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「……んっ……」
「おはようございます、お姉様」
何度か瞬きをして、ようやく状況を思い出した私は、はっとして彼の手を放した。
「残念……」と、小さな声が聞こえた気がしたが――きっと、気のせいだろう。
「ノア、熱は……!」
「お姉様のおかげで、すっかり良くなりました」
顔色は悪くない。
額に手を当ててみると、確かに先ほどまで感じていた熱は、すっかり引いているようだった。
元気そうな様子に、思わず胸を撫で下ろす。
「お姉様がそばにいてくださったおかげです」
「またそんな、お世辞を……」
「本当ですよ。いつもなら、もっと長引いていましたから」
たしかに、原作のノアならもっと寝込んでいたはずだ。
話の流れが変わったから、身体にも変化があったのだろうか?
けれどノア自身が“いつもなら”と言ったのなら、今回だけが特別なのかもしれない。
そんなことを考えていたとき、ふと昨夜の言葉を思い出した。
「ねぇ、ノア。“助けられてばかり”って、どういうこと?」
あれは、彼が眠りにつく直前に口にした言葉だった。
心当たりはなかった。そもそも出会って間もないのに、彼の発言に齟齬があるのだ。
「……ああ、えっと。お姉様は、覚えていないかもしれませんが……」
ノアは少しだけ視線を伏せると、ぽつり、ぽつりと話し始めた。
自分が“アルシェリア”出身であること。
かつて、私が譲った本で、知識と作法を学んだこと。
そして――私に恩を返したかったということ。
「……貴方だったのね」
私は、ずっと前に出会っていた。
忘れるわけがない。ぶどう畑を必死に守ろうとする、あの健気な少年の姿を。
「でも、ノア……その……見た目が……」
「ふふ、がっしりとまでは言いませんが、少しは体格良くなったでしょう? あの頃は本当にガリガリでしたから」
「……ええ、こんなにも立派になって……嬉しいです」
「お姉様にそう言っていただけるなら、何よりです」
ふっと笑う彼の声は穏やかだったが、その奥には何か――焦がれるような感情が潜んでいるように見えた。
「……できれば、お姉様には、“今”の俺を見ていてほしいんです」
「え? もちろん、見てますよ? ちゃんと、成長を感じています」
「……ありがとうございます。……でも、お姉様って……よく、ルーク様のことを見ていますから」
「……ルーク様?」
ぽかんとして聞き返すと、ノアはすぐに微笑み直して、首を横に振った。
「いえ、俺って独り言多いんです。気にしないでください」
その笑みは、どこか自嘲気味だった。
私はその理由が分からず、ただ彼の変化に胸を温かくさせた。
――懐かしい記憶をひと通り語り合ったあと、私は椅子から立ち上がりかけて、ふとノアの顔を見下ろした。
そして、どうしても伝えておきたい言葉を口にする。
「ノア、ごめんなさい」
少なからず、私は彼を疑っていた。
彼は、ただ純粋に私を慕ってくれていただけだったのに――
その気持ちに影を差したことが、悔しくて、申し訳なかった。
「謝らないでください、お姉様」
ノアはやわらかく微笑む。けれど、その目だけが、まっすぐで強かった。
「俺が同じ立場だったら、きっと同じように感じたと思います。……お姉様は、誰よりも“守る”ことに敏感な方だから」
「ただ……もし、それでも罪悪感があるなら」
ノアは一呼吸おいて、静かに、けれど真剣なまなざしで私を見つめる。
「――また、俺に時間をください」
その言葉は、優しく響いたのに、どこか切実だった。
「……引き継ぎが終わったら、ルーク様のところへ行ってしまうのでしょう?
毎日とは言いません。だけど、時間がある時でいい。――また、俺と話してくれませんか?」
「そんなの、当然です。可愛い弟に会いに行きますわ」
「……弟に、ですか」
ぽつりとこぼされた言葉は、掠れたように小さかった。
それでもノアはすぐに笑って、いつもの調子に戻る。
「ありがとうございます。でも、ほんの少しだけ……違う呼び方だったら、嬉しかったかもしれません」
「え……?」
聞き返す私に、ノアは困ったように笑って、首を振った。
「気にしないでください。お姉様が、俺のことを忘れずにいてくれるなら、それだけで嬉しいです」
そう言って見せた笑顔には、やっぱりどこか名残惜しさが残っていた。
けれど私は、その理由を掴みきれず――ただ、彼のまっすぐな眼差しがまぶしく思えた。
***
「あら。ルーク様から、もうお手紙が」
封蝋は真っ直ぐに押され、丁寧に結ばれていた。
私はゆっくりと封を開き、書かれた文字を目で追う。
《リネット様へ
お元気でしょうか。こうして手紙を交わしているのに、なんだかとても寂しいです。
今日は、ライアンに紹介してもらい、庭師の方とお話をしました。
リネット様とライアン以外と話すのは、本当に久しぶりで……緊張してしまい、習った作法がすっかり頭から抜けてしまいました。
それでも庭師は、「植物好きに悪い人はいない。あなたが花を大切にしていることは、私にも伝わっていますよ」と、優しく声をかけてくれました。
本当に嬉しかったです。
リネット様と出会うまでは、人とこんなふうに話せる日が来るなんて、思いもしませんでした。
それと同時に、無性にリネット様に会いたくなりました。
リネット様……早くお会いしたいです。》
「……っ……」
ああ、私も早く彼に会いたい。
会って、その頭を撫でて、「素晴らしい」と何度でも伝えたい。
彼の成長が、こんなにも眩しくて、胸が苦しくなる。
「今日は二枚目もあるのね……」
《僕は、自分がこんなに欲深い人間だったとは、知りませんでした。
リネット様に出会えて、本当に良かったです。
今日は少し長くなってしまい、申し訳ありません。
最後にもう一つだけ、お願いがあります。
国政や歴史を学ぶなかで、僕は気づいたのです。
――自分は、この国の“今”を、まだ何も知らないのだと。
そこで、もしよろしければ……
リネット様と一緒に、街へ行ってもらえませんか。
王子として、この国の人々の姿を、自分の目で見てみたいのです。
突然のお願いで申し訳ありません。お返事、お待ちしております。》
――街へ。
それは、彼が「王子」として、この国を見つめようとする最初の一歩。
同時に、“彼が自分の未来を選び始めた”という何よりの証だった。
手紙を読み終えた私は、窓の外を見やった。
そこには、王宮とは違う広い世界が広がっている。
「ええ、行きましょう。あなたと一緒に、この国を見ていくために」




