8
「リ、リネット様……!」
それは、彼の元へ通い始めて七日目の事だった。
「助けて、ください……!」
今にも泣き出しそうな顔で訴える彼の手には、あの花瓶。
大切そうにぎゅっと抱きしめていた。
中には、首を垂れた白いチューリップ――しかし、その命は尽きていた。
彼の気持ちを落ち着かせるため、私はそっと手を引き、椅子に座らせる。
そして、なるべく穏やかに声をかけた。
「仕方ありませんわ。そのお花は、静かに役目を終えたのです」
――そう。このチューリップは、彼に多くの“感情”を残してくれた。
きれいだと思う気持ち。
大切にしたいと思う気持ち。
そして――“助けたい”と思う気持ちを。
「切り花の命は、せいぜい五日ほど。でも、七日も咲き続けてくれたのは……きっとルーク様のそばを離れたくなかったのでしょうね」
彼の黒髪にそっと触れた。もう、以前のようなフケはどこにもなかった。
その言葉が意外だったのか、彼は恥ずかしそうに顔を伏せていた。
「もしよろしければ、一緒にお庭に埋めに行きませんか? そのお花の栄養が、きっと次の命を育んでくれますわ」
この提案は、小さな賭けだった。
なぜなら、それは彼を“外の世界”へ連れ出すことを意味していたから。
けれど――、
「行きます」
はっきりと。声は少し震えているが、それでも迷いのない瞳で、ルーク様は私にそう言ってくれた。
――そこからの私の行動は早かった。
外出の準備として、彼の服を整え、少し乱れた髪をそっと梳かしてあげる。
ちょうどよく顔を出したライアン様には、うまく――いえ、丁重にお願いして、庭園の使用許可も取りつけた。
「俺のお・か・げ、で行けるんだからな」
「ええ、ライアン様。本当にありがとうございます」
「うん……ありがとう、ライアン……!」
これで準備は整った。庭園の場所は――、以前父と訪れたことがあるので問題なく行けるだろう。
チューリップを持ったルーク様の手を取り、扉に手をかけようとしたそのとき――
「な、ちょっと待てよ!」
背後からライアン様の声が飛んできた。
「どうかなさいました?」
「……俺も、行く」
思わぬ申し出に、私は驚いた。
ゲームの中のライアン様は、花や情緒あるものにまるで興味を示さなかった。
いつも鍛錬と勉学に時間を割き、どのルートでも“努力型の王子”として描かれていたのだ。
(それなのに、どうして……?)
疑問はあったが、ここ数日の彼の行動を思い出せば、少しだけ合点がいった。
(私がいる時間に、必ず現れる)
以前、ルーク様に聞いたことがある。
私が訪ねる前、ライアン様は“不定期”に現れていたそうだ。
それが今では毎日決まった時間に訪れ、こうして外出にもついてくる。
(……もしかして、警戒されてる?)
疑念が頭をよぎる。
「えっと……ライアン様は、お忙しくないのですか?」
「はぁ? 誰が忙しいって言ったよ」
「いつもお帰りの際に、“これから剣術だ”とか“先生が来る”とか仰ってたので……」
「今日は暇なんだよ。……って、何だよ。俺がついて行くの、迷惑ってことか?」
むすっと唇を尖らせ、こちらを睨むように見る彼の顔。
(……ああ、これは)
私は思わず微笑んだ。
(……一緒に遊びたいのね)
たしかに彼は十二歳。年齢の割に落ち着いているけれど、心はまだ幼さを残している。
きっと、こうして一緒に外に出るのが嬉しいのだ。
「とんでもありませんわ。ライアン様がいてくださるなんて、心強くて頼もしいですもの!」
「……なっ!」
顔を赤らめ、ぷいとそっぽを向くライアン様。
だが、ほんの少しだけ口元が緩んでおり、嬉しさが滲んでいた。
ルーク様も一緒に行けることが嬉しいのか「うんうん」と何度も頷いている。
「それでは、三人で行きましょう!」
初めて、三人での“外出”が始まった。
***
「わ……すごい、広い……!」
城の庭園は、やはり見事だった。以前見たときも思ったが、圧巻の広さだ。
そこでは色とりどりの花たちが、庭師の丁寧な手入れを受けて、宝石のようにきらめいていた。
その美しさにルーク様も目をぱちぱちとさせながら、楽しそうに花々を見ている。
「おい、ルーク! あんまりはしゃぐな、転ぶぞ!」
「あっ……!」
ライアン様の忠告も虚しく、ルーク様はつるりと足を滑らせて転んでしまう。
「言ったそばから……」
「ルーク様! 大丈夫ですか!?」
私は急いで駆け寄る。
彼は腕に抱えたチューリップを見せて、少し得意げに「お花は、無事、です!」と言った。
けれどその腕には、細かな擦り傷ができており、私は持っていたハンカチで、優しく傷口を拭った。
「ご、ごめんなさい……リネット様……」
「気にしないでください……と言いたいですが、ルーク様は、もっとご自身も大切になさって」
いつも、自分より誰かを優先する彼。
優しい彼だから仕方ないことだろうが――、
「ルーク様に傷ができるたびに、私は……とても悲しくなりますの」
彼にはこれ以上、些細な痛みも残したくない。
「ど、努力……してみます……」
ここで、「はい」と言わないのがまた彼らしい。
私はそっと微笑み、気を取り直して、チューリップを埋めるのにふさわしい場所を探すことにした。
満開の花々の香りに包まれながら、私たちはゆっくりと歩を進めた。
ふと目を向けると、一人の庭師が丹念に花の手入れをしている。
ライアン様が彼に声をかけ、どこかふさわしい場所がないかと尋ねると、庭師は穏やかに頷き、日当たりと風通しのよい木陰を教えてくれた。
「ここなんか、いいんじゃねぇか?」
「うん……ここ、すごく……気持ちいい」
頷いたルーク様に小さなスコップを渡す。
土を掘るのも、きっと初めてだろう。
それでも彼は、慎重に、丁寧に、少しずつ穴を掘り進め――静かに花を横たえた。
「……ありがとう」
土の中に眠るチューリップに向けて、彼は小さな声でそう囁いた。
それは誰に強いられたわけでもない、彼自身の想いから生まれた“感謝”だった。
――感情は、確かに育っている。
私は、そっと目を閉じて手を合わせた。
続いてライアン様も、少し気恥ずかしそうにしながら、短く「……安らかにな」と呟いてくれた。
***
花を見送ったあと、私たちはもう少し庭園を歩いて回ることにした。
「それにしても、本当に広いですね……二人だけだったら、迷っていたかもしれませんわ」
「うん……ライアンがいてくれて、ほんと助かった、よ」
ルーク様の素直な感謝に、ライアン様は鼻を高くして胸を張る。
「そうだろう、そうだろう! そうだ、さらにいい場所を教えてやるよ!」
ライアン様はそう言って、庭園のさらに奥――、背の高い木々のトンネルを抜けた先へと私たちを導いた。
その先にあったのは、白く光る小さな屋根のある建物。
白を基調とした、繊細な装飾が施されたガゼボだった。
「すごい……まるで絵本の中みたい……」
「だろ? 令嬢たちがティータイムする場所らしいぜ。今度、使用許可取っておいてやるから、三人で来ようぜ」
「まぁ、それは楽しみですわね!」
「う、うん!」
ルーク様も嬉しそうに頷いている。
そんな話をしていると、ガゼボに向かって、数名の令嬢たちが集まってくるのが見えた。
「……今日、誰か予約入ってるって言ってたな。たしか、昼からだったか」
「それでは、近くで見学できただけでも幸運でしたわね。そろそろ帰りましょう、か……」
そう言いかけた瞬間――
私の足が止まった。
風に揺れるスカート。春の芽吹きを思わせるような若草色の髪。
愛らしい桃色の瞳に、桜のようにふんわりと色づく唇。
「……あら。殿方もいらっしゃるんですね」
微笑みながらこちらに向けた、鈴のようその声――
私は息を呑む。
――そう。
このゲームの主人公。
“オリビア・フルリエ”が、そこにいた。