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「なんか、こっちの方は人が少ないですね」
ルーク様が指差した先には、ひと気のない通りが広がっていた。活気ある市場から少し離れただけなのに、空気がまるで違っていた。
「ええ。ここから先は、北通り――いわゆる、“貧困街”です」
私は短く答えると、護衛たちに目で合図を送った。背筋を正した彼らの様子を見て、ルーク様もライアン様も、ただならぬ気配を察したようだった。
「くれぐれも、私たちから離れないでくださいね」
私がそう念を押すと、二人は黙って頷いた。
通りを進むにつれ、景色は一変する。
壁に寄りかかる老人は、服とも呼べない布切れをまとい、地面に座る子どもたちは、骨が浮き出るほど痩せ細っていた。その目には生気がなく、ただこちらを無表情に見つめてくる。
「どうして、こんなにも……っ、うわっ!」
ルーク様の声に振り返ると、彼が地面に転んでいた。その傍には、先ほど遠くからこちらを見ていた子供――二人の少年少女が、彼が落としたパンに飛びついていた。
「待って、剣を抜かないで」
動きかけた護衛を手で制し、私は小さく首を振った。
子どもたちはそのままパンを抱え、迷いなく路地裏へと駆け去っていった。
「いったん……馬車に戻りましょう」
ルーク様と、その手を取っているライアン様に目を向け、静かに告げた。
***
馬車の中は、重たい沈黙に包まれていた。
「……なぁ、リネット。さっきのって……」
ライアン様が問いかけかけた言葉を、途中で飲み込む。
「この国の裏側……いえ、“全貌”と言った方が正確かもしれません」
私は窓の外を見ながら、続けた。
「国民のうち、およそ1%が職も住まいも失い、あのように路上で暮らしています」
「なんで、ですか……?」
ルーク様が苦しげに声を絞る。
「国民の価値が低く、誰もその事実を知らないからです……」
この事実は、彼らは知らないだろう。
上は、自分たちに都合のいい事しか伝えないから。
私は、彼らの目を見て続けた。
「ライアン様、先ほどお尋ねしましたね。
“果実水、高いと思いますか?”と」
「ああ……」
「答えは――高いです。高すぎます。
300ソルもあれば、お二人が普段飲んでいる果実ジュースが飲めます。果実水なんて、本来なら10ソルで充分なんです」
「じゃあ、どうして……誰も文句を言わないんだ……?」
「“知らない”からです」
私は静かに言った。
「この国には、教育制度が整っていません。読み書きすらままならない人が多く、物の価値を見極める力が育たないのです。その結果、価格は領主の裁量で決まり、不当な搾取がまかり通るようになる……」
「そんなの……おかしいよ……!」
「先ほどの子どもたちは、利用価値が無くなったと……捨てられたのでしょう」
そう――さきほどの子どもたちには、保護者の気配すらなかった。
きっと、養育できなくなった親が、子どもを手放したのだろう。
“また作ればいい”とでも思いながら――
「……ぼく、さっきの子たちにこのお金、渡してきます!」
ルーク様が懐から小袋を握りしめ、立ち上がろうとする。
ライアン様もそれに続き、鞄の中を探り始めた。
「お、俺も! 少しだけど残ってるし……!」
「おやめください」
今にも馬車から飛び出しそうな二人の行動を制した。
二人の顔には、戸惑いと、にじむような怒りが浮かんでいる。
「なんで止めるんだよ! このお金があればさっきの奴らだって少しは足しに……!」
「そのお金を、使い切ったあとはどうするんですか?」
静かに問いかける。
「一時的な施しでは、何も変わりません。優しさに見えて、それは“無責任な自己満足”です」
「じゃ、じゃあ……また、渡しに行けば……」
ルーク様のその言葉に首を振る。
「どのぐらいの頻度で? あの子たちだけにですか?
――残念ながら、それは無謀なことです」
「だからって……」
「何もしないのは、嫌です」
「何かしてやりてぇんだよ!」
ふたりが、同時に言葉を重ねる。
その姿があまりにも素直で、まっすぐで――思わず、私は吹き出してしまった。
「ふふ……そうですね。私も“何もしない”なんて嫌です」
微笑みながら、私は小さく頷く。
「だから、ひとつ“本当に意味のある方法”を試してみませんか?」
***
私達は市場で買い物をした後、再び北通りへと足を運んだ。
路地裏の奥。そこに彼らはいた。
パンを嬉しそうに分け合っている、小枝のように痩せた少年と少女。
私たちの姿に気づいた瞬間、二人の目つきが鋭くなる。
男の子は女の子を守るようにして、私達の前に立ちふさがり、こちらを睨みつけた。
「な、なんだよ……パンなら返さねぇぞ……」
「そのパンは私達が買ったものです。人の物を奪うのは泥棒ですよ」
「はっ、貴族様にとっちゃ、パンの一つや二つ、端金だろ!」
「あら、一応身なりは平民の服装にしていたはずなのですが……よく気が付きましたね?」
「平民がそんな立ち振舞するかよ」
(……この子、見抜く目を持ってる)
普通の子供はそこまで気が付かないだろう。
私は感心しながら、芝居がかったため息をついた。
「まぁ、それとこれとは話は別です。返してください」
「絶対に返さねぇよ!!」
私が威圧的に子供たちを責め立てる姿を見て、ルーク様とライアン様は何か言いたげにしているが、私はその二人を静止させた。
目で告げる。考えがあるのだ――と。
「では、それなりの対価が必要ですわね……」
二人を下から上まで舐め回すように見回す。
薄汚れているが、顔立ちは悪くない。
それに、女の子が腰につけているリボン。
汚れてはいるが、細やかなレースがあしらわれていた。
「なんだよ、俺らを売り飛ばそうとするつもりか!?」
「そんな野蛮なこと、しませんわよ」
私は女の子に指を指す。
「そのリボン。それを私にくださる?」
「え、これ……?」
女の子は腰からそのリボンを取り、恐る恐る私に見せる。
「おい、カミラやめろ! そんな嘘聞くな! リボンでいいと言って、お前を連れ去るつもりだ!」
男の子が叫ぶと、カミラというその少女はさっと手を引いて、震えながら男の子の後ろに隠れてしまった。
「そ、そうですよね……こんなの、手作りだし……価値なんて……」
「あら、そちら貴方のお手製ですの?」
私の問いかけに、カミラはおずおずと頷く。
「え、う、うん……お姉ちゃんから糸もらって、私が編んだの……」
「お姉様もいらっしゃるんですね……そのリボン、よく見せてくれませんか? お兄さんから私へ渡していただいて結構ですよ」
「なにを……企んでるんだよ……」
警戒しながらも、少年がリボンを手渡してくれた。
私はしばらくそれを観察し、ゆっくりと頷く。
「――なるほど。たしかにこのリボン、パン一つでは釣り合いませんわね」
「くっ、やっぱりそうじゃねぇか!」
「ですので、これくらいが妥当かと」
そう言って、私は用意していた袋を差し出した。中には、10,000ソルと、刺繍糸やボタン、レースや布がぎっしりと入れておいた。
「えっ……」
「本当はもっと渡したいくらいです。でも、大金を持つ子どもは、標的にもなりかねませんからね」
「いや、充分すぎる……」
喜びと戸惑いが入り交じらせながら、男の子は答えた。
私は続ける。
「そしてもう一つ――交渉させて下さい」
「な、なんだよ……」
「この糸で、貴方たちの“作品”を作ってくれませんか?」
「作品?」
「ボタンに刺繍でも、リボンでも、ハンカチでも。形式は問いません。余った資材は、自由に使ってもらってかまいません」
「いや、なんで……そもそもこんな大金!」
「そ、そうだよ……! さっきのリボンもパン一つの価値もないでしょう?」
カミラは視線を落とし、小さな声で呟く。
今まで、自分の作ったものが評価される機会など無かったのだろう。
「価値を決めるのは貴方たちではなく、私や他の人です。
私はあなたの作ったリボンに、お渡しした金額以上の価値を感じました」
「永らえたいなら、自分の価値を存分に活かしなさい。
無価値だと自分を卑下するのはやめなさい」
「……だけど……」
「……では、参考までに。こちらをどうぞ」
私の言葉にまだ疑いを残す二人の前に、一つのハンカチを差し出した。
そこには私が刺繍をした、“とある動物”が描かれている。
「えっと……豚?」
「犬です」
「作ったのは、幼い子どもか……?」
「私が縫いました」
きょとんとした兄妹の背後で、ルーク様とライアン様が耐えきれず吹き出した。
「っはははは! いやいや。なんで犬なのにピンク色なんだよ!」
「……可愛らしいと思いまして」
「……っ……く……な、なんで目が青色なんですか……?」
「……綺麗な色だと思った、ので」
くっ……子供たちを説得させるためとはいえ、二人は笑いすぎ!
私は頬を紅潮させながらも、毅然と答えた。
「もう、お二人は黙っててください!
……こほん。ですので、人には“得意”と“不得意”があるんです。あなたの編んだレースは――私には、絶対に真似できません」
その言葉に、カミラの頬がほんのり赤く染まった。
「確かに、比べるとカミラは上手だな……」
ぶっきらぼうに言いながら、少年も袋をしっかりと受け取ってくれた。
彼らは、自分たちの“持つ価値”に気づくことができた。
それは間違いなく、新たな一歩になるだろう。
「また来ますね、カミラと……お名前聞いてもいいかしら?」
「リンド……」
「カミラとリンドですね、ありがとうございます」
「礼を言うのはこっちだよ……あんた、変わり者だな……」
「よく言われます」
微笑みながら、私は二人に背を向けた。
***
「やっぱり……すごいです、リネット様は……」
帰りの馬車の中で、ルーク様がぽつりと呟いた。
「ぼく、目先のことしか考えられなくて……
でもリネット様は、あの子たちの“未来”を見据えていました」
その言葉に、私は小さく微笑む。
「いいえ、ただ運よく気づけただけです。
それに、さっき子どもたちにも言ったように、人にはそれぞれ得意と不得意があります。
これからは――ルーク様の“得意な方法”で、同じような境遇の子たちを救ってあげてくださいね」
「ぼくの……得意な方法で……」
呟きながらも、ルーク様の瞳には確かな光が宿っていた。
それは、自責ではなく――決意の色だった。
「得意、不得意――あるもんな」
隣でライアン様が小さく呟く。
そして、真顔のまま、ぽつりと呟いた。
「俺さ、気づいたんだよな……今日の課外レッスンで」
――この一日が、彼らの中にどんな変化をもたらしたのか。
私は胸の中で期待を膨らませながら、彼の続きを静かに待った。
「なんでしょうか?」
「やったことねぇけどさ……たぶんだけど、刺繍は俺の方がうまい」
「真面目な顔で何を言ってるんですか!」
私の言葉に、ライアン様は肩を揺らして笑い、
ルーク様も声を出して笑った。
そして私も、自然とつられて笑っていた。
――今日見た現実。触れた痛み。芽生えた想い。
そのすべてが、小さな「気づき」となって、きっと彼らの中で大きな変化の芽になっていくのだろう。
***
「……以上でございます」
報告の声が、静まり返った部屋に響いた。
報告を受けた男は椅子に深く腰かけ、卓上の杯を傾けながら、苦々しく唇を歪める。
「まさか、街にまで連れ出すとはな……」
その横で、子どもの声が静かに続けた。
「“彼ら”が変わり始めています。リネットに影響されて――王子としての意識が、芽生え始めているようです」
「……放っておくわけにはいかんな」
男の瞳に冷たい光が宿る。
「ライアンを――“処罰”する必要があるな」




