23
「それでそれで、ルークとは今どんな感じなの?」
紅茶を手に、目を輝かせながらそう問いかけてきたのは――ルーク様の実の母君、王妃様だった。
その穏やかな笑顔とは裏腹に、私は戸惑いを隠せなかった。
「え、ええっと……」
なんとか笑みを返しながらも、頭の中では状況の整理に必死だった。
――事の発端は、ほんの三十分ほど前のこと。
***
今日はルーク様とともに、歴史や政治についての勉強をしていた。最初は真剣な面持ちで本に向き合っていた彼だったが、ページをめくる手は徐々に緩やかになり、やがて視線は虚空を漂うようになった。
その原因は、すぐに察しがついた――ライアン様のことだ。
街を訪れて以降、彼はぱったりと姿を見せなくなった。
心配したルーク様は直接部屋を訪ねたが、「ライアン様は忙しいので」と従者に門前払いされたそうだ。
私も同じく様子を見に行ったが、結果は変わらず。冷たく追い返された。
いつも三人で頑張ってきたからこそ、一人欠けた喪失感は思った以上に大きかった。胸のどこかにぽっかりと穴が開いたようで、言葉にしがたい寂しさが残った。
(……ルーク様の集中が続かないのも、無理はない)
そんな彼の様子を見かねて、私は予定より早くレッスンを切り上げることにした。
少しでも心を落ち着ける時間を、彼にも与えたくて。
私はというと、空いた時間を使い、ライアン様について何かわかることがないかと、王宮内を散策することにした。
残念ながら得られた情報はほとんどなかったが、一つだけ気になる噂を耳にした。
――それは“ライアン様に婚約者ができたらしい”という話だった。
(ライアン様が訪れないのは、それが原因なのかしら?)
お相手に夢中で、私たちのことを忘れてしまったのだろうか。
もしそうなら――ほんの少しだけ、寂しい。
そう思ってから、慌てて首を振る。
勝手に想像して傷つくなんて、ライアン様にも失礼だろう。
これ以上の情報は得られないと見切りをつけ、帰ろうと歩き出したその時――、
「あら?」
ふいに声をかけられて振り向くと、そこには王妃様が立っていた。
慌てて頭を下げて、言葉を待つ。
「あなた、確かルークの婚約者よね?」
「はい、王妃様。テイラー家令嬢のリネットと申します」
「顔を上げてくださいな」
そっと顔を上げると、そこには穏やかな微笑があった。
優しい目元は、まるでルーク様の面影を映したようだった。
「王妃様のお庭に立ち入ってしまったようで、申し訳ございません」
「いいえ、今日はたまたまこちらに来ただけです。出入りは自由なので気にしな……あ、そうだわ!」
ぴんと人差し指を立てて、王妃様はふふっと笑った。
「いいこと思いついたわ。ねえ、ルークのこと、もっと聞かせてくださらない? お茶でもしながら」
「……え?」
あまりに突然な誘いに、私は驚きながらも、頷くことしかできなかった。
***
(まさか、本当にお茶をご一緒することになるなんて……)
でも、いつかちゃんと話したいと思っていた方だった。
その機会が、自然な形で訪れたのは、むしろ幸運と言えるのかもしれない。
「ルーク、元気にしてる? 何が好き? どんな会話をしているの?」
王妃様は、嬉しそうに身を乗り出しながら質問を重ねてくる。
笑顔の勢いに押され、私は一つ一つ答えた。
「はい、とてもお元気です。最近は植物に興味を持たれていて、東の庭園で育てたり、図鑑を読んだりされてます。
ただ……ライアン様がいらっしゃらなくなってからは、少し寂しそうにされています」
「まぁ……植物が好きなんて、初めて知ったわ。ライアン君と仲が良かったことも!」
王妃様は、驚いたように目を丸くしてから、ふわりと笑みを浮かべた。
「ルークって口数が少ないから、お友達ができるか心配だったの。でもあなたとライアン君がいてくれるなら、もう安心ね」
その笑顔は、心からのものだった。
誰かに取り繕った表情ではない。
確かにそこには、母としての愛があった。
――けれど、
私は言葉の奥に、どこか矛盾を感じていた。
王妃様は、ルーク様を心から愛している。
それはこのたった数分話しただけで、よく分かった。
しかし、それならばなぜ。今まで彼のことを助けてあげなかったのか。
王弟の力が働いていたとはいえ、ルーク様を取り巻く噂を知らないわけではないだろうに。
その噛み合わない言動に、私は言葉に表せないもやもやを抱いていた。
「他にも最近は、所作やマナー。勉学に勤しんでいます」
「マナー……?」
飲んでいた紅茶のカップを置き、考えるかのように一点を見つめる。
そして一拍おいて、首を傾げて不思議そうに質問を投げてきた。
「それは、専属家庭教師が教えることじゃなくて?」
――やはり、王妃様は知らないのだろう。
実の息子が、どんな待遇を受け、どんな思いで過ごしていたのか。
私は息を呑み、ずっと心に引っかかっていたその疑問を、彼女へ問いかけた。
「失礼を承知で申し上げます。王妃様は……ルーク様がこれまで、どのような環境でお過ごしになっていたか、ご存知ですか?」
「……え? それはどういう意味で――」
――それから、私はすべてを包み隠さず伝えた。
長年、彼がどれほどの孤独と不当な扱いを受けてきたか。
まともな教育もなく、侍女も与えられず、誰にも頼れず、ただひとりで日々を過ごしていたこと。
「そんな……私、そんな話……聞いたこと……」
話を聞き終えた彼女の顔には、絶望が浮かんでいた。
手の中の紅茶が揺れ、カップの中で波を打つ。
「私は、体が弱いから……ルークと会えるのは年に一度か二度しかないの……
それに、会っても、あの子。いつも無口で……
あの人は“年頃だから距離があるのは当然”だって。だから、てっきりそういうものだと……」
その言葉には、戸惑いと深い後悔が滲んでいた。
「母親失格ね……今さら、どう顔を合わせればいいのか……」
肩を落とす王妃様の姿に、私の胸が締めつけられる。
――仕方のないことだったのかもしれない。
信じていた人から、“問題ない”と告げられ続け、体調も優れず、会う機会も限られていたのなら――誤解も、距離も、知らぬ間に生まれてしまう。
「でも、まだ間に合います」
私はまっすぐに言葉を返した。
「ルーク様は、ご両親を深く敬っておられます。ご多忙で会う機会が少なくても、威厳ある父と、優しい母のもとに生まれたことを、心から誇りに思っていらっしゃいます」
そう、彼はいつだって“両親の子”であることを自慢にしていた。
今からでも、決して遅くない。
「どうか、“母親”として、会いに行ってあげてください」
王妃様は唇を噛み、そして涙を堪えるように頷いた。
「……ありがとう、リネットちゃん」
「お礼を言われるようなことでは……」
「ふふふ。こんなに聡明で美しい婚約者がいたなんて。ルークは幸せ者ね」
何度も、誰かから言われたことがある言葉なのに。
王妃様から貰ったその言葉が嬉しくて、くすぐったくて、私は思わず頬を染めてしまった。
「それと……東の庭園で、ルーク様と一緒にお花を育てているんです。もしよろしければ、今度見に来ていただけませんか?」
その提案に、王妃様の顔がぱっと華やいだ。
「まあ、ぜひ!」
目を輝かせてそう答える王妃様は、まるで少女のようだった。
そんな無垢な笑顔に、私もつられて笑みをこぼす。
(よかった……)
これを機に、ルーク様と王妃様のわだかまりが、少しでも溶けてくれたら。と、安堵の笑みを返し、ふたりで再び紅茶を手に取る。
そのまま会話に花を咲かせていた、そのときだった――
「王妃!!」
鋭い声が庭園に響いた。
声の主は、息を切らしてこちらへ向かってくる――国王陛下だった。
私は反射的に席を立ち、スカートの裾をつまんで頭を下げる。
「こんな暑い日に……外で茶会だなんて!」
低く怒気を孕んだ声音に、思わず背筋が伸びる。
だが、王妃様は動じることなく、柔らかな声で返した。
「大丈夫ですわ。もうすっかり秋の日差しですもの。それにルークの婚約者ととても有意義なお話ができました」
「……お前が引き留めていたのか」
その一言に、その場の空気が冷たくなるのを感じた。
「もう、“お前”だなんて言わないで!」
王妃様が思わず声を荒げる。
だが国王陛下は、その声を無視するように、言葉を続けた。
「名を名乗れ」
その声は低く、空気を震わせるようだった。
私の胸がきゅっと縮まる。緊張していることを悟られないように、全身に力を入れて応じる。
「リネット・テイラーと申します」
「顔を上げよ」
促されるままに、そっと顔を上げた。
その瞬間、目が合った。
黒髪と氷のように鋭い眼差し――威厳を湛えた顔立ち。
(ルーク様そっくりだ……)
成長をすれば、彼もこんな美しくなるのだろうか。
その淡麗な顔立ちに、思わず見惚れてしまった。
「君の父親には感謝している。先日の外交は、彼の手腕あっての成功だった。よく伝えておいてくれ」
「ありがたきお言葉です」
けれど――続いた言葉に、私の思考が凍りついた。
「だが……あまり、我が妻をたぶらかさないでもらいたい」
「……え?」
意味を考えようとしていると、「もう! リネットちゃんに変なこと言わないでよ!」と声を荒げながら、臣下たちに連れられていく王妃様の姿が見えた。
「リネットちゃん、また会いましょうね!」
遠ざかっていくその背中に声を返すこともできず、私はただ呆然と立ち尽くしていた。
(気まずい……)
陛下と二人きりになった庭園。
なんともいえない気まずさが、華やかな空気を重くする。
少しして、陛下の視線に鋭さを増したのがわかった。
「……妻の前で、“悪魔の子”の話はするな」
一瞬、意味が飲み込めなかった。
けれど、確かにそう言ったのだ。悪魔の、子――と。
「彼女は見た目以上に身体が弱い。あいつのことを耳にすれば、心労で倒れてしまうかもしれん」
「あ、あの……一つご質問良いでしょうか……?」
「……許可する」
緊張で声が震えるのが自分でも分かる。
けれど、どうしても聞かずにはいられなかった。
「“悪魔の子”とは……誰のことを、指していらっしゃるのですか?」
国王陛下はゆっくりと深く息をつき、そして低く、抑えた声で答えた。
「そんなもの、決まっている。ルークのことだ」
より低い声で陛下は答えた。
それは、軽い冗談でも、単なる不和でもない。
「――あいつは、あの日、私の大切なものを傷つけた。許せるはずがない」
その瞳には、たしかに“本物の憎しみ”が宿っていた。
(……ただの誤解じゃ、ない)
何があったのか。
どんな誤解が積み重なったのか。
その詳細はわからない。
けれど、陛下は“本気”で、ルーク様を――我が子を憎んでいるのだ。
(どうしたら、この壁を壊せるのだろうか)
私は一歩も動けないまま、その問いだけをずっと頭の中で繰り返した。
国王陛下はそれ以上言葉を発することなく、背を向け、臣下を従えて去っていった。
残された私は、ただただ、その場に立ちすくむことしか出来なかった。




