閑話
「……ふう」
ルークたちと別れ、廊下の角をひとつ曲がったところで、俺は壁に背を預けた。冷えた石が背に沁みる。
肺の奥の熱を吐き出すみたいに、長く息をつく。
(……夢じゃ、なかったのか――!)
脳裏に、毒から覚めた直後の光景が鮮やかに戻る。
腕の中でリネットが息をのんだときの、微かな震え。
普段は背筋をぴんと伸ばし、言葉も所作も鎧みたいに隙のないくせに――抱きしめてみれば驚くほど細くて、やわらかくて。
ああ、ちゃんと“女の子”なんだ――そう思った瞬間、情けないくらい胸がいっぱいになった。
毒にやられていたはずの頭が、そこだけやけに冴えて――
「お、俺……ほ、頬に……キ……」
キスを、してしまった。
毒にうなされている間、ずっと後悔していた。彼女のそばを離れたことを――
もう二度と会えないのではないか。
俺の前から消えていなくなってしまうのではないか。
そう考えたら、不安で苦しくて――気づけば、目の前のリネットを抱きしめていた。
距離を置いたあとだったぶん、余計に恋しかった。
夢なのに、腕の中はあまりに温かくて。
花のような香りが愛おしくて。
感情が、抑えられなかった。
だけど、だからって――
「混濁していたからとはいえ、キスはどうかと思います」
「うおっ!? ノ、ノア。お前、いつからそこに!?」
視線を上げると、曲がり角の陰からノアがすっと現れた。
相変わらず俺にはぶっきらぼうに話すその姿は、リネットの前との落差に、苦笑いが出る。
「“耳まで真っ赤な”病み上がりを、一人で部屋に返すのは心配ですからね。……まあ、お姉様もルーク殿下も、そのことには気がついていないようなので、安心してください」
心臓がひとつ跳ね、次いで大きく息を吐く。
隠したつもりでも、こいつにはとうにバレてるのだろう。俺の気持ちに――
「……あいつらには、言うなよ」
「言いませんよ。わざわざお姉様の気を貴方に向ける必要はありませんから」
「……お前も、好きなんだよな」
その問いに、ノアは当然と言うように鼻で笑う。
弟という肩書で隣に立ちながら、こいつは明らかにリネットに好意を抱いている。
そしてそれを隠す気なんか、最初からない。
「……婚約者がいるのに、よくやるな」
「甘いですね、ライアン様。まだ、ただの婚約者です」
「……は?」
「お気づきではないですか。二人の“恋愛に鈍い”ところに。距離は近いのに、心の形をまだ言葉にできていない。信頼と敬意と“家族”に似た温度の中で、立ち止まっていることに」
確かに、奴らは恋人と呼ぶには遠い。
けれど友達なんて軽さでもない。
互いに背を預け合える――そんな関係だ。
「お姉様の気持ちを、こちらに傾けるよう努力すれば、いつでも挽回はできます」
「……お前、弟じゃねぇのかよ」
「俺は養子です。それに、法的な手続きはまだ終えていません。婿養子として公爵家に入る道も、理屈の上ではありますよ――俺は、絶対に諦めない」
その瞳の奥には、決意の炎が宿っていた。
けれど、諦めたくないのは……俺も同じだ。
「……んじゃあ、俺も頑張らねぇとな」
「ふふ、敵に塩を送ってしまいましたね。負けませんよ、ライアン様」
「上等だ」
言葉にしてみると、腹の底が静かに熱くなる。
ノアが肩をすくめ、少しだけ口端を上げた。
「それと、もう一人。気をつけるべきはルーク殿下です。お姉様の魅力に彼が“気づいた”瞬間――彼は多分、俺以上に危ない」
「自分がやべぇ奴ってのは自覚してんだな。……まあ、そこは100%同意だ」
互いに短く笑い、壁から背を離す。
今はまだ、友人の一人で構わない。
――いつか、あの笑顔を俺だけに向けさせてみせる。




