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「本当、良かった……」
部屋の明かりを落とし、ベッドに腰を下ろす。
天井を見つめながら深く息を吐けば、ほんのりとした安堵が胸に満ちていく。
窓の隙間からこぼれる月の光が、今日の出来事を優しくなぞってくれるようだった。
チューリップを渡したあと、私は少しだけ彼と会話を交わし、すぐに部屋を後にした。
また急に距離を詰めてしまっては、彼を怖がらせてしまうかもしれないから。
“……あり、がとう……ございます……”
その一言を思い出すたびに、胸がくすぐったくて、自然と笑みがこぼれてしまう。
彼の声で、彼の意思で、私に向けられた言葉。
それがどれほど特別なことか、私は知っている。
(もっと、知ってほしい……)
生きることの温かさを。誰かと関わることの楽しさを。
原作のように、感情のないまま生きる彼じゃなく――笑って、泣いて、怒って、誰かを好きになって。そんな人生を彼に歩んでほしい。
「明日は……どんなお話をしようかな」
思わず口に出して呟いたそのとき、ふとあることを思いついた。
「そうだ……花瓶を用意しよう」
屋敷の倉庫にあった、陽の光を受けると七色にきらめく花瓶。
あの白いチューリップを飾るにはぴったりだ。
窓辺に飾れば、部屋にも光が差し込む。
その景色を、彼が「綺麗」と思ってくれたら――それだけで嬉しい。
「………」
だけど。
ふと頭に浮かぶのは、今日見た彼の姿。
伸びた髪に乾いたフケ、身体に纏う異臭。初めて会ったときと何も変わっていなかった。
私が毎日訪ねるようになっても、彼を取り巻く環境だけは――まるで時間が止まったままだった。
“今日も誰も入らなかったって。もう三日よ? 換えの服もないんじゃない?”
そんな噂を耳にしたのは、ほんの昨日のこと。
ならば当然、彼は今日もひとりだったのだろう。
着替えも、湯浴みも、誰に頼ることもできずに。
「……それなら、私の手で」
その手を、髪を、身体を――綺麗にして差し上げることはできないだろうか。
「湯浴み道具も……持って行ったほうがいいかしら……?」
そう呟いた自分の声が、少しだけ頼もしく聞こえた。
***
「ご機嫌よう、ルーク様。いらっしゃいますか?」
いつもと同じ十一時、いつもと同じ廊下、同じ扉の前。
でも今日は、ほんの少しだけ、胸の奥が温かい。
声をかけ、しばしの沈黙ののち――
「……どうぞ」
かすかな声が、扉の向こうから返ってきた。
(――よし)
弱々しく、今にも消え入りそうな声で彼が部屋へ誘う。
嫁入り前の娘が男性の部屋に訪れるなど、一般的に“はしたない”と言われるだろう。それに余程の理由がない限り、お父様がそんな行為を許すはずがない。
しかし、彼は一国の第一王子。
そう“余程の理由”に当てはまる存在なのだ。むしろ「この状況は好機だ、良くやった」と褒められるかもしれない。
「ありがとうございます」
軽く会釈をし、彼の部屋へ足を運ぶ。
ここで手を差し出さないのがまた彼らしい。
さて、長期間引き篭もっていた彼の部屋はどうなっているのか。
侍女も全く近寄らない部屋だ。汚部屋になっていたとしても仕方がない。
「わぁ……」
覚悟はしていたが、それでも思わず声が漏れた。
空気はどんよりと淀み、服や本があちこちに散乱していて、足の踏み場もない。
締め切られたカーテンのせいで部屋は薄暗く、うっかりすると躓いてしまいそうだった。
そんな中、窓辺のテーブルセットがひときわ異彩を放っていた。
綺麗に整えられ、その上には昨日渡したチューリップが、コップに生けられて風に揺れている。
「す、すみません……こんな、部屋にお通しするわけにも行かないと思って……掃除しようと、思ってたのですが……ここまでしか、出来なくて……す、すみません……」
一国の王子になんて台詞を言わせるのだろうか。
そんなこと彼は考えなくて良い。だって身の回りの事は侍女に任せればいいのだから。こんなの職務放棄もいいところ。
ここまで露骨だと沸々と苛立ちを覚える。もちろん彼にではなく、彼の周りに、だ。
「ふふふ、これはお掃除の甲斐がありそうですわね。私もお手伝いします!」
「だ、大丈夫です……! もう少し……お時間頂ければ……自分で、でき、ます……」
「ですが、二人でやった方が早く終わりますわ。それとも……他人には触れられたくないのでしょうか?」
「それは……大丈夫、ですが……その……」
彼の声が徐々に小さくなり、耳を凝らす。
「綺麗な……手が、汚れて……しまい、ます……」
そんな褒め言葉が彼の口から出ると思わず、彼を見つめた。
もじもじと自分の手を揉みながら俯くその姿に、胸が締めつけられる。
――この人は、本当に優しい。
「ふふ、ありがとうございます。でもルーク様の手も、とても綺麗ですわ」
「ぼくは、薄汚れてて……指も手も肉々しくて……ちっとも綺麗じゃない、です……それに、この手は……貴方を……」
「とても綺麗ですわ」
彼の言葉に声を重ね、そっとその手を取った。
「爪、切ってくださったんですね」
歪ながらも、明らかに短くなった爪。
きっと、自分で処理してくれたのだろう。
私を傷つけてしまったことを気にして――その想いが、指先に滲んでいる。
この手は、間違いなく優しさの詰まった、“世界で一番綺麗な手”だ。
「あの日は……本当にごめん、っ……なさい……」
垂れ下がった前髪で隠れた瞳から大粒の涙が零れ落ちる。
「私こそ、驚かせてしまって申し訳ございません」
「ごめんなさいっ……ごめんなさいっ……!」
そんな彼を見て、目が熱くなる。
あんな些細なこと、こんな涙を流して謝る必要などない。
何度も何度も謝罪する必要などない。
王が、王妃が、城の人が、周りの目が、優しい彼をこんなに追い詰めてしまったのだ。
「ねぇ、ルーク様……もう一度お願いがあります」
――こんな優しい彼を、“史上最悪の国王”なんて呼ばせたくない。
「私が、あなたを一人前の王にしてみせますわ」
――こんなに綺麗な彼を、“醜い”なんて言わせない。
「まずは……私と、お友達から始めてくれませんか?」
「こんな……醜いぼくに、話しかけてくれるのは……貴方だけでっ……すっ……」
嗚咽しながら辿々しく答える彼の手を、ぎゅっと握り締める。
「リ、ネット……さま……ぼくと友達に……ぼくを、立派な……王にして、くれます……っか?」
「はいっ。お約束します……!」
そのとき、長い前髪の隙間から――初めて、彼の満面の笑顔が見えた。