16
赤紫色に染まるぶどう畑には、いつも心地よい風が吹いていた。
小さな村の一角で、俺はその風景に囲まれて育った。
父は公爵家から任された代官として、この農業に向かない土地でぶどうを育てていた。
痩せた土壌、冷え込みやすい気候――それでも、父は毎年必死に食らいついた。
当然のように、その努力は俺にも求められた。
「今年が駄目なら、手放すしかないかもしれない……」
五歳の誕生日を迎える直前、父がこぼした一言が、今でも耳に残っている。
この畑がなくなる――その可能性に、子どもだった俺は強い拒絶を覚えた。
「そんなの、絶対に嫌だ!」
あの風、匂い、土のぬくもり。なにより大好きなぶどう畑がなくなるなんて、想像もしたくなかった。
子どもだった俺は、ただその景色を守りたくて、無我夢中で祈るように土に向き合った。
けれど、現実はそう上手くいかなかった――
そして訪れた、運命の日。
村の命運を握る領主が視察にやってきたのは、皮肉にも俺の誕生日だった。
高級な馬車が止まり、中から降りてきたのは――まるで赤ぶどうの雫をまとったような髪を持つ少女。
澄んだ瞳と、背筋の通った佇まい。その姿に、俺は息をのんだ。
(……きれいだ)
王都の人間は、こんなにも眩しいのか。
土まみれで痩せこけた自分と、あまりにも違いすぎて――とてつもなく、恥ずかしくなった。
父は震える手で、今年のぶどうを差し出す。
「領主様……こちらが、今年の出来でございます……」
領主はぶどうを一粒口に含むと、すぐに顔をしかめた。
そして、それ以降手を伸ばすことはなかった。
「……これは、もう無理だな。とても街に出せるものではない」
「ど、どうか……もう一年だけ……!」
父の懇願も空しく、領主は冷たく告げた。
「この一年が最後の猶予だった。もう十分だ」
父はその場に崩れ落ち、村の人々のすすり泣く声が響いた。
俺は、ただ唇を噛みしめた。自分が何もできないことが悔しかった。
領主は背を向け、馬車へ戻ろうとした。そのとき――
「お父様、私も一粒いただいてもよろしいでしょうか?」
凛とした少女の声が空気を裂いた。
……リネット様だった。
彼女は、父からぶどうを一粒受け取り、迷いなく口にした。
そして、ふわりと笑った。
「これは――続けた方がいいですわ」
あまりに意外な言葉に、場がざわつく。
俺も、父も、領主さえも、彼女の口元に視線を奪われていた。
「どういう意味だ、リネット。この渋さでは、食用には向かん」
「ええ、ですが――“ワイン”には最適ですわ」
香りが強く、酸味と渋みのバランスが良い、
この気候も発酵に向いている――と、彼女はさらりと語る。
「このぶどうを“ワイン専用”に育て直せば、きっと価値が出ます」
領主は眉をひそめながらも、彼女の提案に耳を傾けた。
「……失敗したら、お前は責任取れるのか?」
「ええ。約束します。絶対に成功させてみせますわ」
堂々とそう言い切る姿に、父が慌てて止めに入る。
けれど彼女は――一歩も引かなかった。
(……ああ、恋をする瞬間って、こんな感じなんだ)
幼いながらに、俺は確かにそう思った。
美しいだけではない、その堂々とした姿に、俺は恋に落ちていた――
それから、リネット様は何度も村を訪れた。
専門家を連れ、土壌を調べ、父と共に試行錯誤を繰り返した。
俺も手伝った。子どもなりに、必死だった。
そして一年後――
彼女が導いたワインは王宮に献上され、“陛下御用達”という栄誉を得た。
父はその功績から爵位を授かり、今も幸せそうにぶどう畑に囲まれている。
「リネット様、本当にありがとうございました!!」
村民全員で頭を下げる。
リネット様は目を大きく開き、愛らしく微笑んだ。
「この村はまだまだ成長途中です。これからも頑張ってくださいね」
ああ、彼女が王都へ戻ってしまう。
もう簡単に会うことも難しいだろう。
(……いやだ)
もっと彼女と話したい、
もっと彼女を知りたい、
もっと彼女の側にいたい、
これが最後なんて――絶対に嫌だ。
彼女が馬車へ戻ろうとしたとき、俺はたまらず声を上げた。
「どうしたら……あなたのようになれますか!」
もう一度、堂々と彼女の前に立ちたかった。
救われた恩を、返したかった。
その問いに、リネット様は静かに答えてくれた。
「知恵は、何よりの武器です。
誰かを守りたいなら――まずは、学びなさい」
そう言い残し、彼女は王都へ帰っていった。
――彼女から本や資料がたくさん届いたのは、僅か数日後のことだった。
農業だけではなく、爵位をもらった父のために作法のマナー、歴史から有名な本まで沢山。
そこから俺は必死に勉強をした。
彼女のようになりたかった。
誰かの未来を変えられるような人に。
今度は、俺の“知恵”で、あの人を守れるように――
「リネット様が……婚約、された……?」
その頼りが届いたのは、数ヶ月前のこと。
分かっていた。成り上がりの男爵家令息と公爵家令嬢なんて釣り合わない。
彼女と恋仲になることなんて絶対に無い。
だけど、それでもこの思いを無かったことにはできなかった。
さらに、婚約者があの“嫌われ者のブサイク王子”ときた。
許せなかった。認めたくなかった。
「あんな奴に渡すぐらいなら……」
――いっそ、俺が彼女を奪ってやりたい。
彼女が困ることのないよう、一生籠に閉じ込め、めちゃくちゃに可愛がりたい。
“俺の全てを、彼女へ捧げたい”
悔しさのあまり、周りに当たり散らかしてしまうこともあった。
しかし、その一ヶ月後、転機が訪れる。
「公爵家の、跡取りですか……?」
「お前なら適任だと、声がかかったんだ。――恩を返せる機会だと思わないか?」
公爵家の養子になる。
それは、父と母に別れを告げることを指す。
彼女へ恩は返したい。だが、両親を捨てるようなこと、俺にはできなかった。
「私達のことは気にしなくていい」
「だ、だけど……!」
「お前の気持ちはよく分かってる。だからこそお前はもっと先を見据えるべきだ。
幸せな未来を切り開いてほしい、だからお前にこの名を付けたんだよ――“ノヴァリア”」
***
「………っ……ここは……?」
どれぐらい寝ていたのだろうか。
ゆっくりとまぶたを開けると、茜色の光が部屋を包んでいた。
(……身体が、軽い)
驚いたことに、熱がひいたようだった。
いつもなら、もう二、三日は長引くはずなのに。
乾いた喉を潤すために、手を上げたとき、違和感に気がついた。
「……ああ、お姉様が側にいてくれたから、ですね」
ぎゅっと手を握りしめ、顔をベッドに伏せたまま、リネット様は眠っていた。
擦れて化粧が落ちたのか、目元には隠していた隈がうっすら浮かんでいる。
彼女と王子の婚約は、望まぬものだと思っていた。
しかし、実際は違った。
俺が来てからも毎日文通を交わし、彼のために時間を費やしている。
それが悔しくて、羨ましくてたまらない。
だけど、彼女の幸せのためならば――と、心に蓋を被せた。
「……こんな割れた蓋じゃ、気持ちは溢れるばかりですね」
彼女が起こさぬよう、身を起こし、
静かに眠る愛らしいその額に、そっと唇を落とした――




