第1話
指先から滑り落ちたハート型のイヤリングは、フローリングの床にぶつかって二つに割れた。冷めた目でそれを見つめる私。自分の目つきが険しくなるのが分かる。ひどく気分が悪かった。イヤリングを落としたことにじゃない。落としたイヤリングが簡単に割れてしまうことが不快だった。いっそヒールの踵で踏み潰して、粉々に砕いてしまいたかった。
キョウはまだ起きてこない。少し息を止め、耳を澄ませそれをたしかめてから、私はイヤリングの残骸を無造作にゴミ箱へ捨てる。くだらない。そう思いながらイヤリング無しで家を出る。起きて、割れたハートを見たらあの子はどう思うだろう。少しそれが、気にかかった。
カツカツと乾いたヒールの足音がアパートの廊下に響く。太陽はもう起きているけど、アパートの住民はまだ眠っている。どの部屋の窓も寝息を立てているようにしんと静まり返っている。構うことなく足音を響かせる。どっちみち足音をたてずに歩くことなんてできやしない。
夜型なこの街も、アパートと似たようなものだ。朝陽と共に起きているのは、吐しゃ物だとか食べ物のゴミや吸い殻を片づける清掃員の人と、朝帰りの夜職の女。そして私くらい。猥雑な街なの。ここは。いつだって酒を飲みすぎた夜の次には、二日酔いの朝がやってくる。街だってそう。でもふと思ったけど、私も朝帰りの女の子たちと変わらないんじゃないかな。キョウと暮らしているんだから。私も熟れた夜から、乾いた朝へと歩いていく一人の女。
ゴミを踏まないように気を付けてゆっくり歩いて、駅の改札を通ってホームへ向かう。肩下までの髪を下ろして眼鏡をかけていれば、不躾な男の視線もいくらか和らぐ。
二日酔いの朝よりはましだけど、たいして面白いわけでもない。仕事。処理。処理していくのだ。散らかった部屋を片付けるように、目の前のタスクを片付けて減らしていく。ただ部屋のゴミと違って、仕事のタスクは秋の枯葉みたいにどれだけ片付けてもなくなるということはない。不毛に感じるけれど、だからお金をもらい続けることができる。
仕事には、私自身の性能を試すという側面もある。それは珍しいことではないと思う。今日日、ゲーム感覚でする以外に私のような仕事のモチベーションを保っている人がいるのだろうか。
デスクに座って指を動かす。会話は誰に対しても、丁寧に、温和に。別々のタスクが並行するときでも、それぞれの進捗を頭の中にピン止めして物理的にもメモを残す。ミスをしなように最大限気を遣い、淡々と処理していく。雑念が生じなければ退勤時刻は比較的すぐやってくる。
それでもふとした時に、デスクでキョウのことを考えてしまう自分がいる。途端に周りの景色全てが色褪せて、くだらない世界を抜け出してキョウに会いたくなる。同時にそんな自分を冷めた目で見て嘲笑する私もいる。結局人にペースを乱されるのは、それ自体がくだらないことだから。
でも、はやくキョウに会いたい。誰からも愛されない男。私だけがその魅力を知っているあの子。
「リーダー、大丈夫ですか? 気分がすぐれませんか?」
声をかけられて我に返る。視線を上げると爽やかな短髪の男の子が心配そうな目つきで私を見ている。年相応に若い、整った顔立ちの子。私が少し隙を見せると、こんな風に私の機嫌を窺い、気を遣ってくる男がいくらでもいる。くだらない世界。愛想笑いをしながら「ごめん、ぼーっとしてた」と返す。「疲れてるんじゃないですか?」と向こうも笑いながらさらに声をかけてくる。少し鬱陶しかったから「あなたも手が止まっているわよ」と笑いながら突き放した。
今日は少し、退勤時刻が遠く感じる。
カツ、カツ、とまたヒールの足音をさせてアパートの廊下を歩く。家が近づくにつれてキョウを想う自分への冷笑が強くなる。今日もまた、飼い犬みたいに私が帰ると目を光らせて近寄ってくるんだろうか。まったく、馬鹿みたい。結局男ってどこまでいっても馬鹿な生き物なのよ。
そんな風に頭の中で悪態を吐きながらドアのカギを回して玄関へ入る。しかしキョウの姿は見えない。近寄ってこないどころか、リビングに姿も見えない。私の心の中にハテナマークが浮かぶ。帰宅する時刻はいつも同じなのだけど、どうして今日に限って?
「キョウ?」
玄関から声をかけてみたけれど返事はない。外出でもしているんだろうか、と思いながら靴を脱ぎ、カバンをリビングの机の上に置く。そうしてリビングとの境にあるアコーディオンカーテンを開けてキョウの部屋を確認する。キョウはいない。念のためトイレとバスルームを確認してみたけれど、やはり姿は見えない。
少しだけ、不安になる。馬鹿馬鹿しいけれど、ふらっと出て行ったっきり、二度と戻らない。そんな話が現実になりそうな予感が頭を掠めた。
ため息を吐いて自分の部屋のドアを開ける。目に映った光景に、反射的に身体が止まった。
キョウがいた。
私の部屋で、灯りもつけずに暗い中でモニターに向かってゲームをやっていた。リビングから射し込む光に気づいて、キョウはヘッドフォンを外してこちらを振り向いた。
「おかえり」
私は不機嫌を軽く表に出して「姿が見えないから、呼んだんだけど?」と不満を口にする。
それを見たキョウの目が満足そうに笑ってぎらりと光った。
「俺がいないと、不安だった?」
私は反射的に悟った。この子は動物のように直感が働くのだ。今日私はいつにも増してキョウに会いたかった。この子はそれを見透かして、わざと隠れていたのだ。
ズキン、と締め付けられるように胸が痛んだ。