32
いつもと変わらない、静かで人気のない廊下。
けれどこの日ばかりは、張り詰めた空気が肌を刺していた。
重たい沈黙の中で、国王陛下はルーク様の部屋の前に立ち竦んでいた。
彼は拳を固く握りしめたまま、扉に手を伸ばそうとしては、すぐに引っ込める。
――その動作を何度繰り返しただろうか。
肩に入りすぎた力と、顔に浮かぶ緊張の色は、否が応でも伝わってくる。
長い年月、避け続けてきた相手に向き合うことが、どれほど勇気のいることか。私は黙ってその背中を見守っていた。
陛下はごくりと喉を鳴らし、意を決したように小さく息を吸った。
そして――
コン、コン。
控えめながらも真っ直ぐなノックの音が、廊下に響いた。
「はい、どうぞ」
ルーク様から部屋に受け入れる声が返ってきた。
だが、返事があっても、陛下はすぐには動けなかった。伸ばしかけた手は扉に届かぬまま、中空で止まり、ただ立ち尽くす。
その緊張した姿は、まるでかつてのルーク様と重なって見えた。
(……やっぱり、似た者親子なのですね)
呆れつつ笑いをこぼすと、部屋に入ってこないことに不思議に思ったのか、扉がガチャりと開いた。
「どうされましたか……って、父上とリネット様!?」
顔をのぞかせたルーク様が、驚きに目を見開く。その視線はまず私を捉え、次いで陛下へと移り――明らかに戸惑いと怯えの色が走った。
それも無理はない。自らを閉じ込め、遠ざけ続けた父が、突然この部屋の前に立っているのだから。
「……入っても、いいか」
低く絞り出すような声で、陛下が口を開いた。
ルーク様は一瞬だけ言葉に詰まり、息を呑んだようだった。けれど、その迷いはすぐに柔らかな微笑みへと変わり、彼はそっと頷いた。
「もちろんです、どうぞ入ってください」
その言葉に促され、私たちは静かに部屋へと足を踏み入れる。
清掃が行き届いた空間。窓には薄く陽が差し込み、磨かれた床は光を反射している。
だが、陛下もすぐに気がついただろう。
朽ちかけた机、補修の跡が幾度もある椅子。
着古され、大きさがあっていないルーク様の衣類。
そして誰も給仕していない痕跡――
この部屋には、王子として当然あるべきものが、ほとんどなかった。
「……これが、お前の暮らしだったのか……」
陛下が呟いた声は、絞り出すようにかすれていた。
「どうして、私は……」
陛下の言葉が詰まる。
顔を覆うようにして、うめくように言葉を続けた。
「見ようともしなかった……目の前にあったものを……ずっと、見てこなかった……!」
その声には、悔恨と自己嫌悪が滲んでいた。
私は何も言えなかった。言葉を挟む資格が、自分にあるのかも分からない。
ルーク様もまた、困惑の表情を浮かべたまま黙っていた。
「……お前は、何も悪くなかったのに。悪魔の子などと呼び……!」
陛下はそこで言葉を飲み込み、唇をかみしめた。
何かを振り切るように目を伏せ、拳を固く握る。
その肩は、わずかに震えていた。
長い沈黙が落ちる。
ルーク様は動かず、ただ父の次の言葉を待っている。
私の耳には、自分の鼓動と、陛下のかすかな息づかいだけが響いていた。
――そして、
ドサリ、と音を立てて陛下が膝をつき、深く頭を下げた。
「……本当に、申し訳なかった……悪魔は、私だった……」
「ち、父上……!? やめてください、顔を上げて……!」
慌てて駆け寄るルーク様。だが、陛下は顔を上げずに言葉を重ねた。
「この手で、お前を蔑ろにし、閉じ込め、孤独に追いやった。誰よりもお前を守るべき私が……!」
ルーク様は戸惑いながらも、そっとその肩に手を置いた。
そして、柔らかく――それでも確かな決意を持って、口を開く。
「……今までの暮らしは、辛くなかった、といえば嘘になります。でも、父上のことをずっと……尊敬してきました。王としても、父としても……」
陛下が、ゆっくりと顔を上げる。
涙を浮かべた瞳が、息子をまっすぐに見つめていた。
「それに……父上がいたから、私はリネット様と出会えた。こんな私に、希望をくれた彼女に。その出会いをくれた父上には、感謝してもしきれません」
「……ルーク……」
「もし、良ければ……これからは、父として――家族として、過ごす時間を作ってもらえませんか?」
その願いに、陛下の肩が大きく揺れた。
「……ありがとう、ありがとう……! こんな私に、そんな言葉をかけてくれるなんて……」
彼は堰を切ったように、ルーク様を抱きしめた。
王としてではなく、一人の父として――ようやく、取り戻した絆だった。
私の胸にも、じんわりと熱いものが広がっていく。
「ようやく、謝ることができましたね」
柔らかく、それでいて芯のある女性の声が響いた。
「っ……リリア……!?」
驚き、振り返った先には、部屋の隅に立っていた王妃様の姿があった。
唖然とする陛下を前に、王妃様は微笑みを浮かべて肩をすくめる。
「ずっといたわよ? でも、私に気が付かないほどルークに夢中だったようね、あなた」
そう言ってふわりと笑う王妃様。
茶化すような言い方とは裏腹に、その顔には安心と、喜びの色が滲んでいた。
「そ、その……気づかなかった……すまない……」
陛下がしどろもどろに弁解するが、王妃様はふっと微笑み、首を横に振った。
「分かってますわ。ふふ……それに、陛下だけが悪いのではありません。ちゃんと向き合わなかった私も悪いの」
そして、王妃様はルーク様へと近づき、そっとその手を握る。
「時間はかかったけれど……ようやく、こうして言葉を交わすことができた。これからは三人で、家族の時間を作っていきましょう?」
「……母上……」
陛下はこらえきれず、王妃様とルーク様を両腕で抱きしめた。震える声で何度も、「ごめん」と「ありがとう」を繰り返しながら。
その光景を見て、私はそっと目を伏せた。
(これ以上の滞在は、お邪魔ですね……)
今は、やっと繋がった三人の時間を、家族だけで過ごすべきだ。
そうして、私は音を立てぬよう、静かに部屋を後にした。
***
数日後、私はノアと共に再び王宮を訪れた。
“ライアン様が目を覚ました”という朗報が舞い込んできたのだ。
急いで王宮を訪れた私たちは、案内に従って進むうち、なぜか目的地がルーク様の自室であることに気がつく。
疑問を抱きつつ、部屋の前に来た私たちは扉を静かにノックした。
「開いてるぜ~」
聞こえてきたのは、あまりにも元気なあの声。
勢い良く扉を開けると、そこにいたのはベッドに腰掛けて、あっけらかんと笑うライアン様の姿だった。
「よお、リネットにノア! 元気にしてたか?」
まるで何事もなかったかのような調子に、私は一瞬呆気にとられてしまう。
けれど、次の瞬間、胸に積もっていた緊張が一気に崩れ、堰を切ったように涙があふれてきた。
「……どの口が言うんですか……っ」
「なんだよ、泣くなって。生きてんだから、いいじゃねえか」
からかうように笑ったライアン様の頭に、次の瞬間、拳が振り下ろされた。
「心配させたくせに、それはないだろ?」
ルーク様が無表情のまま拳を引く。
「いってぇ!? 言っとくけど、俺病み上がりだからな?」
「それならちゃんと病人らしく、ベッドで寝てなよ……」
呆れ顔のルーク様がため息をついた。
話を聞けば、ライアン様は目覚めたその日から驚異的な回復力を見せ、医師たちが首を傾げるほどだったという。とはいえ、まだ安静が必要な状態。本人が退屈すぎると駄々をこねた結果、「ルーク様の部屋であれば、外出を許す」という条件付きで許可をもらったらしい。
「……ほんと、あなたって……」
呆れを通り越して、その強引さに感心してしまう。
けれど――本当に良かった。ここまで元気になって。
彼のことだ、多少なりとも無理はしているだろう。
だけど、血色と張りが戻ったその姿を見て、やっと心が軽くなった。
そこへ、ノアがにこやかに口を開いた。
「元気になってなによりです。……ですが、目覚めてすぐにお姉様にしたこと――忘れたなんて言わせませんからね?」
笑いながら、じりじりとライアン様に距離を詰めていく。
その口調は穏やかだったが、目がまったく笑っていなかった。
「え? な、何かしたっけ俺……?」
キョトンとするライアン様に、ノアは一歩ずつ距離を詰めながら笑みを深くする。
「ほぉ……“何か”ですか? それはとても都合のいい言い訳ですね」
「も、もう! ノア止めなさい!」
ノアの言葉で、忘れていたあの事件を思い出し、顔が熱くなるのを感じた。
しかし、当の本人は何のことやらと言った顔で、呆然と返事をしている。
二人の空気を逸らすため、咳払いを一つする。
「……こほん。病み上がりなので、今日は追求しませんが……今度、毒を勝手に飲んだ件も含めて、しっかり説教させてもらいますからね?」
「うげぇぇ……」
心底嫌そうな顔をして呻き声をあげたライアン様はベッドに突っ伏した。
その姿に、私たち三人はくすりと笑い合った。
――ああ、やっと。やっと、いつもの日々が戻ってきた。
温かな笑いの余韻のなか、ルーク様がふと、真面目な口調で口を開いた。
「あの日、父上がすぐに動いてくれたんです。毒の出処や流通経路の調査を、騎士団を総動員して徹底的に洗ってくれました」
ルーク様の言葉に、ノア、そして顔上げたライアン様も軽くうなずく。
「義父様も加勢し、私も少しだけ協力しました。王弟殿下はすでに尋問を受け、今は暫定的に幽閉所にいます」
ノアが冷静に続けた。
「証拠が揃えば、王族の権利剥奪も時間の問題でしょう」
「え……」
思わず息を呑む。王弟が廃されるということは、ライアン様にも影響があるのではないか。
だが、それを見透かしたようにルーク様が言葉を添える。
「もちろん、ライアンへのお咎めはありません。今までどおり、王族として過ごしていただきますので、安心してください」
安堵の息をつきかけた――そのとき、胸の奥に小さな引っかかりが生まれた。
あれほど権勢を誇ってきた王弟殿下が、驚くほどあっさりと処分を受け入れたのだ。
悔しがる素振りすら見せず、淡々と……まるで、それすらも計算のうちであるかのように。
けれど、長く続いた緊張が解けた安堵感が、その違和感を薄れさせてしまった。
「ったく……こんなクズ一家には甘すぎる処分だぜ」
ちらりとライアン様を見やると、深いため息をつきながら、ぽつりとぼやいた。
でも、その顔にはどこか嬉しそうに見えた。
「……ぼくも、正式な王族としての教育を受けることになりました。部屋も本館へ移ることに。こことは、もうお別れです」
彼の言葉に、一瞬、胸の奥が締めつけられる。
それは、嬉しくも寂しい宣言だった。
彼はこれから多忙になるだろう。それは、
今まで、私たちが過ごしてきた時間がなくなることを意味していた。
「……私のお役目も、これで終わりですわね」
思わずそう呟いた私に、ルーク様は慌てて否定する。
「そ、そんなことないです! それにリネット様はこれからも婚約者として……あの……王妃として側に……その……」
徐々に小さくなっていくルーク様の声にぷっと吹き出してしまった。
「そうですわね、私も王宮で学ぶことがありますし、また皆さんで過ごせますわよね」
「……はい!」
ほっとしたように笑ったルーク様が、ふいに真剣な表情に戻る。
「リネット様。お願いがあります」
「……なんでしょうか?」
「最後に、この部屋で――僕の前髪を切ってもらえますか?」
突然の提案に、私は目を瞬かせた。
「……えっ?」
「何もできなかった過去の自分と、ここでお別れしたいんです。これからは前を向いて、国民を守り、導くことができる王族として歩いていきたい。だから、その始まりを――リネット様に託したいんです」
その真剣な瞳に、思わず息をのむ。
けれど――、
「皆様もご存知でしょう? 私、手先が少し……不器用でして。下手すれば大惨事ですわ」
「“少し”か……?」
疑問を呟いたライアン様を、ノアが無言で小突く。
けれど、ルーク様は嬉しそうに首を振った。
「大丈夫です。リネット様に切っていただけるなら、どんな髪型でも誇らしいですから」
「……そこまで言われては、断れませんわね」
私は覚悟を決め、小さなハサミを手に取った。
彼の額にそっと触れ、震える指先で髪をすくい――一束、静かに刃を入れる。
ザクリ、ザクリ、と髪を切る音だけが部屋の中に響き渡る。
「……できま、した」
……切り終えて、部屋の中に沈黙が流れる。
全員の視線がルーク様の前髪に集まる。そこには――
見事に左右で長さが異なる、個性的すぎるアシンメトリーな前髪が完成していた。
誰もが、笑っていいのか真剣に悩んでいる空気。
けれど、その中心で――
「前が、はっきりと見えるようになりました。ありがとうございます、リネット様!」
ルーク様は、誇らしげに、心からの笑顔を見せていた。
「……いや、怒っていいんですよ?」
「いいえ、これが良いんです」
その声は、真っ直ぐだった。
ずっと隠れていた彼の空色の瞳は、もう曇っていない。
私は胸の奥でそっと息をつき――懐から小さな手帳を取り出す。
彼の歩みに、またひとつ、“証”を記していく。
彼の立派な歩みを、またひとつ、“証”として『王子育成計画』に書き記す――
【育成記録】
Ⅰ.マナー・礼儀作法の習得
→王族として最低限必要な作法は身についている。日々の実践を通じて、自然な所作が身についてきた。
Ⅱ.知識の向上
→日々の読書・学習を継続中。とくに植物学への関心が強く、実用と教養の両面で大きく成長。今後は政務・経済・外交についての本格教育が開始される予定。
Ⅲ.体力づくり
→以前に比べ、著しい改善が見られる。顔色・筋力・持久力すべて向上。現在はリネット(記録者)より体力が上回ることも多い。今後も健康維持のため定期運動を継続。
Ⅳ.外見の印象を変える
→肌や髪の手入れなど、自身を意識する習慣が定着。最終課題であった“前髪”についても本日、自らの意志で切る決断を行う。仕上がりは……未評価(記録者による施術のため、評価保留)。だが本人は満足しており、印象も明るくなったため効果は◎。
Ⅴ.人間関係と環境の改善
→最も困難と思われた家族関係に大きな進展あり。国王・王妃との和解が成立し、家族としての時間を再構築中。信頼できる友人との関係も良好。精神的な孤独感は大きく減少。王族としての居場所と誇りが芽生えつつある。
ページの隅に、私は小さく日付と印を記した。
これは一区切りにすぎない。
彼の歩みも、私たちの計画も、ここから先が本番だ。
どうか、彼の進む道がこのまま明るくありますように――そんな祈りを込めて、そっと手帳を閉じた。




