもう薄く、端から裂けそうだった。鉛筆の芯を袖口で湿らせ、ゆっくりと書く。
〈白い息が誓いの印なら、誓いはすぐに消える。それでも、今はそれがいる〉
文字はぎこちなかったが、彼女の中でははっきりしていた。約束は、消えると分かっているからこそ、今の体温でしか守れない。
寺脇の指示で列は二列になった。瓦礫を避けるための間隔が保たれ、蓮が前方の見張りにつき、頼が後方を支える。ミツエは列の真ん中、風の当たりにくい位置でアユを抱き直す。
歩きながら、凪砂は蓮の背中を見た。背中はまっすぐで、灰を受け止める表面が揺れない。彼が言う「時間で死ぬ」という言葉は冷たいが、冷たいからこそ、今は頼れた。
「蓮くん」
凪砂の声は歩幅に合わせて短く切れる。
「さっきの放送、どう思う?」
「俺は魔法を信じない。音は届く。届く場所で流してるだけだ」
「でも、まるで見てるみたいだった」
「見られてる前提で、動いたほうがいい。見られていようがいまいが、やるべきことは変わらない」
彼の言葉は、灰の膜をひと筋だけ割った。
ひと息ぶんの距離を歩いたとき、空気の密度が変わった。風が南西から吹いて、灰の向きが反転する。列の中で誰かが咳をし、誰かがそれを押し殺した。
寺脇が振り向かずに言う。
「線路はもう少しで出る。駅は潰れとるかもしれんが、地下が生きてれば空気はまだある。……生きとってくれ」
言葉の最後が小さくなる。自分自身に向けた祈りのように。
突如、右の建物の壁から、剥がれた看板が落ちた。
音は大きくなかったが、乾いた金属の跳ねが列の背骨を震わせ、何人かが足を止めた。頼がすかさず声を出す。
「止まらないで。足を合わせて。三歩で元のリズムに」
ミツエがアユの背を叩いて呼吸を整え、凪砂は一歩ごとに文字を刻むように地面を踏む。蓮が看板の落ちた方向を睨み、瓦礫の隙間に潜む空洞を確認する。
「足を入れるな。空洞だ。落ちる」
十字路の角を回り、低く沈んだ街区を越えると、前方に黒い帯が現れた。
線路だ。
灰に半ば埋まりながらも、まっすぐに南西へ伸びている。
列の先頭に立った寺脇が、声をひとつだけ上げた。
「行くぞ」
誰も、歓声は上げなかった。ただ、足が速くなった。
線路に降りる。鉄は冷たく、靴底に伝わる感触で、まだ硬さを保っているのが分かる。枕木の間の砂利は灰に覆われ、どこからが地面でどこからが空なのか境目が曖昧だ。
蓮が先を歩き、時折振り返って手で合図をする。頼は最後尾で、アユの様子を見ながら進む。ミツエの腕は震えていたが、抱き方は崩れなかった。
凪砂は線路の片側を歩きつつ、ふと視線を斜め下に落とした。
黒く焦げた靴が、まばらに並んでいた。昨日、いやもっと前の日かもしれない誰かが、ここで靴を脱ぎ捨てたか、靴のまま消えたかのどちらか。
彼女は目を逸らし、手帳を握り直した。
そのときだった。後方の空で、放送の声がもう一度鳴った。
『南西。戻らないで。戻らないで』
さっきより近い。背中に貼りつくほど近い。凪砂の心臓が、歩幅とずれる。
蓮が立ち止まりかけ、すぐに歩き出した。
「聞こえないふりをしろ。聞くのは次の角だ」
「次の角?」
「線路に角はない。だから、聞こえない」
その理屈は乱暴だったが、今の凪砂には効いた。彼女は足元の枕木を数えることで耳を塞いだ。三、四、五。数はすぐに灰と同じ色になった。
風がもう一度向きを変え、白い息の輪が列の上に浮かんでは消えた。
頼が小さく合図を出す。
「ここまでくれば、地下まであと少し」
寺脇が地図を見ずに頷く。「右手に引込線があるはずや」
引込線は、あった。だが、その先に駅舎はなく、黒い穴が口を開けていた。崩落した天井。割れた鉄骨。
寺脇の足が止まる。
「……地下は、生きとるか」
誰も答えられない。
そのとき、凪砂の左手を、温い感触が包んだ。
アユの指だった。
ミツエが驚いて目を見開く。アユの唇に、薄い桃色が戻り、長いまばたきが一度だけ落ちた。
「……みず」
声は風より小さく、それでも確かだった。ミツエは泣いた。朝の音で泣いた。
頼がボトルを掲げるように見て、凪砂に微笑んだ。
「間に合った」
蓮は顎を引き、視線を穴の先へ向けた。
「約束は守られた。次は、降りるかどうか決める番だ」
穴の縁に立つと、底から冷気がせり上がってきた。灰の匂いは薄く、代わりに湿った鉄と古い油の匂いが鼻につく。降りるための階段は半分潰れ、途中に鉄骨が横たわっている。
寺脇はしゃがみ込み、指先で空気の流れを確かめた。
「息はできる。風がある。……行ける」
頼がミツエとアユを見て、短く頷く。
「順番を決めよう。蓮、先に」
「了解」
蓮が身をかがめ、鉄骨の間を探る。凪砂はその背に続く。視界の白い縁取りは薄くなり、冷たい黒が増える。
途中で、凪砂は振り返った。
穴の縁で、ミツエが小さく手を振る。白い息が指の間から零れて、朝に溶ける。
凪砂はほんの一瞬だけ、手帳を開いた。
〈白い息=誓い。消える=守った証拠を残してくれない。それでも、今はそれがいる〉
ページを閉じ、足を下ろす。鉄の冷たさが靴底から伝わる。
彼女は前を向いた。
地中の闇は、外の白さと反転していた。
だが、闇にも輪郭はあった。崩れたコンクリートのすき間から、細い光が斜めに差し、埃の粒を浮かび上がらせる。遠くで水滴が落ちる音。空気は重いが、動いている。
蓮が低く言う。
「ここなら、息が持つ」
「ここで整える」頼が応じる。「アユにもう一口だけ水。みんなは湿らせる程度」
寺脇が黙ったまま地図を丸めた。地図は、もう役に立たなかった。彼はそれでも、丸めた紙を丁寧に筒に戻した。
ミツエがアユの額を撫でる。アユは目を開け、凪砂を見たのか、それとも白い息の名残を見たのか、短く笑った。
笑いはすぐに消えた。でも、確かにそこにあった。
凪砂は背中の壁に体を預け、目を閉じた。
呼吸の数を数えるのではなく、歩いてきた数だけの誓いを数える。屋上の白い息、踊り場の灰の雪崩、誰かの冷たい助言、誰かの熱い我慢。数えるたび、それらは煙のように指の間から逃げる。けれど、消えるからこそ、次の一歩の形がはっきりする。
目を開けると、前に蓮がいた。
彼は何も言わず、凪砂の視線を受け止めた。
凪砂は小さく頷いた。
「進もう。今の約束が消える前に」
列は再び、動き出した。
地上の白さは遠く、地中の黒さは近い。
それでも、足は前に出る。
白い息は、もう目に見えない。
けれど、胸の奥で確かに生まれては消え、その消えた数だけ、彼らの進む先を押し出していくのが分かった。




