25
婚約を告げられたあの日から、オリビアは朝から晩まで俺の周りに付きまとい続けた。
いつもすぐ横には、目だけが笑っていないニヤついた顔。その顔を見るたびに息が苦しくて仕方がない。
彼女はルークたちに張り合うかのように、王族としての教育を四六時中叩き込んできた。
確かに彼女は博識だ。だが――伯爵家の令嬢がなぜそこまで知り尽くしているのか。
疑問になるほどに、彼女は様々な知識を持ち合わせていた。
『数年後、我が国には飢饉が訪れます。そのために、備蓄の管理と確保を進めるべきです』
『……なんで、そんなことまで知ってるんだ』
『陽の国との密談が決裂したとお聞きしました。あそこからの輸入が止まれば、確実に食糧難に陥ります』
まるで未来を見てきたかのような、預言者じみた口ぶり。
彼女の話を聞いたあと、ふと父が会議帰りに吐き捨てた言葉を思い出した。
外交をすべて王弟に任せ、国王が顔を出さない。その不誠実さに陽の国王が激怒し、今後の輸出を大幅に制限する、と言われたことを。
(……父が、そこまで話したのか?)
それほどまでにオリビアを信頼しているのか。
優秀なのは分かる。だが、どうしても腑に落ちなかった。
「たまには気分転換に、お散歩しませんか?」
勉強漬けの日々の合間、珍しくオリビアが息抜きを提案してきた。
それを断る理由も、断る権利すらも俺にはなく、彼女に腕を引かれるまま庭園へ向かう。
(ああ……あいつらと、歩いたな)
ほんの数か月前の出来事のはずなのに、もう何年も前のようだ。
あのときは美しいと思えた花々が、今は優柔不断な俺を嘲笑っているようにみえて、少しも気が晴れなかった。
ただ、ただ感情を殺して歩く。
「あら、仲が良いですね」
オリビアが急に声を出した。その視線の先――
「オリビア様」
「ライアン?」
ルークとリネットがいた。
今、一番会いたくない二人だった。
二人は驚きと不安の入り混じった眼差しで俺を見つめてくる。
そんな土まみれの二人が、俺には眩しすぎた。
(……見ないでくれ)
辛い。ズルい。羨ましい。
胸の奥から、妬みや焦りの醜い感情が溢れ出しそうになる。
あの輪の中に、俺もいたのに――
「……お前たちとは、もう会えない」
絞り出すように告げた瞬間、オリビアが満足げに笑った。
その笑みに吐き気がし、彼女の手を振り払い、逃げるようにその場を去った。
城内に戻ったあとも、胸のざわつきは収まらなかった。
誰もいない部屋で机に向かっても、文字が霞んで読めない。
インク壺のふたを開けたまま、何分もペンが動かない。
――胸が、苦しい。
「ライアン様」
いつの間にか部屋に入ってきていたオリビアが、穏やかな声で話しかけてきた。
今は、こいつの顔も、声も聞きたくなかった。
それなのに、その場にいることが当たり前かのように彼女は佇んでいる。
「先程の姿は素晴らしかったです。彼らとは必要以上に話さないことが懸命です」
「……なぁ。お前は、なんであいつらをそんなに嫌うんだ」
嫌味を込めて、ずっと気になっていた疑問を投げた。
しかし、予想に反して彼女からしばらく返答がない。
不思議に思い、顔を見上げると――血が滲むほど唇を噛んでいるオリビアがそこにいた。
そして、忌々しいような目で言葉を発する。
「あの人たちは――人殺しですから」
その言葉に、俺は息を呑んだ。
あいつらに向けられるような言葉には、到底思えなかったから。
「……は? 勘違いだろ。あいつらは、そんな……」
「私は、ライアン様以上に彼らのことを知っています」
食い気味に答える彼女の瞳には、自身の意思による強い嫌悪が感じられた。
言い切る彼女の姿に、それ以上は何も言えず、俺は呆然と彼女を見つめることしかできなかった。
***
翌日も現れたオリビアは、昨日の取り乱しがなかったかのように、いつもどおり機械のように知識を並べ続けた。
その声は、耳には入っても、心に届くことはない。
俺はただ、頷くだけの人形になっていた。
日々の色が薄れ、頑張りたい気持ちも楽しいという感覚も消えていく。
「それでは、ライアン様。また明日お会いしましょう」
「……ああ」
扉が閉まり、ようやく訪れるわずかな自由。
とはいえ、彼女が残した課題は山積みで、休む暇などはない。
だが、監視の目がないだけ、少し気持ちが楽だった。
「ええっと……ここ、どういう意味だ?」
知らない単語の意味を調べようと辞書を探す。しかしどこにも見つからない。
最後に使ったのは、たしか――
「――ルークにやったんだった」
最後にその辞書を見たとき、ひどくくたびれていたことを思いだす。
それはルークの努力を物語っているようで、嬉しくさえ思った。
「いまさら“返せ”だなんて言えねぇしな……」
分からないところを飛ばし、机に広げた書物を、無言でめくる。
文字は目に入っても、頭には一つも入ってこなかった。
こんなことをしていて、何の意味があるんだろう――
そう思いながらも、ペンを握る手を止めることができなかった。
何かしていないと潰れてしまいそうで、考えた途端に声を上げてしまいそうで――
俺は、ただペンを握り続けた。
(人殺し、か……)
彼女とあいつらの間に何があったのか、俺には分からない。
だが、それでも――俺が居場所を感じたのは、あいつらの隣だった。今もなお、その温もりを欲している。
別れを告げたのは俺なのに、後悔ばかりが胸をかきむしる。
「我ながら、女々しいな……」
ひとりの時ぐらい、本音を零したっていいだろう。
誰にも聞かれないと思えば、余計に言葉がこぼれた。
「あいつらに……会いてぇな……」
滲む視界を正そうと、腕で目をこする。
ほんの一瞬、視界が暗くなったその時――
「会いたいなら、会いに来ればいいだろ!」
聞こえてきたのは、聞き覚えのある――だが初めて聞いた、力強い声だった。
「もう……一人で泣くなんて、ほんとうに水臭いですわよ、あなたは」
凛とした声。
何度も聞いた、その声だ。
「ま、待て、なんでお前らが……どうやってここに!」
「しーーっ!」
リネットがすかさず人差し指を唇に当て、俺の言葉を遮る。
「静かにしないと、見つかってしまいますわよ。……本当に、あなたってば騒がしいんですから」
叱るような口ぶりなのに、目元は赤く、どこか安堵の色を浮かべている。
その顔を見た瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
「見張りの交代の合間を狙って来たんだ」
俺の問いに、ルークは少し得意げに口元を上げる。
相変わらずの二人に、眩しさと愛おしさ、そして僅かな苛立ちが押し寄せた。
「でも、なんで……そんな危険を冒してまで……」
声が自然と震える。
リネットは微笑みを崩さず、真っ直ぐに俺を見て答えた。
「あなたが“もう会えない”なんて言うからですわ。少しは反省なさって?」
わずかに揺れるその声が、胸を刺すような痛みを与えた。
「だって、それは……」
迷惑をかけたくなかった。
けれど言葉にできず、沈黙を貫く。
その様子を見て、リネットはため息を一つ吐く。
「どうせ、あなたのことですし、“ルーク様や私に危害を加える”とでも王弟に言われたんでしょう」
「……お前、なんで……」
その核心を突く言葉に、ぎくりと体が震えた。
「だって、あなたは不器用で、優しくて、思い詰めやすいお馬鹿さんですもの。大体のことなんて、考えなくても分かりますわ」
「うん。だから、心配でたまらなかったんだよ。……ずっと、話したかった」
ルークの言葉に、胸が締め付けられ苦しい。だけど、その痛みは不快なものではない。むしろ心がじわじわと温かくなるのを感じた。
「むしろ今まで王弟から何もされなかったことが不思議なぐらいです。何かされたとしても、ちゃんと覚悟していましたからね」
「お願いだから、ライアン。一人で背負わないで……」
「……っ、違うんだ……違うんだよ……」
お前たちを危険から遠ざけたい。
それだけじゃないんだ。
「逃げ出したんだ……俺が……」
教会の子どもたちと同じような生活。
ルークとリネットに対する危害。
そして――リネットへの特別な思い。
「……全部、教えてください」
「だけど……」
「ライアン、お願い。大切な友達が苦しむのは、もう見てられないよ」
ルークの真っ直ぐすぎるその目。
その目に叶わず、ぽつりぽつりと言葉に零した。
こいつらの言うとおり、王弟から会うことを止められたこと。
助けたら俺の地位を剥奪すると言われたこと。
次にお前らに会ったら、危害を加えると言われたこと。
すべてを吐き出すと、ルークが近づき――、
バチンッ!!
「いっ!? な、なにすんだよ!」
「お仕置きに決まってるじゃん。リネット様が言う通り、ほんっとうに馬鹿。大馬鹿なんだから、ライアンは!」
額を指で弾いてきたルークの目には涙が溜まっている。そして次の言葉とともに瞳から大粒の雫がこぼれ落ちた。
「ぼくのせいでライアンが苦しむぐらいなら、王位継承権なんていらない!
大切な友だち一人も守れないなんて、絶対に嫌だ!」
「だけ、ど……」
俺の目からも、堰を切ったように涙がこぼれた。
「俺だって……嫌なんだ! お前たちが傷つくのが……!」
「うう、ぼくのほうが嫌だよ! ライアンの馬鹿! 単細胞!」
「うるせえ、お人好し!」
泣きながらくだらない罵り合いを続け、やがて互いに泣き疲れて黙り込む。
リネットはそんな俺たちを呆れたように、けれど優しい目で見守っていた。
「……気持ちは吐き出せましたか?」
落ち着いた頃には、互いに目を腫らし、何も言えずに立ちすくんでいた。
「……どうしたら、良かったんだよ」
小さな声で呟いたそれは、誰に向けた言葉でもなかった。
けれどリネットはまっすぐに俺を見て言った。
「正直、打開策はありません。ですが――これから一緒に、見つけていきましょう」
「そうだよ、三人なら……何度だってやり直せる」
ルークの言葉に、胸の奥がかすかに温かくなるのを感じた。
「ノアもきっと協力してくれますわ。あの子も、なんだかんだであなたのこと、ずっと心配していましたよ」
「あいつがか? ほんとかよ……」
「ええ、からかい……遊び相手がいなくなってつまらない、と」
「言い直したけど、あんまり意味変わってねぇからな!?」
笑い合いながらも、俺は確かに感じていた。
この時間、この関係が、何よりも愛おしい――やっぱり、こいつらと共に過ごしていきたい、と。
「ですので、ライアン様――もう、一人で頑張らないでくださいね」
「ぼくたちがいるから」
二人の柔らかな声が、背中をそっと押す。
こみ上げるものを抑えきれず、視界がにじんだ。
「……っ……こんなふうに熱烈に言われたら……もう、断れねぇだろ……」
乱暴に手の甲で目元を拭い、照れ隠しのように笑う。
その瞬間、胸の奥にあった重たいものが、ふっと軽くなった。
――たとえこの先、父にどれほど酷い目に遭わされようと、もう揺るがない。
俺は、俺のやり方でこいつらとずっと一緒にいる。
この二人と、どんな未来でも歩んでいくんだと、強く心に刻み込んだ。
***
しん、と静まり返った廊下の陰から、ひそひそと声が漏れる。
「はぁ……やっぱりライアン様はだめね」
「すっかり、あの二人に洗脳されてるね」
「ええ……王弟殿下に、お伝えしませんと」
その声とともに、静かに立ち去る二つの影――
ロウソクの灯に揺れる口元だけが、薄く笑っていた。




