戻る場所は、まだ消えていなかった
最初に違和感を覚えたのは、いつだっただろうか。
世界がどこか透けて見えるような、現実の皮膚の裏側にもうひとつの層があるような――
そんな奇妙な感覚を抱きながら、私は日々をなんとかやり過ごしていた。
職場では、周囲の言葉がシャボン玉のように聞こえていた。意味を持たず、すぐに弾ける。
けれど私は、「元の私」に戻るためには、この場所で働き続けなければならないと信じていた。
それが、唯一の「現実」だと思い込んでいた。
そんなある日、私は幻覚を見た。
何かが迫ってくる。恐ろしい何かが。
それは私だけに見えて、誰にも届かず、誰も気づかない。
でも、私には確かにそこに「いた」。
「誰かが巻き込まれてしまうかもしれない」
そう思った私は、必死だった。
助けたかった、守りたかった。
けれど結果として、私は笑われた。
奇異の目で見られた。
何もかもが壊れたように感じた。
その後のことは、よく覚えていない。
記憶はところどころ白く霞み、断片だけが残っている。
誰かの声、白い天井、重いまぶた。
そしてただ、「もう戻れない」と思った。
時間がたち、病名がついた。
解離性障害。
その言葉を見たとき、私は少しだけ泣いた。
「そうだったんだ」
自分を責める材料が、一つ消えた気がした。
そして――
ただの沈黙だと思っていた家の空間に、
そっと差し出される湯飲み、
話しかけられなくても隣に座ってくれる人、
「今日もゆっくりしてていいよ」と言ってくれる声――
そうした日々の中で、私は少しずつ、心の温度を取り戻していった。
もう職場には戻れない。
でも、それでもいいのかもしれない。
“あの頃の私”を、どこかに置いてきてしまったとしても、
今ここに、“新しく目を開けた私”がいる。
傷ついた自分も、迷っていた自分も、
誰かを守ろうと必死だった自分も――
全部ひっくるめて、ようやく私はこう思えるようになった。
「まあ、良いか」って。
そして今日も、家族の湯気の向こうに、
まだ消えていない「戻る場所」を見つけながら、
私はまた、静かに一歩を踏み出す。