15
翌朝。朝日が差し込む静かな屋敷に、控えめなノック音が響いた。
「リネットお姉様、おはようございます。朝の予定をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
扉の向こうから聞こえたのは、まだ聞き慣れない――けれど、丁寧で柔らかな少年の声。
(……朝早くに、もう起きてるのね)
少し眠気を残しながらも身を起こし、扉を開けると、そこにはきちんと身なりを整えたノアが、姿勢良く立っていた。
「おはようございます、ノア。ずいぶん早いのね」
「お姉様との時間が待ちきれなくて、来てしまいました」
(うっ……!)
腰を落とし、上目遣いで微笑む彼の姿に、思わず言葉を失いかける。
――あざと可愛い、という表現がこれほど的確な場面があるだろうか。
同時に、警戒心が胸をざわつかせた。
これが“計算”だったら、相当な手練れ。敵意は感じない。けれど、それが逆に厄介だった。
「そうね……今日の予定は屋敷の案内から始めましょうか。ただ、その前に私も支度があるから、朝食のあとにしましょう」
「はい、分かりました。でも……もしよければ、朝食もご一緒していいですか? お姉様と、もっとお話したいです」
あどけない笑顔を浮かべながら、遠慮のない距離感でそう言ってくる。
戸惑いを覚えながらも、「ええ、準備が整い次第、侍女から時間を伝えさせますわ」と答えると、ノアは嬉しそうに小さく手を振って下がっていった。
(……本当に、何を考えているのかしら)
その笑顔の奥を探ろうとするほど、霧が濃くなるように何も見えない。
(でも、焦りは禁物ね)
引き続き、彼の真意を探るべく、身支度を整え食堂に向かうことにした。
到着すると、すでにノアの姿があり、張り付けた笑顔で座っていた。
「この屋敷での朝食は、初めてですよね?」
「はい。ちょっと緊張してましたけど……お姉様がいてくれるので、安心できます」
笑顔でそう言うノアに、私は静かに頷いた。
朝食の作法も、完璧だった。
その所作は上位貴族で十分通じる程だ。
ヴェイル家の教育方針が相当素晴らしいか、相当厳しいかのどちらかだろう。
(……本当に、どこで学んだのかしら)
初日から違和感はあった。けれど今、確信に変わる。
この少年は“完璧”すぎるのだ。
その姿は“完璧ではないといけない”という強迫観念すら感じる。
朝食を終えると、本格的な引き継ぎが始まった。
一週目は屋敷の構造、使用人の配置、家系図や慣例の共有。
二週目は執務室の管理、帳簿の確認、領地の概況――そして政治的な基本知識まで踏み込んだ。
すべてにおいて、彼は即座に理解し、正確に答えた。
一般人であれば半年、いくら優秀な人でも丸一ヶ月は使うであろう、知識量を彼は即時に理解して吸収していった。
天才――そんなチープな言葉で留まることはできないが、それ以外に彼を表現する言葉がなかった。
「……本当に、一度で覚えるのね」
「お姉様の教え方が丁寧だからです。俺にとって、とても分かりやすいです」
素直に、自然体でそう言ってのける。
飾った様子もなく、愛想も良い。文句のつけようがない。
(でも、あまりにも完璧すぎて――ロボットみたい……)
そう思ってしまう自分に、少しだけ嫌気が差した。
完璧な人間なんていない。
……だからこそ、彼が時折みせる笑みの奥に見える虚無が気になった。
警戒をしながら説明を続けていると、コンコンとノックの音。
部屋へ入るように促すと、お父様に仕える執事が頭を下げて挨拶をしてきた。
「お嬢様、引き継ぎ中ところ失礼します」
執事が差し出したのは、一通の手紙だった。
封蝋は王家の印。ルーク様からのものだ。
後ほど部屋でゆっくり読もうと思ったが、手紙を受け取った後も執事は帰る様子がない。
(読んで、すぐに手紙を返せってことね……)
ノアへの引き継ぎだけでなく、ちゃんとルーク様とも交流を取れということなのだろう。
「……少し失礼するわね、ノア」
「はい、大丈夫です。教えてもらったところ、復習しておきますね」
彼にお礼をし、前回よりも真っ直ぐになった封蝋を見る。彼の成長が感じられ、微笑ましくて顔が綻んだ。
《リネット様へ
今日も教わったことを意識しました。ライアンが、外に行ってみようと言ったので、少しだけですが、王宮内も歩いてみました。
これまでは自信がなくて、どうしても周りの目が気になってました。全く気にならなかった……といえば、嘘になりますが、それでも前よりずっと堂々と歩けた気がします。
リネット様とお会いできない日々は寂しいですが、その分成長して、また褒めてもらえるように頑張ります。
リネット様も、どうかご無理なさらないでください。》
(……かわいい)
自然と笑みがこぼれた。
真面目で、一生懸命で、不器用なほど誠実なルーク様。
彼の手紙を読むと、心の奥が温かくなる。
早く直接褒めてあげたい。その気持ちを先ずは手紙にしたためるよう、ペンを走らせた。
「こちらを、ルーク様へお渡ししてもらえますか?」
「もちろんです」
執事は満足そうに手紙を受け取り、その場を立ちさる。
その姿を見届けたあと、ふと後ろを見ると――表情を硬くしたノアがいた。
「……羨ましいな、ルーク殿下は」
「え……?」
「気にしないでください、独り言です」
語る彼の表情は、苦々しく、今まで見たことがない姿だった。
(なんで、そんな顔をしているの――?)
分からなかった。
完璧な彼がルーク様に対してだけ見せる、その顔が。
彼に嫌悪感……いや、嫉妬しているのだろうか?
ふと、目線を落とすとノアの手元がわずかに震えていた。
その手には、いくつものタコ。白くなった指先。……それは、長時間の筆記と訓練の証だった。
(まさか……)
思わず、彼をまじまじと見つめた。
「ノア……もしかして、無理してるの?」
「無理だなんてしてませんよ。むしろお姉様と長く過ごせて、幸せなぐらいです」
「だけど……」
その顔はいつもより白くみえる。
だが、表情だけはいつもと変わらず仮面のように完璧な笑顔だった。
「ノア。引き継ぎは順調ですし、今日はここまでにしませんか?」
「嫌です。お姉様との時間が減っちゃうじゃないですか」
そう言って、彼は再び資料を読み始めた。
なぜこんなに無理をしてまで、努力を続けるのか。
――もしかすると、彼の野望は公爵家だけに留まらないのかもしれない。
***
「ノア、やっぱり今日は休みましょう!」
次の日。昨日よりも明らかに顔色を悪くした彼がそこにいた。
息も早いし、体調が悪いことは明らかだ。
それなのに、彼は首を横に振る。
「これくらい大丈夫ですよ。それより、今日は領地のお話が聞けるんですよね。俺、楽しみにしていたんです」
その笑顔も、いつもより力が無かった。
「ノア……あなた、なんでそんなに無茶をするの……?」
聞けずにはいられなかった。
いくら私が中断しても彼は努力を続ける。
その姿は余りにも痛々しく、まるで――昔の自分を見ているようだった。
「貴方は十分すぎるぐらい、完璧だわ」
「それでも、俺はまだ力が足りません。
お姉様、今日だけ。今日だけでいいですから――お願いです」
懇願に近いその要望に、私は拒むことはできなかった。
「では、無理だけは絶対にしないでくださいね」
彼はコクリと頷くと、嬉しそうに私の話に耳を傾けた。
私は地図を取り出し、机の上へ広げる。
「テイラー家は代々、宰相職を担ってきました。領地は南部にあり、農業には向きませんが、交易と織物で栄えてきました。
これが、私が任されている領地のひとつ。今後、ノアも管理に関わることになるはずです」
「質問良いでしょうか?」
ノアは広げた地図の都市から外れた小さな街を指差す。
「農業に向かないとの事ですが、こちらは農業で有名な場所ですよね?」
「よくご存知ですね。その通り、此処はテイラー家が管理する中で唯一農業を生業にする“アルシェリア”と言います」
ここではワインの原料となるぶどうをはじめ、ラベンダーやタイムなどのハーブ、玉ねぎやレタスも育てている。
昔、父に連れられて訪れたときの情景が、今も鮮やかに思い出せる。
「……アルシェリア、ですか?」
「烏滸がましながら、私が名前をつけさせていただきました。今は商業が事業の主ですが、この街から私は農業発展も夢ではないと思っています」
その土地は正直、農作には向いていなかった。
だからこそ、その土地で出来ることをアドバイスしたところ、それが運良く当たり、今や国王陛下に献上するワイン事業にまで登り上げたのだ。
「ですので、“希望の始まり”という意味を込めてお付けしました」
父に「この功績はお前のものだから、好きに付けろ」と言われ、思いついた名前をつけてしまったのだが……あまりにも単純な名前だと思われただろうか。
ちらりとノアの方を見ると――
「いえ……本当に、素敵な名前です……」
顔をくしゃとさせ、今まで見たことがない、最高の笑顔で答えてくれた。
(ああ、これはノアの本心だ……)
今まで見ていた仮面の笑みではない。心からの笑顔。
(ノア、貴方の望みは一体――なに?)
ルーク様への対抗心があるかと思えば、公爵家の領地に興味を示す。
彼の行動のチグハグが、私には何も分からなかった。
だけど、彼が一生懸命に努力する理由――それには間違いなく、明確な目標があり、彼の行動に裏表がまったくないことは分かる。
そんな彼だから、私は教える手を止めなかった。
話を続け、しばらくしたときだった――
――カタンッ
「……あ……」
彼が手に持つ万年筆を床に落としてしまった。
彼を見ると、顔は青白く、額には冷や汗が浮かび上がっていた。
「待って、ノア! 私が拾います!」
しかし、その声は彼の耳には入っていなかった。
彼が屈んでペンを取ろうとした瞬間、そのまま椅子から傾いていくのがゆっくりと見えた。
「待って!!」
間一髪、と言っていいのだろうか。
彼の頭が床に叩きつく前に滑り込み、彼の下敷きになる。
その身体は驚くほど熱を帯びていて、今まで座っていられたことが不思議なほどだった。
「ノア! しっかりしてくださいノア!!」
何度も呼びかけるが、彼の目は虚ろだった。
「俺は……助けられて……ばっかりですね……」
「――え……?」
呆然とした私を見て、ふっと微笑むと、彼はそのまま眼を瞑った。




