3
「ご機嫌よう、ルーク様。いらっしゃいますか?」
お昼には少し早い、午前十一時。
城の回廊を抜けた先にある、少しひんやりとした静かな廊下。
その突き当たりにある重たく閉ざされた扉の前で、私は今日も静かに声をかけた。
――返事は、ない。
けれど、それはもう想定の範囲内。
婚約を告げられたあの日から……手を握って、真剣に言葉をかけて、そして彼が、泣きながら逃げていった、あの日から。私は毎日、同じ時間に城を訪れている。
晴れの日も、雨の日も、曇りの日も。
誰に言われたわけでもない。ただ、私自身の意志で。
私は――急ぎすぎてしまった。
彼の優しさに心を打たれ、つい感情のままに手を握り、熱く語ってしまった。
でも彼にとって私は、ほとんど知らない相手だった。
いきなり踏み込まれて、どう接すればいいのかもわからず、きっと怖かったに違いない。
だから、謝りたかった。
“ゆっくり仲良くなりたい”と、ちゃんと伝えたかった。
けれどそれ以来、彼は顔どころか声すら聞かせてくれない。
それでも私は、あの日の言葉を嘘にしないために、ここへ通い続けている。
返事がなくても、姿が見えなくても――諦めたくなかった。
城の人々は、そんな私を奇異の目で見る。
「ほら見て、あの方よ。ブサメン王子の婚約者だなんて可哀想に……」
「今日も誰も入らなかったって。もう三日よ? 換えの服もないんじゃない?」
「あんなのが第一王子だなんて……ライアン様のほうがよっぽど王子らしいわ」
ああ、もう本当にバカバカしい。
陰口というよりは、ただの悪意そのものだ。
心の中でため息をつき、扉の前に置かれた小さな椅子に腰掛けた。この椅子も、私の姿を見かねたメイドたちが「せめて足が疲れませんように」と置いてくれたものだ。
ありがたい。でも、その気配りを――ルーク様にも向けてあげられないものだろうか。
「それでは、本日も好きなようにお話いたしますね」
ここに通い始めてから毎日、私はひたすら扉の向こうにいるであろう彼に話しかけた。
最初は簡単な自己紹介や日常のこと。話題が尽きれば、天気や本の話など、思いつくままに。
三十分、長ければ一時間。
無言の扉に向かって、ひたすら話し続けた。
「ルーク様、今日もとても良いお天気でした。ですが、来週から雨が続くらしいのです……ここだけのお話。私、癖毛なので少しだけ憂鬱です……」
「ですが、それを除けば雨も嫌いではありません! 雨の日にしか出会えない動物や雨の音は読書にもってこいなんですよ」
「読書といえば……先週はヘンリー・ガルシアのお話をいたしましたよね? ディランの冒険談。とても明るく、ハラハラしつつも夢のある素敵なお話でした!」
「ですが、そんな彼の処女作は真逆の物語を書いたらしく、残虐的なお話ですが中毒性が高いと聞いて、とても気になっているんです!」
「ただ、数冊しか刷られなかった事と内容の問題で中々手に入らないんですよね……彼の実体験を元にしたお話らしいのですが、ええっとなんてタイトルだったかしら……」
「……自由を知った罪」
「そうそう! 自由を……え?」
周囲を見渡しても、誰もいない。
でも、私は確かに聞いた。
小さくて、震えるような――彼の声を。
「ルーク様?」
しかし、呼びかけるが扉の先の住人は答えることはない。
だけど確かに。彼はこの扉一枚先にいるのだ。
私はそっと、扉の取っ手に手をかける。
――かちゃっ……
鍵がかかっていない。それは、今まで無かったこと。
扉が、ひらく――
「あなたは……ぼく以上に変わり者、ですね……」
鼻の頭を真っ赤にしながら、彼は小さく、小さくそう呟いた。
私は、そっと微笑む。
「……ええ、たしかに私は少し変わっているかもしれませんわね。でも――」
そこで言葉を区切り、私はそっとポケットから小さな花束を取り出す。
今朝、屋敷の庭で摘んできたばかりの白いチューリップ。
柔らかく揺れるその花たちは、どこか彼の雰囲気に似ていて、自然と手が伸びていた。
「でも、あなたのように優しい変わり者には、何度だって会いたくなるんですの」
そっと、花束を両手で差し出す。
「よろしければ、お部屋に飾ってくださいませんか? この花、きっとルーク様のそばで綺麗に咲いてくれると思いますの」
ルーク様は、驚いたように目を瞬かせた。
その表情は、戸惑いと警戒と、ほんの少しの期待が入り混じったような、不思議なものだった。
そして、躊躇いがちに、小さな手がゆっくりと伸びる。
彼の指先が花束に触れた瞬間――私はそっと微笑んだ。
「……あり、がとう……ございます……」
かすれるような声だった。けれど、その一言が胸に温かく染み込んでいく。
やっと。ほんの少しだけれど。
私の声が、想いが、扉の向こうに届いた気がした。