10
「彼を傷つけて、平然としていられる貴方たちを――私は、決して許しません」
いつもは冷静な彼女が、声を震わせながら――怒りとも、悲しみともつかぬ激情を込めて言い放った。
その姿は、胸の奥を締めつけられるように、痛々しかった。
でも――俺は、何もできなかった。ただ、そこに立ち尽くすだけ。
「……リネット様って、あんなに感情的な方だったんですね」
誰かが、ぽつりと呟く。
それを皮切りに、令嬢たちの毒が次々と口をついて漏れ出す。
“ブサメン王子になんであそこまで?”
“きっとお金狙いよ”
“公爵令嬢だからって、何様かしら”
「空気が読めないのね」
ああ、誰か――誰でもいい、俺の耳を塞いでくれ。
聞きたくなんてない。こんな醜い言葉。
けれど、そんな願いも虚しく、毒のような言葉が、じわじわと心に染み込んでいく。
(……俺に、彼女たちを止める資格なんてない)
そう、俺は――ただ見ているだけだった。
リネットやルークと一緒にいることで、自分が変われた気になっていた。
過去の自分を赦されたような気分になって――でも、それはただの幻想だった。
(……俺は、他の奴らと違う)
そう思っていた。
俺はルークを無視したり、笑い者にしたりしない。
――そんな、くだらない自己満足で、勝手に許されたつもりでいた。
でも違う。
実際は、何一つしていなかった。
リネットのように、言葉を発することもできず、ただ傍観して、自分を守っていただけ。
――それが、何よりも卑怯だ。
「まぁまぁ、皆さまその辺にしましょう。せっかくライアン様がいらっしゃるんですし、私ライアン様のお話を聞きたいですわ!」
場を仕切るように口を開いたのは、意外にもオリビアだった。
甘く澄ました声は、演技じみていて、胸がざらつく。
(……気持ち悪い)
彼女は、さっきの発言をなんとも思っていない。
ルークに浴びせた言葉すら、忘れたような顔をして。
まるで、この場の中心にいるのが当然かのように振る舞っている。
「ライアン様……?」
「え……ああ、わりぃ。これから剣術の鍛錬があるんだ」
咄嗟についた嘘。
そんな予定なんてない。
だけど、この場にはもう居たく無かった。
「あら、残念……今度はゆっくりお話ししましょうね」
微笑みは完璧だった。けれどその瞳には、感情のひとかけらさえ感じられない。
(……吐きそうだ)
込み上げてくる胃の不快感を抑えて、俺は踵を返す。
早く、この空間から逃げたかった。
ここは息が詰まる。この空気そのものが、まとわりつくような不快さで満ちていた。
逃げ出したのに――それでも胸の奥は落ち着かない。
(……どこに行きたい?)
誰も責めない。誰も否定しない場所。
言葉があたたかく、心がほどけるような時間。
「……あいつらの、側にいたい」
気づけば、そう呟いていた。
ルークと、リネット。
あの二人と過ごす時間が、俺にとって唯一“まとも”でいられる場所だった。
(せめて……今だけでも、俺の意思で動きたい)
――後悔のないように。
そう思った、そのときだった。
「ライアン様」
背筋がピンと伸びる、よく通る声。
振り返るまでもなく、それが誰の声か分かった。
(……父の従者、レイモンド)
細身で神経質そうな男。父の側近の中でも、とくに口うるさいタイプだ。
「これ以上の関わりは、あの方の望みではありません」
「はっ……、俺にスパイまがいな事をさせといて、“もう関わるな”って?」
その問いに、彼は沈黙で応える。
つまり、肯定だ。
「これ以上、彼らに深入りすべきではないかと」
静かに数歩、俺の前に出て、道を塞ぐ。
目を細め、まるで子供を諭すような口調で告げた。
――だが、もう聞く気はなかった。
その言葉を無視して、ルークの自室へ向かう。
「後悔するのは貴方様ですよ」
後悔?
「そんなもん、とっくにしているよ……」
ルークの優しさに気が付いておきながら何もしなかった。
今もまだ、こうやって裏切るような立場にいる。
でも、もう決めたんだ――
「あいつらに、もう嘘はつきたくない」
例え軽蔑の目を向けられても。
俺は、俺の気持ちを否定しない。
それが例え、父の命を無視することになったとしても。
「父上に伝えといてくれ。ルークもリネットも、心配するような相手じゃないってな」
だけど、父が与えてくれたこの立場は感謝する。
この知識、技術、信頼を利用して――俺はルークを救ってみせる。
レイモンドの気配が背後で遠ざかっていくのを感じながら、俺は歩みを進めた。
***
(……あいつら、今、どう思ってるだろうか)
扉の前に立った瞬間、胸の奥がひどく騒いだ。
もし、拒絶されたら?
あの時、黙っていた俺を、責められたら?
……それでもいい。
もう、自分を偽るつもりはなかった。
ただ――ちゃんと、あいつらの顔が見たかった。
「……ルーク。リネット。いるか?」
控えめにノックする。
間を置いて、扉の向こうからリネットの声が返ってきた。
「ライアン様?」
「入っても、いいか」
しばしの沈黙のあと、カチャと扉が開く。
開いた扉の向こうには、少し涙の跡が残るリネットと、どこか晴れやかな顔をしたルーク。
しかし、二人とも不思議そうな顔を浮かべていた。
「どうしたの、ライアン……いつも勝手に入るのに……」
「え、いやぁ~……その……」
ちゃんと話そう。そう決めて来たはずなのに、いざふたりを前にすると、喉が詰まって言葉が出ない。
無意識に拳に力が入る。
その様子に気づいたのか、リネットが小さく眉を寄せて――
「ライアン様、ごめんなさい!」
なぜか謝ってきた。
「……は?」
「私、無我夢中で……あの場にライアン様を一人にしてしまい……」
その言葉にルークも顔を青くして、
「ご、ごめん。ライアン!」
なんで謝られてるんだ、俺が。
まるで、俺が傷ついた被害者みたいな扱いしやがって。
だけど――、
(こいつらは、こういう奴らだったな……)
人の痛みに気づき、寄り添える。
優しすぎて、ときに不器用なほどに。
――だから、俺はこのふたりが、好きなんだ。
「……っ、ははっ」
情けなくて、笑いがこみ上げた。
笑う姿を“怒っている”と勘違いしたふたりが、「やっぱり嫌だったよね」「あの後、何かありましたか?」と焦り始める。
その空気を止めるように、俺はゆっくりと口を開いた。
「実はさ……――」
自分のこと。
父の命令でふたりに近づいたこと。
ずっと黙っていたこと。
あの場で、何も言えなかったこと。
――すべてを話した。
(……やっぱり、嫌われるかな)
沈黙が落ちる。
重い、胸が痛くなるほどの沈黙。
その空気に耐えられず、頭を下げた。
「本当に、今までごめん……」
こんな薄っぺらい謝罪、受け入れてもらえるはずがない。
怒鳴られても、殴られても、構わない。
――泣かれるのは……ちょっと嫌だな。
「だけど……俺、お前らともっと一緒にいたいんだ」
人から否定されることが、こんなに怖いだなんて知らなかった。
恐怖からふたりの顔を見ることができず、顔を伏せ続けた。
「そんなの、当たり前じゃないですか」
優しい声が降ってきた。
驚いて顔を上げると、リネットがにこりと笑いながら、当然のように言った。
「ねぇ、ルーク様?」
「う、うん……ライアンは友達だし。今まで通り、好きなときに来てよ……」
「……は? え……?」
自分でも驚くほど情けない声が出て、顔が熱くなる。
しかし、当の本人たちの表情は、“なんでそんなことを改めて言うの?”と言いたげだった。
「だって俺、今まで酷いこと……」
「言いましたか?」
リネットが真っ直ぐに俺を見る。
「ライアン様は、ルーク様に酷い言葉を、ひとつでも言いましたか?」
その言葉にルークなんて何度も首を振る。
「まぁ、たしかにライアン様は見てみぬふりはしていましたけど……それは、ご状況的にも仕方ないでしょう」
「うん……ぼくも、父上には逆らえないよ……」
「それに、ライアン様はずっと、ルーク様に優しくしてくれていました。
あれが偽りだったとは、私――思えませんでしたから」
胸が熱くなった。
その言葉だけで、今までの迷いや後悔が少しずつほぐれていくようだった。
「むしろ、なぜルーク様が煙たがられているのか、その理由が分かって、ありがたいですわ!
今後の対策が練れますもの!」
“ふふふ……”と、悪役すぎるその笑い方にルークも苦笑する。
その笑いに、俺もつられて笑ってしまった。
「……っははは! 俺、やっぱりお前らが好きだ」
だからこそ、もう裏切らない。
「俺にも手伝わせてくれ。ルークを一人前の国王に――いや、どうせなら史上最強の国王にしてやるよ!」
「まぁ、頼もしいですこと!」
「……張り切りすぎて、空回りしないでね」
そんなふたりの言葉に、俺は満面の笑みを浮かべながら、ぐっと拳を握った。
***
「つまんないなぁ……もうバレちゃった」
誰もいない廊下。そのはずの空間に、子供のような声がひとつ、こだまする。
「はやく、“あの方”に伝えなきゃ」
そして、足音ひとつ響くこともなく、その気配は霧のように消えていった――




