松本のおばあちゃん
松本キミエさんが亡くなった。
98歳でありながら決して大往生とは呼べない亡くなり方だった。
葬儀は式場の一番小さな部屋で執り行われた。
参列者は息子嫁とその家族、事件を担当した警察、葬儀の祭主である本朔の奥様、そしてケアマネージャーだった私と同僚の数名だけであった。
喪主を務める息子嫁の陽子さんと娘……年齢的に陽子さんの娘さんだろう、大学生くらいでこの辺でたまに見かける真っ白な髪をした美しい娘さんが挨拶のために立ち上がる。
しかしまるで似ていない母娘だ。
ふっくらとした体躯と大きな口が特徴の陽子さんとモデルのようにすらっと背の高い絶世の美女である孫娘は、血縁を疑うほど似ても似つかなかった。むしろ、娘さんは親戚筋でもなんでもない祭主を務める奥様の方に良く似ている。
陽子さんは娘さんがそうにその真っ白髪な頭髪を長い爪でいじるのを肘で小突ていた。
「よしんさい、まるで他人事みたいに……」
「はいはい。」
小言を吐く陽子さんの顔は妙に晴れ晴れとしていた。
陽子さんはずっとキミエさんとは折り合いが悪かった。
嫁いだ頃から二人の仲は険悪で意地の悪いキミエさんと気の強い息子嫁の間でしばしば衝突を繰り返していたそうだ。息子さんを15年前に事故で亡くし意気消沈したキミエさんに認知症の症状が出始めてその仲は悪化の一途を辿っていたという。私も訪問した際、玄関で陽子さんの怒鳴り声を何度も聞いている。
陽子さんが一歩前に踏み出して喪主の挨拶を始めようとして盛大に転けてしまった。
娘さんは一瞬呆気にとられたが、腹を抱えて声に出して大笑いをはじめた。
「にぶいのう、ほんまにぶい。まるでウシガエルじゃ。」
「よう言うわ、この性格ブスが。」
ケラケラと笑いながら手を差し伸べる娘さんを見上げながら、陽子さんは釣られたように笑いながら悪態をつく。
存外、この二人の仲は悪くないのかも知れない。
「本日は、えー、義母の告別式にお集まり頂きましてありがとうございます。」
気を取り直して深々と頭を下げながら陽子さんが穏やかな声色で挨拶を始める。
目の前であのような惨たらしい事件に遭ったというのに、やはり積年の恨みは晴らすことが出来きなかったのだろう。陽子さんの右目の包帯はいまだに取れていないにも関わらず、まるで子どもの卒業式に参列する保護者のようであった。
***
「こうなったら、もう始末せにゃならん。」
親方の言葉に青年は深く項垂れる。
目の前には苦しそうにもがく2頭の牛。
パンパンに膨れ上がった腹部をまるで大きなイモムシでも居るかのようにボコボコと内側から波打つ。
「50年に1度か2度、このへんじゃこういう牛が出る。」
「解体は……調べないんですか?」
「……調べた所で厄介が増えるだけじゃ。なに、明日の朝にはくたばっとるけぇ。」
「はあ……」
その牛は仔牛の頃に競り落として以来、青年がとりわけ気にかけて育てた雌牛であった。
愛着は深い。せめて楽に死なせてやりたかった。
「近寄るなよ。お前が沈まんとも限らんぞ。」
親方は青年の心情を見抜いたかのように釘を差しながら牛舎を後にする。
青年は藁の上で横たわる雌牛を見る。
「ごめんなあ。俺にはどうしてやることもできん。」
牛の腹から人の手形がくっきりと浮き出るのを見て、青年は悲鳴を上げた。
口元を抑える。
何も見てはいない。
吐き気を堪えながら空になったバケツを手に持つと、青年は全てを見て見ぬふりして牛舎を後にした。
***
「この間さぁ、夜中に車走らせてたら寝間着着たおばあちゃんが一人しゃがんでたんだよ。何事かって車停めて駆け寄ったら、なにやら祠に背を向けてペコペコ頭下げてたんだ。『どうか、まだやれます』『お許し下さい』ってブツブツ言いながらさ。大丈夫ですか?って声かけたんだけど全然届いてないみたいで……連れが通報して、5分もしないうちに警察が来て保護してったよ。―――あのおばあちゃん、ボケが始まって深夜徘徊の常習犯だったんだって。鍵かけても自分で開けて出てっちゃうんだってよ。迎えに来た娘さん……つっても俺の親父より年上のおばちゃんだけど、えらい感謝して無花果たくさんくれたんだよね。――――そう、このジャム。半分くらい傷んじゃったから煮てジャムにしたんよ。……――――はあ……この間久々に実家帰ったんだけど、うちのじいちゃんも最近物忘れが多くなって怒りっぽくなったからちょっと心配だよ。」
***
「言うたじゃろ?お前はもういらん。」
私は深々と猿に頭を下げる。
冷や汗が止まらない。
昔から、この猿が苦手だった。
牛の腹を借りて生まれた私を畜生以下だと嘲る姿が苦手だった。
糞にたかる蝿を見るような、一切の軽蔑を隠さない視線が苦手だった。
気まぐれに人間を愛でても、結局腹は空いたまま男の肉体を欲する。
まだ。
まだ、お役に立てます。
まだ、あの卑しい畜生共を始末できます。
どうか見捨てないで下さい。
あのお方にそう、お伝え下さい。
つごもり様にどうか……
取り縋ろうと顔を上げると、猿は静かに私を見下ろしていた。
「勘違いすんなよ、これは慈悲じゃ。」
「はい。」
「お前に対する慈悲じゃない。それくらいわかるよな?」
「……――――はい。」
もう一度頭を下げる。
きっと何を言っても無駄だった。
猿の発言権は私達の中でも大きい。
きっとあの方も……――――つごもり様も、私を切り捨てるだろう。
老いて使い物にならなくなった私を。
「折角ここまで長生きできたんじゃ。余生を家族と静かに暮らせ。遺体ならどうにかしちゃるわ。」
――――東京に捨てるほどあるんよ。
そう言って、猿はその場を去ってしまった。
残された私の傍らに横たわって呻き声を上げる嫁を静かに見下ろす。
鉄パイプで殴られた衝撃で頭から血を流し、その右目が床にこぼれ落ちている。
昔からこいつが嫌いだった。
私の可愛い息子を誑かしたガマガエルのような風貌の醜い女。
馬鹿な女。
私を捨てて逃げればよかったのに。
憐れな女。
最後で庇いやがって。
くそったれ。
どうして。
本当に。
なんで。
どうしようもない馬鹿嫁が。
「大丈夫?」
残された左目で私を見つめる彼女になんでもないと首を横に降る。
「全く、お前はにぶいねぇ、ほんとう。にぶい。」
にぶくて、醜くて、とろくて、どうしようもない。
見捨てられた私に残されたのがこれか。
……―――全く相応しいよ。
伸ばされた手を握り返すと、私は通報するためにスマホを手に取った。
***
松本のおばあちゃん?
気の毒ながねえ……98にもなってあがな惨い目に遭うなんて……
来週、ホームで白寿のお祝いパーティがある言うて楽しみにしとったんよ。
松本さん、ほら嫁さんと折り合い悪かろう?
家にいても怒鳴られるばぁで施設のほうが落ち着いたんと違うかねえ。
あんた、知っとって?
松本さん、昔はそりゃあどえらいべっぴんさんやったんよ。
腰がまがって皺だらけのあの姿からは想像もできんじゃろうが、きれいな人やったわ。
うちの爺さんも思い出すといつも言うんよ。あんなべっぴんはほかにおらんって。
本朔の奥様ほどじゃあないが、背も高ぅてすらっとしとってね。真っ白髪がまあ美しゅうて……うちも爺さんに写真を見せてもろうたが、小さなモノクロでもはっきり解るほど美人やった。
テレビや雑誌、ネットでもあげな美女はおらんよ。いや、ほんまべっぴんやったんじゃて。
うちの爺さんも、田中さんの爺さんも、村の男はみんな彼女に夢中やったそうじゃ。
あまりにも美しいもんじゃけえ、そりゃあ噂になってな。無理もないわ。いや、ほんまよぉ。図書館の郷土資料に残っちょるんよ。
ほんま。信じられんかもしれんけど。
美しすぎて声すらかけられんかったって爺さん言うとったな。
彼女が歩くだけで腰が砕けて立てなくなるんじゃと。彼女の視界に入るだけでその日一日極楽にも昇る気持ちになるって……高嶺の花っちゅーんかねえ。
そりゃあもう大店の若旦那から軍のお偉いさん、世羅や庄原の地主まで縁談の声は絶えんかったらしいわ。でも結局落ち着いたのはお隣の漁師さんじゃった。
恋愛結婚じゃったらしいわ。
まあ陽子さんそっくりなふっくらした……言っちゃあ何だが不細工な面した人で村中の男は爺さんも含めてホンマに悔しがっとったみたいじゃわ。
見た目に比例するように気の強い娘さんだったらしく旦那さんを尻に引いとったらしい。
それでも絶世の美女に罵られると嬉しいもんなんかねえ、旦那さんは幸せそうにしとったらしいわ。
結婚してからも美貌は衰えることもなくて、手押し車で旦那が獲ってきた最中の干物を売り歩いとってな。毎日彼女の美貌目当てに戦前は呉から軍人さん、戦後は進駐軍まで人目おめにかかろうと列をなしてこんな田舎に足を運んだらしいよ。
息子さんが生まれて、その息子さんは松本さんによう似たイケメンだったらしいが、その嫁さん……陽子さんを連れてきて……松本さんはまあー、イビリよった。
嫁いびりはほんま酷かったらしいわ。
あまりにもひどくて、陽子さん《《孫の平治くん》》抱えて本朔に逃げ込んだんじゃて。でも前の前の本朔のご当主様は松本さんに若い頃ぞっこんやったらしくすぐ追い返してもうたらしいけどね。これはどこまでがほんまの話かわからんけど。
でも……――――陽子さんはほんま立派よな。
私にあがな真似ようせんわ。
うちのお義母さんは穏やかで優しい人じゃけど、私はよう庇わんよ。
流石に置いて逃げるなんて真似はせんけど……それでもよ?
ほんま、立派な……出来た嫁さんよ。
可愛さ余って憎さ百倍じゃ言うけど、陽子さんは逆やったんかもわからんねえ。
***
「だからさア、無理があるんだって。」
「静かにしんさい。」
「ババア攫った所で利益なんかなんもなかろうが。もっと他に言い訳があったろうに……」
「ほうじゃけえ言うて、他になんて説明すりゃええんよ?」
「んー?徘徊?家出?」
「ほんま、他人事みたいに……」
***
キミエさんの家に無花果を持ってったのよ。
尾道のおばさんがぎょうさん送ってくれたのに、うちのひとったら全然食べなくてね。ケアマネさんがキミエさんが無花果好きじゃけえって教えてくれて、それでお裾分けに持っていったのね。
陽子さんは買い物に出かけとって、出たのはお孫さんが――――……平治くん以外にもおったんじゃねえ、まぁべっぴんなお嬢さんが玄関から出てきてね。
本朔の奥様や坊っちゃんみたいに真っ白な髪しとって、まつげも長いし顔も小さい、そのかわり背も高うて胸も尻もおおきゅういてほんま「美女!!」って感じの娘さんがね。
うちの顔を見て「久しぶりです~」って笑うんよ。
こんなべっぴんさん会ったら忘れんもんじゃけど……平治くんはウチの子と同い年じゃけぇ、学校の送り迎えで会ったんかもわからんわ。
無花果貰いすぎたけえ言うて段ボールごと渡したらにっこり微笑んで「嬉しいわあ、大好物なんよ!」って喜んでね。
キミエさんはおらんかった。ホームに行っとったんじゃろうね。お孫さんだけじゃったな。
――――あの事件が起きる2日前やったな。
結局、あの無花果はキミエさんと陽子さんの口には入ったんじゃろか?
あのお嬢さんはあれ以来、陽子さんと一緒に住んどるみたいじゃが……しょっちゅう喧嘩しょうるわ。
でも陽子さんも、キミエさんの時と違って楽しそうにしょうるらしいよ。良く二人で仲良くイオンに買い物に行くみたい。
平治さんも岡山から帰って来るらしいけぇ、はよあげな事忘れられるとええんじゃけどねえ。
***
「最近の空き巣は容赦を知らん。見つかるのを覚悟で白昼堂々襲いよる。住人を殺して金品を奪って海外にトンズラ。恐ろしいもんよ。」
「ほんまキミエさんは気の毒なが。なにも火あぶりにせんでもえかろうに……」
「犯人はまだ捕まらんのじゃて。」
「どうせ、地獄に落ちるわ。生きたまま、苦しい後悔の底にな。――――ツイタチさんはもっと容赦をしらんけぇな。」
***
広島県朔日村のバス停付近で発見された身元不明の男性の白骨遺体毛髪のDNAが、半年前に西朔で発生した強盗誘拐事件の犯人のものと一致したことが判明した。
この強盗誘拐事件は、白昼に松本キミエさん(98)と陽子さん(65)の自宅で発生。
2人組の男が白昼堂々松本さん宅に押し入って、棒状のもので2人を殴打した後、犯人は金品を奪った上にキミエさんを連れ去った。
キミエさんはその後、近辺の山間にて焼死体となって発見されている。
陽子さんはこの事件でキミエさんを庇い右目を失う等、頭部に重傷を負っていた。
警察は今回発見された白骨遺体の男性が強盗誘拐事件の犯人の一人と見て事件の関連性を捜査している。
この男性が何らかの事件や事故に巻き込まれた可能性も視野に入れ全容解明を急いでいる。