18
石畳を蹴る馬車の車輪音が、胸の奥まで小さく響いてくる。
ルーク様は窓から身を乗り出すようにして、街の景色を見つめていた。
その横顔には、王宮の中では見せたことのない――無邪気な高揚が浮かんでいる。
「すごい……こんなにもたくさん、人がいるんですね」
「おい、危ねぇから座れっての!」
ライアン様が注意しても、ルーク様の目は街に釘付けだ。
「あれが市場……? 本で読んだ通りなんだ……!」
「近くで見ると、もっとすごいですよ」
まるで童話の中に迷い込んだ子どものように、彼の目がきらきらと輝いていた。
――初めて見る、自分の国。
知らなかった景色。
触れたことのない、“現実”。
彼にとって、すべてが新鮮なのだろう。
文句を言いながらも、ライアン様までどこか落ち着かない様子だった。
***
あの日、ルーク様へ手紙を送ったあと、私たちは三日後に“視察”を行うことを決めた。
本来なら、王弟の監視下にある彼らが、王宮を出ることなど叶わない。
今回は、ライアン様が密かに整えた抜け道を使い、お忍びの外出となった。
だが、王族である二人に万が一のことがあれば、その責任を私一人では負いきれない。
迷った末、ノアに相談したところ――どう説得したのかは不明だが、彼は父へ掛け合い、公爵家から護衛と馬車を手配してくれた。
(……さすが。完璧すぎるわね)
以前の私なら、ノアに頼ることすらなかっただろう。
けれど今は、もうわかっている。
彼には、私たちを害するつもりなど――一切ないことを。
「でも、残念ですね。ノア様にもお会いしたいです」
「ええ、私もお二人に会ってもらいたかったです……」
彼は病み上がりにもかかわらず、父からの本格的な引き継ぎを始めていた。
“それを理由に甘えるのは嫌だ”と言い張り、また無理をしているのだろう。
「彼も、ルーク様とライアン様に会えなくて、すっかり口を尖らせてましたよ。
次はぜひ、お話し相手になってあげてくださいね」
「いいけどさ……そのノアって、本当に信用できるのか?」
ライアン様の問いかけに、私は迷いなく答えた。
「ええ。自信を持って紹介できます」
「……ふーん」
その瞬間、妙な沈黙が流れた。
ライアン様だけでなく、なぜかルーク様まで苦笑いしている。
(……なんなの、この空気)
気まずさに耐えきれず、私は思わず声を張り上げた。
「ほ、ほら! あそこが街の中心ですわ! 行きましょう!」
馬車を降りて最初に目に入ったのは、賑わいに満ちた石畳の広場だった。
パンの焼ける匂いと、果物を山盛りにした籠。
笑い声と怒鳴り声が交じり合い、混沌とした活気が肌を撫でる。
「……わぁ」
ルーク様は感嘆の声を漏らし、呆然と市場を見つめていた。
「これが……市場……」
呟く声には、感動と戸惑いが入り混じっている。
「すごい活気だな。思ってたより……なんつーか、明るいじゃん」
ライアン様も、口ではぶつぶつ言いながら、視線をきょろきょろと動かしている。
その様子を微笑ましく見つめながら、私は小さく宣言した。
「それでは――“課外レッスン”開始です!」
せっかく街に来て、見て終わり。ではつまらない。
そこで私は二人に予め、課題を渡していた――
***
『二人には事前にお金を渡しておきます』
そう言って、小袋を一つずつ渡した。
『中には、1,000ソル入っています。だいたい100ソルでパン一つ買えるぐらい、とお考えください』
『なんだよ、たった1,000かよ……』
その言葉に私はにやりと口角を上げて続けた。
『この1,000ソルは、自由に使っていただいて構いません。
使い切ってもいいですし、残しても結構です。
ただし――“必ず一度は使うこと”』
人と話すことがまだ苦手なルーク様にとっては、少しハードルの高い課題かもしれない。
それでも彼は、迷いのない瞳でこう言った。
『分かりました』
“頑張る”ではなく、“分かった”と。
『あ、それと街中では本名で呼び合うのはリスクがあります。
私のことは“リン”とお呼びください』
『んーと、じゃあ俺“ライ”で、ルークは“ルウ”な!』
『え、なんか……ぼくたち、適当すぎない?』
『まぁ、バレなきゃいいんだよ!』
***
――こうして始まった、課外レッスン。
開始早々、二人の動きはそれぞれの性格が色濃く出ていて、見ているだけで面白かった。
ライアン様は気になった物を迷わず購入していく一方で、
ルーク様は、いろいろと見ては悩み、また止めて……を繰り返していた。
「なんだよ、ルウ。何も買ってねぇじゃん」
「う、うん。どれも素敵で……ライは何買ったの?」
「とりあえず食い物。蜜パンと、これは果実水。味は……薄いな」
「そうなの?」
「ああ、でもパンの三倍の値段もするんだぜ?」
不思議そうな顔をしてる彼に、一つアドバイスをしてみる。
「ライさん」
「ライさんじゃなくて、ライ、な?」
「うっ……ら、ライ……」
敬称無しは呼びなれていないから、こっちが恥ずかしい。
そんな私を見て、ニヤニヤしてくるライアン様に少し苛つきを覚えたが、咳払いして再度話しかけた。
「ライ、果実水高いと感じますか?」
「敬語、使ってんの不自然じゃね?」
「んんん、高いと思う?」
「うん、思う。こんなん買う価値あるのかって思うわ」
「じゃあ、周りの人達。みんな不満そうに飲んでる?」
私の言葉を聞いて、ライアン様は周りを改めて見渡した。
そして、少し顔に影を作り、答えた。
「いや、むしろ……みんな、幸せそう、だな」
王宮の食事に慣れている彼らにとって、薄められた果実水は美味しく感じられないだろう。
だけど、平民にとっては違う。これがご褒美なのだ。
それに、気がついたのだろう。
「改めて、俺らって恵まれてるな……」
自分たちの世界が当たり前ではない。
それに彼は身にしみて気がつけただろう。
これこそが、この課外レッスンをする意味なのだ。
「私達にとって“当たり前”が、他の人にとっては“特別”かもしれない。それを知ってるか知らないかで、見えてくる世界はまた大きく変わります。
今日、ライはそのことに気がつけたので、これから見てくるものも、また変わってくるはずですよ」
「……敬語」
「もう、こんな時まで口は減らないで・す・ね!」
だけど、今日一日でまた彼も成長するだろう。
「あ、あの……リン……」
「どうしました?」
「ぼくも……っ……な、なんでもないです! あそこのパン買ってきます!」
「え、ええ……」
彼は何を言いかけたのだろうか。
分からず、ぼんやりと買い物する彼の姿を見つめる。
(あ、お店の方に話しかけて……あら、小銭落としちゃいました。
……そうそう、拾うのはゆっくりでも大丈夫です。
よかった、無事に購入できましたわね!)
なんとか初めての商品を購入できた彼は、小走りでこちらに戻ってきた。
「リ、リン! 買えましたよ!!」
「ふふふ、おめでとうございます」
「う、うん……」
初めて買い物をしたというのに、彼は顔を伏せて少し残念そうにしていた。
「……?」
「あ、えっと……あっちにも、行ってみます!」
そう言って、人混みにたじろぎつつも彼は前に進んでいった。
すると、突然隣から吹き出すような笑い声が聞こえてきた。
「くくく、お前も意地悪だな」
「え、何がです?」
「アイツ、多分呼んでほしいんだよ」
少し考え、やっとライアン様の言葉の意味に気がついた。
「お前、頭良いのにこういうの疎いよな」
「うるさいです」
「リン! ライ! あっちに素敵な書店があって、みんなで行きませんか?」
ライアン様に言われたからか、少し照れくさい。
けれど、彼だけ呼ばないのも不自然だから――
「はい、行きましょう……ルウ……くん」
「!!」
横から「結局、君付けかよ」というライアン様の小馬鹿にする声が聞こえてきた。
私もびっくりだ。彼をいつもと違う呼び方で呼ぶだけで、なんでこんなにも恥ずかしくて、胸がうるさいのか。
「はい、リン!!」
その理由は、分からないけれど……
前髪の隙間から見えた、あの嬉しそうな笑顔が見られたから、呼んでよかったと思えた。




