26
「そっか、王妃様が……少しだけど、話せてよかったなルーク」
「うん!」
部屋の中、ひと息ついた私たちは、どうやって今日ここまで来られたのかを、順を追ってライアン様に説明していった。
和やかな空気の中で一通り話し終えると、ライアン様は腕を組み、何かを考えるように視線を伏せ――やがて口を開いた。
「――で、帰りはどうすんだよ」
不意に投げられた問いに、私とルーク様は揃って声を上げてしまった。
「あっ……」
「あ……」
忍び込むことばかりに気を取られ、帰りのことなどすっかり頭から抜け落ちていたと、今さら気づく。
顔を見合わせた私とルーク様は、同時に気まずく笑った。
「ったく……お前ら、しっかりしてんのか抜けてんのか、たまに分からなくなるな」
呆れたように肩をすくめながらも、ライアン様はどこか清々しい顔をしていた。
先ほどまでの曇った表情はそこになく、むしろ、何かを吹っ切ったような穏やかささえ見られた。
「……んじゃさ。俺が“図書館に辞書を借りてくる”とか、適当な理由をつけて外に出る。見張りも動くだろうから、その隙にお前らも出ろ」
「ご配慮いただき、ありがとうございます。ライアン様」
深く頭を下げると、ライアン様は手をひらひらと振って、照れ隠しのように笑った。
「……じゃあ。また、明日な」
「うんっ! また明日会おうね、ライアン!」
ルーク様が勢いよくそう告げると、彼は一瞬、言葉を飲んだが、すぐにいつものような笑顔を見せてくれた。
そして、見張りたちの視線をよそに、堂々と扉を開けて部屋を後にした。
――その後ろ姿を、私たちはしばし見送り、彼のくれた隙を使って静かに部屋を離れた。
***
翌日。
昨日の夜のことが気にかかり、私はいつもより緊張しながらルーク様の部屋に向かっていた。
(ライアン様は“また明日”と言ってくれたけど……来てくれるかしら……)
期待と不安が入り混じったまま、扉をノックする。
「おう、入れ」
聞こえてきたのは、望んでいたあの声。
口元が緩むのを自覚しつつ、私はそっと扉を開けた。
「ふふふ、ここはどなたのお部屋だったかしら」
迎えてくれたのは、なぜか苦笑いしているルーク様と――
「ラ、ライアン様! どうされたんですか!?」
左頬を赤く腫らしたライアン様の姿だった。
「いやぁ、さ……今朝、父上に言ってきたんだよ」
彼は後頭部をぽりぽりと掻き、視線を落とした。
「“俺は地位を失ってでも、ルークの手助けをする”ってな……そしたら、このざまだ」
軽く言ってのけたその言葉の裏に、どれほどの覚悟があったか。
痛々しく腫れた頬を見て、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
隣のルーク様も悲しげに小さく眉を寄せ、一つの瓶をライアン様の前へ差し出す。
「その足で真っ直ぐぼくの部屋に来てくれたみたいで……とりあえず鎮静効果のある薬草を塗ろうかって話してたんです」
「まぁ、痛ぇのは一瞬だしな。別に大したことじゃねぇよ」
言いながら、彼は目を細めて苦笑した。
「大したことないわけないでしょう!」
思わず声が上ずる。
昨日の今日ですぐに行動に出てくれたことは、確かに嬉しい。
しかし、ライアン様が傷つくことは決して望んではいなかった。
私の言葉に同意するように、ルーク様も静かにうなずき、言葉を添える。
「ありがとう、ライアン。そこまでしてくれたなんて。だけど、無理だけはしないでほしい……」
その言葉に、ライアン様は一瞬だけ目を伏せ――その後、まっすぐにこちらを見て、言った。
「無理なんかしてねぇよ、これは俺のケジメ。
それに昨日言われたしな、“もう一人で頑張るな”って」
その一言が、じんわりと胸にしみていく。
彼の表情は、迷いを振り切った顔だった。
「だけど……心配はかけさせたくねぇし、もう勝手なことはしねぇよ」
「ぜひ、お願いしますね」
ふっと空気が和んだその時、ライアン様がふいに手を叩いた。
「あと、さ――昨日はバタバタでろくに話せなかったし、……お茶でもしねぇか? ちゃんと座って、三人で」
不意の提案に、私とルーク様は目を見合わせる。
彼がルーク様の部屋でお茶を嗜む姿は何度も見たが、お茶会を開くような性格ではないはずだ。
「ライアン、叩かれて頭までやられちゃった……?」
「うるせぇ、たまにはいいだろ! ……それに言ったじゃねぇか“ガゼボを予約してやる”ってさ。ついでにルークのティーレッスンでもしようぜ」
にっと笑う彼の顔を見て、自然と頬が緩む。
「ふふふ、名案ですわね」
「お手柔に……お願いします」
ルーク様は自信なさげに応えながらも、その頬には安堵と嬉しさが滲んでいた。
「じゃあ、さっそく準備しねぇとな!」
「ですが……王弟のことです。お茶会を出来ないように何か仕掛けているのではないでしょうか」
私がそう懸念すると、ライアン様は肩を揺らして笑う。
「伊達に顔を広めてきたわけじゃねえさ。厨房の連中は俺にゃ甘いんだ。お茶と菓子の用意は、もう頼んである」
「ふふ、こういう時だけ本当に頼もしいですわ」
「おい、どういう意味だよ!」
再び戻ってきた、この幸せな空気を噛み締め、私たちは庭園のガゼボへと足を運ぶことにした。
***
「うわぁ……!」
到着したそこには、すでに白いクロスのかかったテーブルと、色とりどりの花が飾られたティーセットが整えられていた。
日差しを浴び、銀器がやわらかく光を返すその光景は、まるで童話の挿絵のようだ。
「私が注ぎますので、どうぞお二人はお掛けなっててくださいな」
私はポットを手に取り、三人分のカップに琥珀色の紅茶を注ぐ。
湯気に乗って香りが広がり、張りつめていた胸が少しずつほぐれていく。
「……いただきます」
ルーク様がそっとカップを持ち、ひと口、そしてライアン様も笑みを浮かべて口をつけた。
「……やっぱ、こういう時間もいいな」
「うん……また三人でいられて、嬉しいよ」
カップの縁を唇に当てた瞬間、湯気と共に広がる香りが、昨日の緊張や不安をやわらかく溶かしていく。
テーブルの上には小さな焼き菓子が並び、三人の間に穏やかな笑い声が満ちていった。
「なあ、ルーク。紅茶の味、ちゃんと分かるか?」
「まだ自信はないけど……美味しいって思ってるよ」
「おう、それで十分だ。なぁ、リネット?」
「ええ、肩の力を抜いて、このひとときを楽しんでくださいませ」
「はいっ!」
笑い声が広がる中、――ガラガラ、と車輪の音が近づく音が聞こえてくる。
「……誰だ?」
ライアン様がわずかに眉を寄せる。
私とルーク様も音のほうに視線を向けた。
そこに現れたのは、ひとりのメイド。
彼女が押すワゴンには見慣れぬ茶葉の缶と青磁のカップ、そして新しいティーポットが載せられていた。
「……失礼いたします。女王陛下より、こちらをお持ちするよう仰せつかりました」
「……母上から?」
ルーク様が小さくつぶやき、メイドは恭しく頭を下げる。
「はい。“たまには王子様たちにも、こちらの特別な茶葉を”とのお言葉です」
彼女の言葉に、妙な違和感が胸をかすめた。
――どうして王妃様は、私たちがお茶をしていると知っているのかしら……?
そんな疑問が頭に浮かぶ。
だがルーク様の嬉しそうな表情に、言葉は胸の奥に引っ込めた。
「お茶のお代わりにいかがでしょうか。私が入れますので、どうぞおくつろぎくださいませ」
「母上……わざわざ、こんな素敵なものを……」
ルーク様が小さく笑みをこぼす。
嬉しそうなその姿に、私も頬を緩めかけたが――ふと、メイドの手元を見て表情を固めた。
ティーポットを傾ける仕草が、どこかぎこちない。
ベテランらしい落ち着きはあるのに、指先が僅かに震えているように見えた。
(……気にしすぎかしら)
息を吐いて肩の力を抜く。
そのまま注がれた紅茶が、それぞれの前に置かれていくのを目で追い続けた。
その中で――光の加減だろうか。
ルーク様の前に置かれたカップだけ、表面に薄い膜がゆらめいたように見えて、思わず瞬きをする。
再度見たときには湯気でかすみ、カップの中身がよく見えなかった。
胸の鼓動が速まる。けれど確信が持てず、“もし見間違いなら”と、喉が固くなる。
私が迷っている間に、メイドは笑顔を崩さずお辞儀をし、ワゴンを少し下げて控えていた。
「えっと、じゃあ頂きましょうか」
「……ちょっと待て」
低い声を響かせ、ライアン様がルーク様を制す。
彼はそのまま、ルーク様の前に置かれたカップをじっと見つめていた。
「……どうかなさいましたか?」
メイドは少しだけ声を上ずらせ、ライアン様を見る。
ライアン様はというと、彼女を横目で見たあと、自分の前に置かれたカップをゆっくりと取り、紅茶の香りを確かめていた。
「へぇ……いい香りだな」
その口調は穏やかだった。しかし、瞳は笑っていない。
「なぁルーク。こっちのカップ、ちょっと見せろよ」
「え……?」
「気に入ったんだよ、この柄が。悪いけど、交換してくれないか?」
ルーク様は一瞬戸惑い、それから小さく笑ってカップを差し出した。
「いいよ。じゃあ、どうぞ」
「あんがとな」
ライアン様はそのカップを受け取り、鼻先に近づけてじっと香りを確かめる。
――そして、ほんのわずかに目を細めた。
「……さっきのと、微妙に香りが違うな」
低くつぶやき、ふいに笑みを見せる。
そして、カップが少しだけ傾いた――一瞬。
見えた紅茶の中は明らかな、にごりがあった。
(……まさか、あれは――!)
「ライアン様っ、待って!」
思わず椅子を蹴って立ち上がり、手を伸ばした。
だが、彼は一瞬こちらを見て、口元に薄い笑みを浮かべる。
「わりぃ……。でも、やっぱり――こういうのは俺の役目だろ」
低く笑ったその唇が、ゆっくりとカップの縁に触れる。
私の声が喉から飛び出すよりも早く、彼は一息にカップをあおった。
「ライアン様!!」
私の伸ばした手は間に合わず、空を切った。
テーブルに置かれたカップが小さな音を立てる。
ライアン様の指がかすかに震え、私が瞬きをした一瞬――彼の体ががくりと前に傾いていく。
「ライアンっ!!」
ルーク様が血の気を引いた顔で叫ぶ。
私は咄嗟に彼を支えるが、ライアン様の体が私の腕の中でぐったりと重くなっていくのを感じた。
「お医者をっ! 誰か医者を呼んで!!」
――しかし、その叫びに応える声は返ってこない。
振り向くと、さっきまでそこにいたはずのメイドの姿は、もうどこにもなかった。




