11
朝の光が、薄いカーテン越しに部屋を照らしていた。
「……ん……」
机の上にはたくさんの本。その本の山に囲まれるように、ルークは突っ伏して眠っていた。
“彼女に恥じない存在になりたい”
そう誓ったあの日から、自分なりにできることを探しはじめた。
といっても、急に何かができるわけじゃない。
だから、まず手を伸ばしたのは――本だった。
文字を読むこと。知らないことを知ること。それなら、引きこもりの自分にもできるかもしれない。
もともと本は好きだった。けれど、それはただページをめくるだけの“読書ごっこ”。
難しい言葉は読み飛ばし、意味は曖昧なまま。
けれど今は違う。ただの暇つぶしじゃない。
誰かに届く言葉を、ちゃんと伝えられる自分になりたい――そんな思いが、ぼくの中に芽生えた。
だが、現実はそう甘くなかった。
意味の分からない単語、読み方すら怪しい文字たち。
ページをめくるたびに頭がくらくらしてくる。
そんな姿に見かねたのか、ライアンが辞書を持ってきてくれた。
『俺も、最初はこれを使って勉強したんだ。……分かんなきゃ、調べりゃいい』
尊敬すべき友人の言葉が、くじけそうになっていた心に小さな火を灯した。
辞書を片手に、再び本を開く。
一文字ずつ、意味を確かめながら、少しずつ読み進めていく。
――楽しかった。
そう思ったのは、生まれて初めてだった。
今までは、ただ流して見ていた文字たちが、意味を持つことでこんなにも世界を広げてくれるなんて。
一晩じゃ全く足りない。
難しい言葉に頭がはち切れそうにもなった。
目がしょぼつき、肩にも首にも鈍い痛み。こんな経験したこともなかった。
それでも、ページを捲る手は止まらなかった。
――気がつけば夜が明けていた。
手にしていた本も、そのままのページで止まったまま……
「……ごほん」
頭ぼんやりと霞んだ意識の奥に、聞き覚えのある声が落ちてきた。
優しくて、温かくて――少しだけ、背筋が伸びる声。
「ルーク様、起きてください」
「!?」
はっと顔を上げると、そこにはリネット様の姿があった。
「お、おはようございます……」
呂律の回らない声で挨拶する。
今は何時だろう? いつから寝ていたのか?
彼女が来る前に、掃除をしようと思ったのに。
何より――今、彼女の前でこんなだらしない姿を見せてしまったことが恥ずかしかった。
「ごめんなさい……」
とっさに謝罪の言葉がこぼれた。
「ルーク様?」
「は、はい……」
「確かに、私は言いましたわ。今日から“王子様レッスン”を始めると」
「はい……」
「それなのに――始める前から全力を出し切ってどうするんですか!」
珍しく語気を強める彼女に、ただ小さくうなだれた。
「本当に、ごめんなさい……」
せっかく頑張ろうとしたのに、彼女を困らせてしまった。その事実が悔しくて、情けない。
それと同時に胸が不安でいっぱいになった。
(愛想を尽かされたらどうしよう……)
込み上げる感情に、目の奥がじんわり熱を持つ。
「目の下……隈が出来ていますわ」
リネット様の柔らかな指先が、そっと目の下に触れた。
心配そうな瞳が、ぼくをじっと見つめる。
「ルーク様、今から私が言うことを復唱してください」
「は、はい!」
「私は、無理をしません」
「ぼくは……無理をしま、せん」
「私は、嫌だという気持ちを、きちんと伝えます」
「ぼくは、い……嫌だという、気持ち……を、きちんと伝えます」
「私は、必要以上に“ごめんなさい”とは言いません」
「ぼくは……って、え……!?」
あまりに意外な言葉に、戸惑って口を開く。
しかし彼女は、にこりと微笑んだまま、目で“続けて”と促した。
「ぼ、ぼくは……」
気がつけば、謝ってばかりの人生だった。
それも当然だ、ぼくが周りを苛立たせているんだから。
――謝ることが、自分を守る術だった。
怒られる前に謝る。責められる前に頭を下げる。そうすれば、少しだけ傷が浅くなる気がした。
「ルーク様は、何も悪くありません」
「……っ」
彼女には、ぼくの心を見透かす力があるのだろうか。
ぼくが欲しい言葉を、欲しいときにいつもくれる。
「ぼく……はっ、必要以上に、ごめんなさいとは……言いません」
満足げに、彼女が微笑む――
「そして、最後です。私は、私を大切にします」
「ぼくは……ぼくを、大切にします」
「はい、そうです。大切にしてください」
もう――泣かないと、決めたのに。
こらえていたはずの涙が、頬を伝ってこぼれた。
「……あらあら、泣き虫ですわね」
その言葉とともに、リネット様はそっとハンカチで涙を拭ってくれた。
「おーい、邪魔するぞ~」
間の抜けた声とともに、タイミング最悪なライアンが部屋へ入ってくる。
「おっ、もう泣かせてんのか?」
「もうってなんですか、“もう”って! まるで私が泣かせる予定があったような……!」
「だって、泣いてんじゃん。事実じゃん?」
「……泣かせちゃいましたけど……」
そんなやり取りが、なんだかおかしくて。
「……あははっ」
自分でも、こんなに大きな声で笑ったのはいつぶりだろう。
笑っている自分を見て、リネット様は照れくさそうに咳払いした。
「こほん。それでは、ルーク様も落ち着かれたことですし――レッスンのお話をしましょうか!」
そう言って、彼女が取り出したのは、表紙に大きく“王子育成計画”と書かれた、分厚い一冊のノートだった。




