24
「え、お母様が――?」
翌日、私はルーク様に昨日の出来事を伝えた。
王妃様が、彼の境遇を何も知らずにいたこと、
それでもずっと、母として深く彼を想っていたこと、
そして今も変わらず、心から会いたがっていたこと――
話を聞いたルーク様はしばし言葉を失い、やがてゆっくりと微笑んだ。
その笑顔には、戸惑いと、抑えきれない喜びが入り混じっていた。
「そっか……嫌われてるわけじゃ、ないんですね」
ぽつりとこぼしたその声は、どこか頼りなく、けれどどこまでも優しく響いていた。
彼の表情を見て、長く抱えてきた不安が、ほんの少しだけほどけたのが伝わってくる。
「ええ。むしろ――とても深い愛情を感じましたよ」
……国王陛下のことは、言えなかった。
なぜ彼はあんなにもルーク様を嫌っているのか。
王弟の印象操作だけで作られた感情ではなかった。
だけど――まだ、今は話すべき時ではない。
そう自分に言い聞かせながら、私は笑顔で応えた。
「えへへ……ありがとうございます、リネット様」
私の言葉に、ルーク様は照れくさそうに笑う。
以前なら、真っ先に謝罪の言葉が出てきたはずだ。けれど今では、“ありがとう”と素直に言えるようになっている。
それがどれほど尊い変化か、私には痛いほど伝わってきた。
「いえいえ。私は、ありのままのルーク様をお伝えしただけですもの」
彼の変化は、言葉だけではなかった。
視線の向け方、姿勢の正しさ、表情の穏やかさ。
彼の行動すべてに、自信が付いてきたことが分かる。
まっすぐに見つめてくれるその目が、今はとても頼もしく思えた。
「それでは、今日のレッスンも切りがいいですし――花壇に行きましょうか」
庭園の奥まった場所にある、小さな花壇。
それは、ルーク様と親しい庭師のご厚意で譲り受けたものだった。
そこでは、色とりどりの花々が、風にそよぎながら咲いている。
手を汚しながら土に触れ、水を注ぐ。
ただそれだけの時間。しかし、私たちにとって何よりも心を癒すひとときだった。
「このお花の名前、何ていうんですか?」
私は花壇の端に咲いていた花を指差して尋ねる。
「これは、ジニアです。初心者でも育てやすくて、長く咲くんですよ」
少し得意げに語るその声に、私はくすっと笑みをこぼす。
彼が指先で丁寧に土をならす姿は、王子であることを忘れさせるほど自然で、穏やかだった。
「たくさんお色があって綺麗ですね」
心地よい風が吹く中、花を見つめる彼の横顔を見つめていると、ふと隣の花壇が目を引いた。
低木に咲く、鮮やかなピンク色の花。
「こちらも綺麗ですね」
その美しさに、つい手を伸ばした――
「危ない!」
その手を、ルーク様が自身の方へ引いた。
――気がついたときには、私は彼の胸に抱きとめられていた。
「っ……あ、あの……」
驚きで言葉がつまる。
それと同時に、ぴたりと寄せられた胸の感触に心臓が大きく高鳴った。
「綺麗ですが、強い毒を持っています。まさか庭の花壇に植えられているなんて……」
その体制のまま、ルーク様は眉をひそめて、植物全体を観察し始めた。
「ここの手入れは庭師さんがしているはずなのに……」
彼は小声でぶつぶつと考察を始めたが、私は動けずにいた。
彼の胸板の固さや、肩越しに伝わるぬくもりに、胸がくすぐったくなるような、恥ずかしいけど離れがたい――そんな不思議な感覚が広がっていた。
「あら、仲が良いですね」
しかし、この温かい空気は、聞き覚えのある柔らかな声により現実に戻された。
「――オリビア様」
思わず息を呑む。なぜ彼女がここに? そう疑問を抱く間もなく、さらなる衝撃が目に飛び込んできた。
「ライアン?」
彼女の隣には、無表情のまま立ち尽くすライアン様の姿があった。
その姿はいつも活発な彼と異なり、目に光がない。
ルーク様の問いかけにも、答える様子がなかった。
「久しぶりだね、最近姿見ないから心配して――」
「ルーク様、気軽にライアン様に話しかけないでください」
オリビア様の鋭い声が、その言葉を遮った。
「そもそも、本来あなた方が気軽に話せるような存在ではないのですよ」
「……それでは、オリビア様は問題ないとでも?」
彼女の言葉に、胸に言葉にならないもやもやが広がっていった。
だが、彼女は“私の言葉を待っていた”と言わんばかりに、口角を上げる。
そして、王弟の紋章が刻まれた細い指輪をわざと光にかざした。
「ええ。私は“ライアン様の婚約者”ですから」
信じられなかった。噂になっていた婚約者が、まさか彼女だったなんて――
一体、何が起きているの? 私の知る“物語”とは、まるで違う。
もはや、私が知っている知識など、通用しなくなるほど。
「ふふふ、ライアン様からも一言いってあげてくださいな」
変わらず無表情のままのライアン様は、促されるように口を開いた。
「……お前たちとは、もう会えない」
低く、抑揚のない声。
その言葉はまるで、誰かに命じられた台詞を読み上げているかのようだった。
言い終えると同時に、ライアン様は彼女の手を払い、くるりと背を向けた。
その後ろ姿には、かつての快活さも、情熱も――何一つ残っていない。
私とルーク様が言葉を失って立ち尽くしている中で、オリビア様はくすりと笑い、こちらを見た。
「ライアン様は、王族としての自覚をお持ちになったのです。あなたたちのように、泥だらけになって土いじりをしている暇などありませんの」
それだけ言い残して、彼女もまた彼の後を追って去っていった。
去り際の彼女の背中からは、奇妙な高揚感がにじみ出ており、その姿は不気味さをいっそう際立たせていた。
***
「……変でしたよね、やっぱり」
静かになった花壇の前で、私はつぶやいた。
先ほどまでの温かい空気は、もうどこにもなかった。
「はい……ライアンが、あんな顔をするなんて」
ルーク様の声には、戸惑いと怒り、そして――ほんの少しの寂しさが滲んでいた。
「“もう会えない”だなんて……そんな言い方、ライアンらしくない」
ルーク様の言うとおりだ。
彼なら――たとえどれだけ冷たくても、“自分の言葉”で断ち切る人だった。
誰かに言わされているような、あんな棒読みのような言い方で話すことなど、決してなかった。
「“構えない”とか、“もう関わらないでくれ”とか、言いそうなのに。今日のライアン様は……まるで、抜け殻みたいでした」
「それに、“会えない”って言ったとき……ライアン、唇を噛んで少しだけ辛そうな顔をしていたんだ。“助けてほしい”って――」
ルーク様がぎゅっと拳を握る。
「リネット様。……ぼく、確かめたいです」
「はい」
返事は決まっていた。迷いはない。
私たちは目を見合わせ、静かにうなずき合った。
「ライアン様の部屋に行って、真実を聞いてみましょう」
――けれど、それは容易なことではない。
王族の私室、とくに王弟筋であるライアン様の部屋は、厳重に守られている。
見張りの兵が配置され、誰でも近づけるわけではなかった。
「ライアン様の部屋に行く道は、一本しかありません」
「けれど……その通路には、常に見張りが立っていますよね」
「ええ。しかも、オリビア様の姿がある時間帯ならなおさら。あの方は明らかに私たちを――警戒しています」
理由は分からないが、オリビア様は私たちを敵視している。
そのため彼女がいる時間は避けたい。
「……そうなると、夕食後が良いですね。兵が交代する時間ですし、少しだけ見張りが手薄になります」
「ですが扉は閉じられていますから……ライアン様が戻った、その一瞬を狙うしかありませんね……」
そんなこと、果たしてうまくやれるのだろうか。
他に抜け道はないかと二人で頭を悩ませても、王宮の仕組みに疎い私たちには、どうにも糸口が見つからなかった。
「……ぼく、ライアンに甘えてばかりでした」
「いいえ、私も……そうです」
こういう時、いつも頼りにしていたのはライアン様だった。
その支えがどれほど大きかったのか、今さらのように思い知らされ、胸がじんわりと痛んだ。
「……やっぱり、ここにいたのね」
そのときだった。
背後から、柔らかくもどこか張り詰めた声がかかる。
「お母様……」
「昨日リネットちゃんに、ちゃんとお礼が言えなくて……ここに来たら会えるんじゃないかと思ったの。まさか本当に会えるなんて……」
振り向いたルーク様の視線の先には、王妃様が立っていた。
その姿を見て、私は思わず背筋を伸ばす。
王妃様の瞳には、かすかに涙がにじんでいた。
けれどその微笑みは、母として息子を見守る、深い優しさに満ちていた。
「ずいぶん、見ないうちに……立派になったのね……」
彼はこの半年の間に、見違えるほど変わっていた。
姿勢が良くなり、体付きも少しスッキリした。
久しぶりに会ったならなおさら、その成長に気がつくだろう。
「は、はい」
「久しぶりだと、何から話せばいいか分からないわね……元気にしてた? 悩みごとは、ない?」
「あ、えっと……その……」
質問にうまく答えられず、困惑しているルーク様をみて、王妃様は何かを察したのか、続けて話をした。
「悩んでいるのは、ライアン君のこと?」
「なんでそれを……!」
「ごめんなさい、話しかける前の二人の会話。少し聞いてしまったの……
彼の本音が聞きたいのよね……どうしてそこまでするの?」
王妃様からみたら、ルーク様とライアン様はただの親戚。
私から仲良いことは聞いているはずだが、聞きたかったのだろう――彼の、その口から。その理由を。
「彼は、挫けそうなぼくにやる気を灯してくれました。友達が辛い顔をしているのを、放っておけません」
真っ直ぐと、彼は答えた。
「そう……大切な友達なのね」
ルーク様の言葉に、王妃様は目を細めて頷いた。
少しだけ黙り込み、それからふっと息を吐いて、優しく微笑んだ。
「なら、私が一つ手を貸してあげましょう」
「え……?」
「明日の十九時。東棟裏口の通路。兵の入れ替わる隙に、ほんの一瞬だけ見張りを外しておくわ」
思わぬ申し出に、私もルーク様も目を見開いた。
「それ以上のことは聞かない。でも、大切な人のために動こうとしているあなたの背中を、母として――止めたくないの」
その声には、確かな決意と、母親としての祈りが込められていた。
「お母様……」
ルーク様の目が、ほんの少し潤んだように見えた。
「ありがとう、ございます」
「いいえ……ルーク、友達を救ってあげてね」
「はい、必ず」
その返事は、強く、迷いのない声だった。
王妃様は満足そうに微笑み、そっと私たちの肩に手を添えて言った。
「また、近いうちに――ちゃんと話しましょうね」
その言葉を残して、王妃様は静かにその場を後にした。
夜風がそよぎ、残された私たちの心に、小さな勇気の火がそっとともった気がした。
「……絶対に、真実を確かめましょう」
「うん……あの、ふざけた顔――絶対に目を覚まさせてあげます」
「ふふふ、そうですね!」
怒りを交えつつも、笑う彼の顔は、今までで一番生き生きとしていた。




