22
街から戻った俺は、ルークを部屋まで送り届け、そのまま自室へ向かっていた。
「ったく、なんなんだよ……あの腹黒狐……」
歩きながら、口を突いて出たのは苛立ち交じりの独り言だった。
『自信を持って紹介できます』なんて言ってたくせに、ノアの視線はどう見ても“姉”に向けるものじゃなかった。
リネットは弟のつもりかもしれないけど――どう見たって、あれは“男”の顔だ。
「……ルークもルークだ。婚約者が他の男と仲良くしてるのに、なんでのほほんとしてんだよ……」
髪を乱暴にかきあげて、その場で足を止める。
自分でも抑えられない苛立ちが胸の中をかき回していた。
「っ……て、なんで俺がイラついてんだよ!」
何に怒ってるのか、自分でもわからない。
でも、胸がモヤモヤして仕方なかった。
(なんで、そんなこと気にしてんだ。別に、俺には関係ないはず……だろ)
自分に言い聞かせるように吐き出したため息は、妙に重たく空気に沈んだ。
「ライアン様」
そんなとき、不意に背後から冷たい声が落ちてきた。
この声。この間合い。この圧。
振り向くまでもなく、誰なのかはわかる。
「……レイモンド」
嫌な予感しかしない。
こいつが現れるときに、良い知らせだった試しがないからだ。
「殿下がお呼びです」
予想通りのその言葉に、胸がぎゅっと締め付けられた。
父が俺を呼ぶ理由など、一つしかない。
「……わかったよ」
返事をしたものの、枷がつけられたように、足取りが重くなる。
――逃げられない。
わかってる。ずっとわかってた。
こんな日が来ることを。
ルークやリネットたちと過ごす、平和で穏やかな時間。
それが“永遠じゃない”ってことを――
***
重厚な扉を開けると、空気が一変する。
煌びやかな室内。きらめく装飾と、冷たい静けさの中――父、いや……“王弟”は、優雅にワインを揺らしていた。
「……おかえり、ライアン」
その声は穏やかで、そしてどこまでも胡散臭かった。
「街の孤児たちと仲良くしているようだな」
「……随分と、報告が早いんだな」
嫌味を込めたつもりだったが、王弟は鼻で笑っただけだった。
「まあ、自由にやればいい。だが――」
彼はグラスを机に置き、まっすぐこちらを見た。
「“ルークとリネットの支援”をこれ以上続けるなら……お前の立場、すべて剥奪する」
その言葉は、思ったよりも淡々としていた。
……それなのに、背筋に冷たいものが走る。
「お前は、王族の中で唯一“自由に動ける立場”にある。情報も、人脈も、金もな。
だが――それは“利用価値”があるからだ」
王弟は片目を細める。
その奥には、冷酷な光がちらついていた。
「お前がルークに加担するというのなら……次に失うのは、“王族としての暮らし”だ。……理解できるな?」
その言葉を聞いた瞬間、ふと――あの教会の子どもたちの顔が脳裏をよぎった。
ボロボロの服。屋根も抜けた寝床。明日の食べ物すら保証されない生活。
(……あれが、俺の“未来”になるってことか?)
その瞬間、自分が彼らの暮らしを“哀れだ”と、どこかで見下していたことに気がついた。
――ああ、俺はいつまでも傲慢だ。
言葉が詰まり、声が出ない。
その沈黙を、王弟は勝手に“了承”と受け取ったのか、薄く笑った。
「それと……お前に、婚約者を用意した」
「……は?」
意味がわからなかった。
だが、それを理解する暇もなく、扉の向こうから一人の少女が通された。
その姿を見て、俺の体から血の気が一気に引いていく。
「お久しぶりです、ライアン様」
耳に馴染みのある、どこまでも柔らかな声。
整えられた淡黄緑の髪。底の見えない桃色の瞳。
「……オリビア・フルリエ」
その名前を口にするだけで、胃がきしんだ。
「なんだ、知り合いだったか」
好都合だ。と言わんばかりに王弟は笑う。
「ふざけるな。こんな女と婚約なんて、絶対に嫌だ」
「口を慎め、ライアン。好き嫌いで決められる立場ではないぞ。それに、彼女は国を導ける、まさに“聖女”そのものだ」
――聖女が、あんな態度取るかよ。
今でも忌々しく脳裏に残る。ルークに対する彼女の態度。
無言でその場に留まっていると、オリビアは静かに歩み寄ってきた。
そして、王弟に聞こえない小さな声で、俺の耳元で囁く。
「私と婚約を結ばなかったとしても……リネット様の婚約者にはなれませんよ」
思わず耳を手で覆い、反射的に睨みつける。
それでも怯むことな笑み続ける彼女に背筋がぞわりとした。
まるで深い水の底から見上げてくるような、静かで恐ろしい微笑。
「なに、意味わかんねぇこと言ってんだよ……」
何がおかしいのか――オリビアは口元に薄く笑みを浮かべたまま、静かにこちらを見つめていた。
その目には、すべてを見透かすような余裕が宿っていた。
「だって、彼女は“ルーク様の婚約者”ですから」
わかってる。
そんなもん、ずっと前から。
「んなもん、わかってるよ! 何だ今さら!!」
「わかってる……本当ですか?」
気がついている、だから――
「だって、ライアン様……」
「やめろ……」
やめろ。
これ以上、口を開くな――
「――リネット様に、好意を抱いてますよね?」
「やめろっ!!」
叫んだ。この声で、彼女の言葉を――自分の感情をかき消すように。
ちがう、ちがう、ちがう。
だって、あいつはルークの婚約者だ。
大切な、友人の……
否定したい。拒否したい。けど――
この胸のざわつきが、全部を語っている。
「もし“違う”というのなら、私との婚約に何の問題もないはずですよ?」
「…………」
何も、言えなかった。
こんな奴が、婚約者だなんて絶対に嫌だ。
だけど、否定すると――認めないといけなくなる。
オリビアは微笑みを崩さぬまま、さらに一歩踏み出す。
「だぁいじょうぶ。私が、あなたを“もう一度”国王にしてみせます」
何を考えているのか。
何を企んでいるのか。
それすらどうでもよくなるほどに、俺の心はぐちゃぐちゃだった。
「くくく、頼もしいな。オリビアよ。だが一つ訂正させてもらうぞ、そいつが王になるのは私の次だ」
「もちろん、心得ていますわ」
――結局、俺は変われない。
逃げられない。こいつらから。
「ライアン、次にあの二人にあったら……その時は分かっているな?」
「……ああ」
心に残るのは、教会に響く子どもたちの笑い声。
ルークのまっすぐな言葉。
ノアの減らず口。
そして――リネットの、優しい笑顔。
あの場所にいるだけで、息がしやすくて――
この時間が、いつまでも続けばいいと思った。
でも、夢の終わりは、いつだって突然だ。
***
「ライアン、今日も来ないね……」
「ええ……どうされたのでしょう」
彼の姿を最後に見てから、もう五日が経っていた。
窓の外では嵐が吹き荒れ、嫌な胸騒ぎだけが、静かに心をざわつかせていた。
「……何も、なければいいのですが」
だが、その願いが届くことはなかった。
夏が過ぎ、木々の葉が色づき始めても――ライアン様が姿を見せることはなかった。




