28
――馬車の車輪が石畳を弾く音が、やけに遠くに響いていた。
王宮からの帰路、窓の外に流れる街並みを、何度も見ては目をそらし、また見て……その繰り返し。
胸の奥はざわめきっぱなしで、焦燥を押し隠す余裕などなかった。
(ライアン様……どうか、どうか――)
心臓の鼓動が強まり、握ったハンカチが指の形にしわくちゃになる。
「ただいま戻りました!」
馬車が止まるや否や、扉を押し開けて玄関を駆け抜けた。
いつもなら静かに歩みを運ぶところだが、今はそんな礼儀を気にしていられない。
「お嬢様!? そのお姿――」
「後にして、父の執務室へ通して」
侍女たちの驚く声を背に、まっすぐ廊下を進む。
呼吸は早く、足音も落ち着きを欠いていたが、頭の中はただ一つ――間に合わせなければ、という思いでいっぱいだった。
「お父様、リネットです。急な訪問、申し訳ございません。少しお時間をいただけますでしょうか?」
少しの沈黙のあと、ガチャリと扉が開けられる。
中から出てきたのは、父と共に仕事をしていたのか、心配そうな顔をしたノアが顔を覗かせた。
「お姉様、一体どうしたんですか!?」
乱れた私の姿を見ると、目を丸くさせたノアが慌てて肩をつかむ。
その掴む力があまりにも強く、思わず顔をしかめた。
「っ……ノ、ノア……力が……」
「すみません……ですが、お姉様の身なりがあまりにも……」
髪は乱れ、裾にはうっすら土の汚れ。
確かに、この格好では何かあったと思われても仕方ない。
心配を宥めるように微笑み、問題ないと首を振ると、ノアはようやく手を緩めた。
「それでは、どうして……」
「その話は、中でお父様と一緒に……」
なおも言いたげなノアを制し、執務室へ入る。
それにあわせて、書類仕事のために机に向かっていた父が、顔を上げた。
「……リネットか。淑女にあるまじき姿だな」
静かに、しかし確かに責める声音だった。
父の灰色の瞳が私を捉え、乱れた髪や泥の付いたドレスを冷ややかになぞる。
「はしたない姿で申し訳ありません、ですがどうかお二人にご協力を仰ぎたいのです」
「……何をした」
その言葉は心配から出たものではない。
ただただ“公爵家の面子”を案じるための質問だった。
私はそれを分かっていたから、すぐに用件を告げた。
「ライアン様が……毒を盛られ、昏睡状態です。三日以内に解毒しなければ、命は――」
それから、私は王宮であったことを伝えた。
全てを聴き終わると、父はため息をひとつ吐く。
その表情は呆れとも失望もとれる顔だった。
「目立つことはするなと言ったはずだが……」
「申し訳ございません、私の警戒が怠っておりました」
いつも、父の顔色を伺って過ごしてきた。
だからこそ、その声色に含まれる怒気に体がびくりと震える。
父も、私がこんな失態をするのを初めてみただろう。
けれど、そんな恥やプライドなど捨てても私はライアン様を助けたかった。
「公爵様、そんな怖い顔しないでください」
ノアが軽く笑いながら口を挟む。
「お姉様、蒸留ワインとはちみつですよね? 安心してください。最高級のものをすぐ用意させます」
あまりに自然に父へ口を利くその様子に、思わず目を見張る。
確かに、常日頃ノアは父の扱いが上手いと思っていたが、ここまで遠慮なく話せるほど親しくなっていたとは、知らなかった。
「またお前は、勝手なことを……」
「ですが、それをどうやって王宮内に持ち込むか、ですね……」
王宮内に何かを持ち込む場合は、必ず検査を通してからになる。
普段から特に止められもしないだろうが、王弟の息がかかっている可能性も高い。
そうなるとせっかく用意した材料が届けられず、ただ時間を遊ぶことになるだけだ。
こんな時、私の力不足を痛感する。
いくら口や頭を回しても、いざという時にその能力が発揮できなければ意味なんて、ないじゃないか――
「お姉様……そんな顔しないでください」
ノアがそっと私の頬を撫でる。
指先についた水滴から、涙を流していたことに気がついた。
「公爵様、なにか良い案はあるでしょうか?」
父はしばし私を見据え、目を閉じる。
父の懐中時計が数拍時を刻んだのち、静かに口を開いた。
「王宮内に古くからの知り合いがいる。彼を通して、材料を渡すことは出来るだろう」
低く、思案するような声。
その言葉を聞いて、私は勢いよく顔を上げた。
「……本当ですか、お父様!」
「ただし――これは、貸しだ。分かるな、リネット」
その言葉に深く頷いた。
公爵家当主に貸しを作る。それがどれほど大きなことか、私はよく分かっていた。
父の希望であれば、数年王都から離れ、実績を作ってこなければならなくなるかもしれない。
しかし、そんなこと今の私には苦でもなんでもない。
それぐらいで彼を救えるなら、私はなんだってする。
「はい、もちろんです。どんなご要望でもお答えする所存です」
父はふっと鼻で笑い、従者に一つの手紙を書いて渡した。
その様子を見ていたノアは小さく笑いながら言葉をこぼしていた。
「……まったく、素直じゃないんですから」
「ノア、お前も行ってこい。当主代理として渡せばより信用が得られやすい」
「承知いたしました」
ノアは軽くお辞儀をし、すでに動き出そうとする。
だが、その前に私の方を向き、少しだけ表情を和らげた。
「ノア、すみません。付き合わせてしまって……」
「謝らないでください。俺も、ライアン様の容態が気になります。それに――」
彼はそっと私の手を取り、手のひらを優しく撫でた。
優しくも、ほんの少し強引な温度が、指先から伝わる。
「手、強く握りすぎです。こんな姿のお姉様、不安で一人にはできません」
「ノア……」
「ほら、指先が温かくなってきましたね……俺の手って安心しますでしょう?」
「もう、またからかって」
いつものようにからかってくるノアに呆れつつ、その優しさに顔が緩んでいく。
ずっと強張らせていた顔は、ちりちりとした痛みを残していた。
(こんなに、顔に力が入っていたのね……)
「ありがとうございます、ノア」
力が抜けた私を見て、ノアも安心したかのように笑い、そっと手を離した。
「準備してきます」と言い残し、扉が閉まる音が響いた。
静まり返った執務室で、父は再び書類へ視線を戻している。
「お父様、本当にありがとうございます。……必ず、報います」
「そうしなさい」
短い言葉とペンの走る音だけが部屋を満たした。
その背を見つめ、私は深く息を吸い、執務室を後にする。
「――絶対に、間に合わせるわ」
玄関を出ると、秋のはずなのに肌にまとわりつく湿った空気が頬をなぞる。
ほとんど夜色に沈んだ空を見上げ、一歩でも早く――その思いを胸に足に力を込めた。




