ならずものに咲く花
「此処から先は歩いて行ってくれ」
そう言われ男はトラックの助手席から降りる。
泥濘んだ泥が靴と洋袴に跳ねる。
新しいものではなかったが、意図せず汚れるのは気の良いものではない。
片足を上げ軽く払った。
そんな事をしても無駄だとはわかっている。
「ひどい雨だったろ。」
駄賃代わりにタバコを手渡しながら運転手に尋ねるとへぇ、と気の抜けた返事を返した。
「この辺は空襲に遭わずに済んだのにの。」
禿げ上がった運転手は欠けた前歯を見せてへらりと笑ってみせた。
「あれを見てみぃ。」
運転手はタバコを咥えたまま顎を指す。
視線をやると坂の下、土砂で崩れた家屋の前に呆然と立ち尽くす女と、泣きじゃくり女の腕にすがりつく童が目に入る。
「先月、呉から逃げて来たってのに……ほんま気の毒じゃ。」
神さんは酷いことをしよる、と運転手は禿頭を撫でながら続ける。
「旦那も死んで、おっかさんも死んで、家だけは残ったのにそれも奪うか。」
「そんな奴ぁ今日日何処等でもいる。」
「そりゃそうじゃがの。この辺はほんま貧しいだけで呑気なもんじゃったのに。」
運転手が一本タバコとマッチを男に差し出す。
男がそのまま口で咥え、差し出されたマッチを受け取ると自分で火を付ける。
「すまんが、あの坂は一人で行ってくれ。追い剥ぎにゃあなりとうないけぇの。儂ぁここで待ちよるけ、早ぅ帰ってきてくれ。」
そう言うと運転手は背伸びをして膝に乗せていた麦わら帽子を顔に被った。
男は坂道に目を向ける。
昨晩の台風が山の竹を数本なぎ倒し道を塞いでいる。
細い竹なので跨げば通れなくはないが、道はひどく泥濘んでいた。
しかし通らねばならない。
男は意を決して運転手に一瞥をくれると前へ進む。
ぐちゃりと泥を押しつぶす感触に眉をひそめる。
すれ違いざまに立ちすくんだままの女と泣きわめく童が入った。
女の口元が「ごめんなさい」と紡ぐ。
この辺では神仏に祈りを捧げる時、感謝より先に謝罪が出る。
坂の上に住む待ち人も何もしでかしていないのにも関わらず、よく謝っていた。
――――今更、謝った所でなんになる。
男は泣く童に向かってポケットのキャラメルの箱を投げた。
半分はここに来るまでに食ってしまっていた。
コツンと頭にあたった箱がなんなのか理解した途端、童は声を上げてはしゃいだ。現金なものだ。童の様子に気がついた女が男の顔を見て驚き慌てて頭を下げる。
気にするなと手を振り、男は倒れた竹を跨ぎながら坂を進んでいく。
男はならず者であった。
闇市では知らぬものはいない名のしれた任侠である。
腕っぷしの強さで若い頃は隨分無茶をしてきたが、最近は指示役に回ることが多くなった。
その無茶をした若い頃に世話になった兄貴分が、引退してこの坂の上に住んでいる。
先日兄貴分の情婦から電報が送られてきた。兄貴分が病に伏せ、もう長くないそうだ。
終戦後、活気づいた闇市を仕切っていた男はぶらっと出歩けるほど暇はなかったが、さんざん世話になった手前断るわけにも行かず、手土産も持たないまま身一つで村を訪れた。
部下も連れずに来たのは、みな手前のことで手一杯でこんな男を一人気にかけないだろうと踏んでのことであった。
竹藪に囲まれた坂道を抜けると、兄貴分の屋敷が見えてくる。
二階建ての母屋が半分、土砂で埋もれていた。
前回訪れたときは立派な庭園があった場所も、庭の八朔の木をなぎ倒し土塊の山ができていた。
八朔は嫌いだ。
男は苦々しい味を思い出し、唾を吐き捨てる。
男を生んだ女は、男を近所の老婆に預けるとそのまま帰ってこなかった。
去り際に「ごめんなさい」と紡いだ唇を、忘れることが出来ない。
幸い、老婆は心優しく我が子のように男を慈しんだが、置いていかれた絶望の穴を埋めてやる事はできなかった。
菓子の代わりに差し出された八朔。
苦々しいあの酸味を味わう度、女の背中を思い出す。
兄貴分はそれをわかっていて、あえて庭に実った八朔を手渡してきた。
「忘れちまったら、それまでよ。」
小型のナイフで切り分け、ん、と差し出す、傷だらけの手。
男が物思いにふけっていると離れから女が一人顔を出した。
若草色のもんぺに身を包んだ妙齢の、背の高い女。
決して小柄ではない男の視線が少し上を向く。
女が頭を垂れると、頭巾の隙間から真っ白な頭髪がサラリとこぼれ落ちた。
兄貴分の情婦だった。
「……よく、いらしてくださいました。」
女は憂いを帯びた目で男を見つめると、再度深々と頭を下げる。
その辛気臭い表情も相まって、晴れた真昼にも関わらずまるで幽霊のようだと男は思った。
「手前の主人は何処に?」
主人、という言い方は情婦とは籍を入れてないので間違っている。
しかし兄貴分の本妻は十五年前に結核で亡くなっており、それ以降この女が本妻の代わりに顔を見せていたので男も、その仲間たちも女をそのように扱う。
女は深く瞳を閉じる。白いまつげが軽く震えていた。
「こちらです。」
促した離れも、土砂こそ少なかったが水浸しであった。
ここも長くはあるまい。果たして滞在中に流れてしまわぬと言いが。
言いしれぬ不安を抱いた男は靴を脱ぐか迷ったが、女が土足のまま上がるのを確認するとほっと一息つき、そのまま上がり込んだ。
女の後をついて廊下を歩く。
昨晩の嵐が嘘のように、夏の木漏れ日が水浸しになった廊下を照らしている。
女がピタッと立ち止まると、一番奥の座敷の襖を開ける。
それを目撃した途端、男は目を疑った。
橘だ。
《《八畳の座敷の真ん中に男の背丈ほど在る橘の木が、生えている》》。
青々と茂った葉の隙間から白い花が顔を覗かせる傍らで、橙色の実がまるまると実っていた。
目で追って数を数える。丁度八個。
今は8月の終わりだ。
花が咲くには遅すぎるし、実が生るのはまだ先のはずだ。
ましては同時に付けるなど……――――
畳を突き破って生えてきたのか。
否。
この離れが建てられたのはつい二年前だと聞く。
橘の木は雨水を吸って薄汚れたい草に根が絡まっている。
ざざっと木が揺れる。
うぅと犬の唸り声のような音が足元から聞こえた。
視線を向けると根本がぼっこりと膨れ上がって黒く大きな塊を包みこんでいた。
よく見ると、橘は畳ではなくその塊からその根を生やしている。
木と畳の隙間から塊が汁を垂れ流しながら蠢いている。
ツンと異臭が鼻を突き刺し、男はむせた。
男が入って座敷のふすまは開けられていたが、部屋の中は無風だ。
そもそも台風が去った後で、今日は風は家の中まで届くほど強くない。
にも関わらず、橘は枝をゆらゆらと揺蕩わせている。
まるで森林の中にいるように、葉擦れの音がこだまする。
女が木の側で座り込むと、日に焼けた手で根本を慈しむように優しく撫でた。
塊から、赤黒い液体がじわっと滲み出しい草を汚す。
根の隙間から白い何かが動く。
目があった。
「……まだ、生きてるんです。」
――――こうなっても。
女は呟いた。
塊が動く度、木がざわめき葉のか擦れ合う音が耳に入る。
男は女の言わんとしていることがわかった。
もう助かるまい。
懐に忍ばせた拳銃を眼球に押し当てると、男は引き金を引いた。
鉈と斧で女と二人がかりで遺体から木を引き剥がすと、干からびた干物のようになった兄貴分が現れた。
女の背に見劣りしない大柄な男だったが、干物はキャラメルを投げてやった童のように小さかった。
張り尽くされた根は深く細かい。
男は全てを剥がしてやることを諦めた。
「いつからだ?」
「……三日前です。」
手渡された手ぬぐいで汗を拭い取る。
――――三日でこれか。
男は胸元を探ったが指で掴んだのは塵だけであった。
駄賃代わりにタバコを差し出した事を後悔する。
たった三日で大柄だった初老の男を干物に成るまで絞り尽くし、花と実を成したというのか。
白い花と夕日色の実を同時に生らした、異形の木。
通常の橘であればここまで育てるには一〇年はかかるだろう。
三日で一気に搾り取られたのは幸いであったのかもしれない。
皆、手前のことで手一杯だ。
人を一人殺した所で、気にするものは一人もない。
男の遺体を布団でくるむと、坂の下で待機している運転手と近所の中年を数人呼んでトラックの後ろに積んだ。
誰も詳しいことを尋ねてこなかった。
家を土砂で押し流されたあの母子も橘に貪り尽くされた亡骸を見て「ああ咲いてもうたか。気の毒に…」と静かに手をあわせてくれた。
切り倒した橘の一部も一緒に並べてやる。
あれもまた、兄貴分の一部だ。
男は助手席に、女は木に寄り添うように荷台に乗りこむ。
手伝ってもらった近所の中年から、台風で亡くなった人たちを近くの小学校で合葬をしていると聞き、そこまで送って貰う。
運転中、禿頭は読経の代わりに「ごめんなさい、ごめんなさい」と謝っていた。
自分と、女はともかく、手前はただ巻き込まれただけだろうに。
小学校の運動場には夕方にも関わらず、家族を亡くした者たちが集っていた。
肉の焼ける匂いと腐敗臭が、あたり一面に立ち込めている。
先日広島で同じ匂いを嗅いだのを思い出す。
ついこの間のことなのに、随分昔のように懐かしさを覚える。
ヒビが入った眼鏡をかけた坊主が、仏を前に両手を合わせごめんなさいと謝る。
風習なのだろう。坊主とは言えこの辺の人間はみな南無阿弥陀仏よりも先に謝罪が出る。
男の背後から「ごめんなさい、ごめんなさい」という遺族たちのすすり泣く声が聞こえる。
橘の木も一緒に燃やして欲しい、故人ゆかりのものだと説明すると坊主は快く承諾してくれた。
順番を待ち、木と一緒に布団ごと炎に投げ込む。
男は立ち上がる煙を女と並んで眺めていた。
頭巾を取った女の白い髪が、煙に煽られて空を舞う。
女が「申し訳ありませんでした。」と深々と一礼する。
女の赤い瞳から一筋涙が土にこぼれ落ちる
うなだれた首筋から青紫色の痣が見えた。
「――――何故、見ぬふりをした。」
男は、静かに女に問うた。
「お前はやり方を知っていただろう。何故、許さなかった。」
女もまた、この辺の生まれだ。
信仰深い兄貴分とともに、毎日神棚に謝っていたと聞いている。
知っていたはずだ。
「あれ」に見つかった相手が、逃れる唯一の術。
花が咲く前に、相手にしてやれたことを。
心から改心し、そして――――その場にいた者から許されること。
女は口角を少し上げると軽く首を横に振った。
真っ白い髪が絹のように揺蕩う。
「許した所で……―――」
そう呟いて、女は髪をかきあげて煙を仰ぐ。
その顔は、少し晴れやかだ。
「……―――人でなしが。」
男は吐き捨てると、その場を後にする。
バチンと、男の背後で果実が弾ける音がした。
男は八朔を口に入れたあの瞬間を思い出す。
甘みの中に交じる、異質な苦み。
男はトラックに乗り込んだ。
日が山の向こうに落ちようとしている。
男は車の窓から苦みと軽蔑を混ぜ、唾と共に吐き捨てた。