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「ねぇ……お兄ちゃん、お姉ちゃん……」
腕の中で小さく甘えていたカミラが、不思議そうに顔を上げた。
「お兄ちゃん、こんなに笑顔が素敵なのに。どうしてお顔、隠してるの?」
その率直な問いに、ルーク様はわずかに目を見開く。
「ああ、えっと……」
けれど、すぐに表情を和らげると、言葉を選びながら、彼はまっすぐにカミラの瞳を見つめて答えた。
「……怖いんだ」
「こわい?」
「うん。人の目を見て、話すのが……まだ、ちょっとね」
私も、ライアン様も、ルーク様自身も、何度か髪を切ろうとしたことがある。
けれど、切ろうとするたびに、手が震えて、呼吸が乱れて――何も言えなくなってしまった。
あの前髪は、彼自身を守るための“最後の砦”だった。
無理に変えさせようとしても、意味がない。
だから私たちは、隣で待つことにした。
彼自身が、“もう隠れなくてもいい”と思えるその日が来るまで。
「そっかぁ……お目々、すごく綺麗なのに。もったいないね」
カミラの声は、どこまでも無垢でまっすぐだった。
その言葉に、ルーク様は微笑み、そっとカミラの頭を撫でる。
「ありがとう、カミラ」
ほんのり顔を赤らめながら、カミラは嬉しそうに目を細めた。
「……おい、いつまで妹に抱きついてんだよ。こいつは俺の妹だぞ!」
やきもちを焼いているのか、リンドが頬を膨らませて割って入ってきた。その様子はまるで小動物の威嚇のようで、思わず笑ってしまいそうになる。
「まぁ、心が狭いですわねリンド」
「お姉ちゃんの腕の中、温かくて心地いいよ」
「それではお姉様、俺を代わりに――」
「ドサクサにまぎれて近寄るな、ノア!」
「……やっぱり、仲いいじゃないですか」
ライアン様とノアが言い合いを始め、ルーク様が一歩引いて突っ込む。
初めて出会ったときにはどうなることかと不安だったけれど、今では軽口を叩き合うほど仲が良い。
“否定し合いながらも調和している”――そんな不思議な関係性が、この三人の空気にはあった。
どこか騒がしくも、温かなその光景に、私は小さく息を吐いた。
「本当に、良かった――」
***
――初めての街への視察から戻ったその日、私はすぐにノアの部屋を訪れた。
彼の協力がなければ、視察そのものが叶わなかった。
そして何より、どうやって父を説得したのか――その手段を知りたかった。
リンドとカミラに“また行く”と約束した以上、一度きりの訪問では終われない。
次も三人で街を訪れるには、どうしても公爵家の後押しが必要だった。
「ノア、いますか?」
三度ノックすると、ほとんど間を置かずに扉が開いた。
「は、早いですね」
「はい、お姉様の足音が聞こえてきたので」
「私、そんなに音を立てていたかしら……」
もしそうであれば、少しショックである。
自分の所作にはそれなりに自信があったから。
音を立てるなど、気が緩んでいるのだろうか……
「いえ、音は出ていませんよ。いつも通り綺麗な足音です」
「……? 足音が出ていないのに聞こえるんですか?」
「俺はお姉様に対してだけ、特殊な訓練をしていますので。それより、何か御用があったのでは?」
彼の発言は冗談と捉えて良いのだろうか。
いつも笑顔だから、冗談か本気が分からず難しい。
深く考えることをやめて、私は今日の出来事。そして、今後の相談を彼にすることにした。
「……なるほど、定期的に街へですか」
「はい、そこでノアがどの様にお父様を説得したか、教えていただきたくて……」
私の言葉に、ノアは少しだけ考える素振りを見せる。
やはり、私情で何度も公爵家の名を使うのは、無理があるのだろう。
だけど――
「……ノア、お願いします」
私は彼の手を取り、目を見て頼み込む。
するとノアは、顔を手で覆い、「はぁ〜……」と大きなため息をついた。
「……それ、わざとですよね?」
「え? なにがですか?」
「最近、随分と触れてくるようになりましたね、お姉様」
「それは、ノアは大切な……」
「“弟だから”って言い訳、今日は通用しませんよ?」
じりじりと近づいてくる彼に、私は思わずたじろいだ。
逃げようとしても、すぐ背後にソファの背が迫ってくる。
「えっと……その……」
「……ふはっ」
狼狽する私を見て、ノアは満足そうに笑った。
「……まさか、からかっていたんですか?」
「ええ。お姉様の慌てる姿があまりにも愛らしかったので、つい」
平然と言いのける彼を鋭く睨みつける。
しかし、それすら愉快そうに彼は笑っていた。
「本題に戻りますが――分かりました。俺から公爵様に話を通しておきます」
「でも、私から直接話した方が……」
「いいえ。“俺が主導している”と伝えたほうが良いでしょう。お姉様はあくまで“補佐”という形で」
「なぜですか?」
「お姉様は一人で動きすぎです。間違いなく、目つけられています。そこでさらに、国民を導く“聖女”のような行動をしたら、ルーク様よりも厄介な存在になってしまいます」
「せ、聖女だなんて……」
その肩書はオリビアの物だから、私に向けられると、照れくささよりも違和感が勝る。
けれど、ノアの言葉には確かな説得力があった。
王弟の視点からすれば、民を味方につける私のような存在は、最も排除すべき対象だろう。
「分かりました」
「ですので、これから街へ行くときは必ず俺も連れて行ってください」
「それはもちろん、構いませんが……」
「あと、なんかご褒美ください」
「そ、それは……また相談させてください」
軽口を叩く彼の顔は、いつもの落ち着いた仮面を外した、年相応のものだった。
***
――こうして、ノアも授業へ加わることとなった。
ちなみに、名前は「ありがちだから大丈夫」との理由で、そのまま使っている。
最初こそルーク様もライアン様も警戒していたが、今では彼の知性と落ち着きに、一目置くようになっている――はずだったのだが。
「この腹黒狐!」
「単細胞バカは語彙が乏しいですね。お姉様と同じ狐で光栄です」
「くそがっ!!」
……訂正。ライアン様とノアの相性は、少しばかり悪いようだ。
「お二人とも、そろそろやめてくださいな。子どもたちが真似してしまいますよ?」
そう笑った私は――まだ気づいていなかった。
この穏やかな日々が、長くは続かないことに。




