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白いガゼボのまわりに、春風が優しく吹き抜ける。
花の香りと笑い声に包まれる空間――その中で、ひときわ目を引く少女。
若草色の髪に、桃色の瞳。光を受けてきらめくレースの帽子。
愛らしいその微笑みに、私の心がざわついた。
(……彼女は、オリビア・フルリエ)
ゲーム『オリビア・ストーリア』の主人公。
誰にでも優しく、慈愛に満ちた微笑みで人々を癒す“聖女”と称された少女。
――けれど、それはゲームの中盤以降の話。
彼女は、“愛人の娘”として伯爵家に生まれた。
その出自ゆえに、社交界から遠ざけられ、蔑まれて生きてきた。
伯爵はオリビアの母との関係を続け、さらに二人の子を授かる。
しかし、オリビアたちが“鬱陶しくなった”というあまりにも自分勝手な理由で彼女たちを捨てるのだ。
住む家をなくしたオリビアとその家族は、必死に日々を過ごしていた。
――そんなとき、転機が訪れる。
たまたま視察に来た王族の馬車が事故に合い、中にいた王族の一人が大きな怪我を負う。
その姿を見たオリビアが、神の力とされる神聖力を開花させ、あっという間に怪我を治したのだ。
傷を癒す奇跡の力は、瞬く間に噂となり――貴族たちはあっさりと態度を変えた。
そこから彼女の生活は一変し、特待生としての学園生活が始まる――
と、そんなお話なのだが。
それがどうして今、こんな華やかな場に彼女がいるのだろうか。
「まぁ、ライアン様もいらしたのですね。お会いできて光栄ですわ」
柔らかな声でそう言った彼女はライアン様にだけ笑みを向ける。
まるで私たちは空気のよう――
その行動は、私の好きな彼女とは似ても似つかない。
失礼な姿に咳払いをひとつして、私達の存在を彼女に知らせる。
「えっと……あなた方は?」
「お名前を尋ねる前に、まずはご自分から名乗るのが礼儀ではなくて?」
私は公爵家の令嬢。そしてルーク様は、この国の第一王子。
知らぬはずはない。周囲の令嬢たちも、私たちを見て小声でささやいている。
「これは、失礼いたしました。伯爵家の令嬢オリビア・フルリエと申します」
「ごきげんよう、オリビア様。公爵家令嬢のリネット・テイラーですわ」
「ルーク……ホワイト……です……」
何も言わずとも自己紹介をする事ができたルーク様に賞賛の拍手を送りたい所だが、その気持ちをぐっとこらえて、彼へ微笑む。
彼女は、私たちに形式的な挨拶をすると――視線はまたライアン様の元へ。
「ライアン様、もしよろしければ皆さんと一緒にお話しませんか?」
「はぁ?」
その言葉に、他の令嬢たちもそわそわと期待の眼差しを向ける――と、同時に私とルーク様には嫌悪の目。
“なんであの子たちが一緒に?”
“あれが例の王子様?”
“早くどこかに行かないかしら”
無言の圧力が、ルーク様を包む。
その心地悪い空気に、彼の顔がだんだんと曇っていくのがわかった。
(このままで、いけない)
またルーク様が負う必要のない傷を刻んでしまう。
その前にこの場から立ち去らなければ……
私はそっとルーク様の手を取り、その場を離れようとした――そのとき。
――ビュウッ!
突風が吹き抜け、オリビア様の帽子が宙を舞い、ルーク様の足元へと転がる。
「あ……これ……」
ルーク様が拾おうと、そっと手を伸ばした、その瞬間。
「やめてっ……!」
甲高い叫び声が、広場に響き渡る。
「その汚らわしい手で、私の大切なものに触らないで!!」
その瞬間、空気が凍りついた。
誰もが動けなくなるなか、オリビア様は小さく肩を震わせて、帽子を胸元に引き寄せた。
その瞳は怒り……いや、それ以上の明らかな“敵意”が宿っていた。
周囲の令嬢たちは一瞬戸惑いながらも、すぐに彼女に追従する。
「……当然よね」
「だって、“アレ”だものね……」
ルーク様の肩が、小さく震えるのが見えた。
俯いたその顔は、表情すら分からない。
ただ、彼を包む空気が、あまりにも冷たく、理不尽な敵意だった。
(まるで――存在そのものを否定するかのように)
血が沸き立つのを感じる。
理由もなく人を貶めるなんて、あまりにもひどい。
怒りに駆られ、一歩を踏み出そうとしたとき――
「リネット様……大丈夫です……」
後ろからそっと、私の手を引き止めたのはルーク様だった。
声を震わせ、その瞳に光は、ない。
「ぼく、が……軽率でした……すみません……先に、失礼します」
掴んでいた私の手をそっとほどき、彼はそのまま、顔を見せぬまま去っていった。
その背中に向けられた、周囲の視線は――まるで“厄介な荷物が片づいた”と言わんばかりの顔で、安堵の表情を浮かべている。
(なん、で……)
なんで、なんで、なんで……っ
「彼が、貴方たちに何をしたというのですか……」
ようやく絞り出した声は、震えていた。
「ただ、優しくしてくれただけなのに……」
容姿が醜いから?
気に食わないから?
そんなくだらない理由で、あんなに優しい彼を傷付けているのか?
「彼を傷つけて、平然としていられる貴方たちを――私は、決して許しません」
たとえ、貴方が“主人公”だとしても。
彼のためなら、私は“悪役”にだってなってみせる。
「こんな失礼な方々と、同じ空気すら吸いたくありません……失礼いたします」
足元のスカートが舞い上がるのも構わず、私は彼を追いかけた。
途中、止まらない涙を拭い、全力で追いかける。
***
最後の曲がり角を曲がったとき、ちょうど部屋に入ろうとするルーク様が目に見えた。
しかし、距離があまりにも遠すぎる。このままでは、追いつけない……っ
「……待ってくださ……!」
けれど、焦る気持ちが足元をもつれさせた。
「きゃっ!」
――ズサッ
転んだ拍子に足を擦りむいたらしく、じんじんと熱を帯びる。
その痛みに身動きできず、先程抑えたの涙が、再び頬を伝ってこぼれた。
それが、転んだ痛みか、悔しさか、情けなさか――もう、自分でもわからなかった。
「リネット様!」
もうとっくに部屋に入ってしまったと思っていた。
慌てて戻ってきた彼が、手を差し伸べる。
「泣かないでください……」
思えば、最後に泣いたのはいつだったか。
涙の記憶はあまりにも遠くて、止め方も忘れてしまったみたいだった――
「ごめんな、さい……」
――すぐに、あなたを守ってあげられなくて。
こらえようとしても喉が震え、しゃくりあげる音が漏れてしまう。
そんな私の頭を、彼はそっと――まるで壊れ物を扱うかのように優しく撫でてくれた。
「謝らないで、ください……彼女たちの、言葉は……ごもっともです……」
そう微笑んだ彼の顔は、あまりにも悲しかった。
「……そんなことっ!」
「そんなこと、ありますよ……」
悲しげに笑う彼を今すぐにでも抱きしめたい。
しかし、そんな顔をさせてしまったのは私。
私の独りよがりで、彼を外に連れ出し、彼が傷ついてしまったのだから。
そんな私が、彼を心配するなど烏滸がましいこと。
「私のせいで……」
――もう止めよう。
私の行動が逆に彼を傷つけてしまう。
このまま彼を誰の目にも晒さず、静かに、傷つけずに暮らせるなら……それが彼にとっての幸せなのかもしれない。
「だけど……」
凛とした声で、彼は言う。
「ぼくのせいで、リネット様が傷つくのは……嫌です」
ただただ、真っ直ぐに私を見つめる。
「それに……リネット様、最初に言ってくれましたよね……?
“ぼくを、立派な国王にしてくれる”って」
その瞳には、光が戻っていた。
「どうかぼくに、教えてください。
誰にも笑われない教養を。
貴方と並んで胸を張れる作法を。
貴方の隣に立つにふさわしい、ぼくになるために」
「あなたが泣くようなことは、もう二度とさせません」
――ああ、私はなんてことを。
もう、彼は初めて会った頃の彼じゃない。
こんなにも前を向いて、立ち上がろうとしている。
私は涙を拭い、そっと笑みを浮かべた。
「ふふ、私のレッスンは厳しくってよ?」
「が、頑張ります!」
そう言って差し出した私の手に、答えるように――しっかりと、力強く、握り返した。
小さなその手は、まだ頼りなくても。
それでも今、確かにまっすぐな決意を宿していた。