第1話 灰の縁取り
終戦のサイレンが止んだ朝、凪砂は教室の引き出しにあった赤い紐で手帳を腕に括りつけた。皮膚の熱で紐が湿り、灰を吸った空気が喉の奥を焦がす。母を探しに行くと言って家を出てから、まだ三時間。町はもう、音のない爆鳴の跡だった。
焼けた道路の上を、列が動いていた。避難民だ。誰も声を出さず、足音と灰の擦れる音だけが続いている。
「線路の向こうが安全地帯」
誰が言い出したのか分からない言葉が、まるで呪文のように人々の間を渡っていた。誰も確かめようとしない。確かめる手段もない。ただ“向こう”という響きだけが、まだ生の残滓のように甘く見えた。
凪砂は列の中ほどに立ち、前を歩く青年の背を見た。
綴木蓮。灰を被った髪が白く光り、肩には破れた学生服。どこかで見たことがある顔だったが、思い出せない。
「なあ」
凪砂が声をかけると、蓮は振り返らずに言った。
「歩け。止まると、足跡が埋まる」
その言葉の意味を、凪砂は半分しか理解できなかった。だが、灰の上に足跡が確かに残り、次の瞬間に風で消えるのを見て、ただ頷いた。
先頭には、元看護員の廻谷頼がいた。肩に毛布を巻き、腕に冷たくなった老人の手を乗せている。老人の指先をこすりながら、彼女は声を落として言った。
「もう歩けない人は、下ろして」
列の後ろの方で、誰かがすすり泣いた。だが誰も止まらなかった。列は、死者を抱いたまま進んでいる。
寺脇定という鉄道に詳しい男が、手の中の地図に赤鉛筆を走らせていた。瓦礫の隙間でしゃがみ込み、地図の余白に一本の線を足す。
「短絡線や。線路は嘘をつかん。向こうへ出れば、駅の地下に退避壕があるはずや」
誰もその言葉を疑わなかった。嘘でもよかった。信じるものが必要だった。信じるという行為そのものが、生存の証になっていた。
灰が降りしきる中、凪砂は歩きながら手帳を開く。ページの端は熱で波打ち、鉛筆の文字がところどころ滲んでいる。
〈母を見た人〉
〈線路の向こうに、何がある?〉
〈進むことが、いちばん怖い〉
書くたびに、鉛筆の芯が折れた。彼女は指先の黒鉛をこすり、次のページに移る。
列の先頭から声が上がった。
「放送や!」
寺脇が持っていた携帯スピーカーのような装置から、ざらついた声が流れ出した。
『反対側の区域に飲料水と食料。線路沿いに南西へ』
女の声だった。途切れがちで、時折むせる。その咳払いが妙に生々しかった。
「生放送やな」蓮が言う。
凪砂は手帳に書く。〈録音でもむせる〉。
その瞬間、背後で小さな笑いが起きた。
「希望にまで理屈をつけるなよ」
そう言ったのは、子を抱いた町田ミツエだった。赤子は眠っているのか、微動だにしない。彼女の声は強かったが、頬の筋肉が震えていた。
夕方。太陽の代わりに、遠くの煙が赤く滲んでいた。瓦礫の向こう、黒く焦げた建物の陰に白い文字が浮かぶ。
〈戻るな〉
凪砂が立ち止まり、指でその文字をなぞった。古いペンキのにおい。戦前の書体。
“戻るな”――。
つまり、この先が“境”なのだ。人間の行ける場所と、そうでない場所の。
蓮が言った。「進むしかねぇ」
その声に、誰も返事をしなかった。列はただ、影のように流れていく。
夜。火を起こすのも恐る恐るだった。火の光が、空気の奥にいる何かを呼び寄せる気がした。
頼が残った火を見つめながら呟く。
「酸素が足りない。夜になると、息が重くなる」
寺脇が言う。「地下の退避壕は密閉構造や。酸素濃度が下がる前にたどり着かんと、眠るように死ぬ」
誰も反論しなかった。沈黙の中で、ミツエが娘アユの額に額を寄せる。
「もう少しで、朝になるよ」
その言葉は、祈りのようで、呪いのようでもあった。
凪砂は火のそばに座り、手帳を開いた。鉛筆の芯を指で潰し、黒い粉で文字を書く。
〈灰は、雪よりも重い〉
〈音がないのに、誰かが歩いてる〉
ふと、背後から足音がした。
振り返ると、蓮が立っていた。
「見張り、変わる」
「……眠れないの」
「みんな眠れない」
蓮の顔は焔に照らされ、半分だけ明るかった。
「なあ、蓮くん」
「なんだ」
「もし、“向こう”に何もなかったら、どうする?」
「歩き続ける」
「死ぬまで?」
「そうでもしなきゃ、ここに残る理由がねぇだろ」
凪砂は何も言わず、手帳を閉じた。
彼の背中を見ながら、灰の向こうに消える足音を聞いた。
その足音が、いつまでも地面に響いていた。
夜明け前。空は鉛色の霧に包まれていた。列は再び動き出す。
誰も喋らない。喋ることが、命を減らすような気がした。
線路はまだ見えない。だが、寺脇の赤鉛筆の線は確かに“向こう”を指していた。
午前八時。爆心地の真上を横切る。焦げた街並みに影がない。
突然、空気が震えた。遠くで金属の軋みが響く。誰かが叫んだ。
「線路だ!」
列の前方に、黒い鉄の筋が見えた。灰の中に半ば埋もれた線路。
だが、そこには人影がなかった。駅も、退避壕も、見張りもいない。
ただ、線路の上に無数の靴が並んでいた。子どもの靴、軍靴、婦人靴。どれも灰にまみれ、片方しかない。
頼が声を震わせた。
「……ここで、みんな止まったのね」
寺脇は地図を握りつぶすようにして呟いた。
「ありえん……“向こう”は生きてるはずや」
だが、答える者はいなかった。
凪砂は線路の上に立ち、母の名を呼んだ。
返事はなかった。
灰が風に乗って舞い上がり、太陽の代わりに空を覆った。
その瞬間、彼女は気づく。
ここが“安全地帯”なのだと。
誰も動かない。誰も逃げない。誰も苦しまない。
ここに来れば、すべてが止まる。
蓮が一歩、線路の向こうへ踏み出した。
靴底が灰を押し、音が消える。
頼が止めようとした瞬間、蓮は振り返り、微笑んだ。
「もう、向こうだ」
その姿が、白い煙の中に溶けていった。
凪砂は、手帳の最後の行に書く。
〈進むことが、いちばん怖い〉
〈でも、それが、生きてる証〉
灰が降る。
列が、再び歩き始めた。
誰も、どこへ向かうのかを知らないまま。




