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「リネット。お前の婚約者だ」
父のその一言が、完璧な人生に亀裂を入れた。
頭の奥がズキンと痛んだ次の瞬間、忘れていた“前世の記憶”が、頭の中を駆け走る。
そうだ、思い出した……――
(ここは、ゲームの世界だ)
私、リネット・テイラーは前世の記憶を持ち、この世に生まれ落ちた。
前世の私は、地味な顔立ちで、家事に仕事にと日々追われていた。
恋人もおらず、癒してくれるペットもいない。
そんな乾いた日々を唯一癒やしてくれる存在、それが乙女ゲームだった。
色とりどりのキャラ達に魅了され、時に笑い、時に泣き、時にトキメキをもらい――乙女ゲームは私の生きる活力だった。
ゲームの続きが気になり、睡眠時間が二時間なんてザラなこと。
――しかし、それが悪かったのだ。
寝不足のぼんやりとした頭で渡った信号は、青ではなく赤だった。
気がついた時には――赤、赤、赤。
視界いっぱいに真っ赤な世界。
……次に目を開けた時には、赤ん坊の姿だった。
しかも、以前ののっぺりとした顔とは正反対――輝いた深紅の髪。高く通った鼻筋に、ややつり目だがぱっちりとした翡翠色の瞳を持つ女の子。
赤子ながらに分かる、間違いなく美少女になるだろう――と。
その予想通り、リネットは国一番の美しい少女に育った。
それだけではない。宰相の肩書きを持つ父は作法にとても厳しく、幼い頃から立派な淑女になるように、良き妻を務められるようにと教育を受けてきた。
厳粛な父の期待に応えられるよう必死に過ごすうち、前世の記憶は徐々に薄れていった。
そんな過程を経て、リネットは齢十ニ歳という若さにして、美だけでなく、作法や知識を兼ね備えた才色兼備の令嬢へと成長した。
誰もがリネットに見惚れ、あこがれを抱く。
そんな彼ら彼女らを見て、リネット自身も自分が完璧だと疑わない。
父も同じよう感じているだろう――そう思っていたのに、父が笑顔で紹介してきたのは、手入れのされていない髪に、筋肉より脂肪が全面的に出たふくよかな体型。そして皮脂で肌を光らせた少年だった。
その醜いルックスを見た瞬間、頭を鈍器で殴られたような衝撃が走り――忘れかけていた前世の記憶が、一気に押し寄せてきた
(もしかして、彼は……)
「リネット、挨拶しなさい」
父が挨拶を促すということは、彼が私よりも上の立場である証拠だ。
公爵家の私よりも上位の存在。
――そして、この容貌の人物は一人しかいない。
「は、はじめてお目にかかります。私はリネット・テイラーと申します」
「……ルーク……ホワイト」
この名前、間違いない。
彼はアモネリア王国第一王子、ルーク・ホワイト。
そしてここは、前世で私がのめり込むようにハマっていた乙女ゲーム。
『オリビア・ストーリア』の世界だ。
――オリビア・ストーリア。
その内容は、よくある学園物語だ。しかし、現国王と王妃の暗殺により、物語が大きく変わる。
彼らの死後、政権は息子へ継承されるのだが、その王子と王子妃こそ“歴史上最低最悪の国王と王妃”になるのであった。
その二人の名前が、――ルーク・ホワイトとリネット・ホワイトである。
ルークは幼少期から、醜い容貌がゆえに、城の者から避けられ、国民からも嫌われていた。
無関心で、他人に冷淡な性格も相まって、彼は人との接し方を知らずに育つ。それは王位継承後も変わらず、彼は傍観者に徹した。
彼の代わりに国を動かす人物……それがリネットだった。
彼女は好き放題に金を使い、男を囲い、国を食いつぶした――悪名高き王妃。
そんな苛政に声を上げたのが、ゲームの主人公であるオリビアと攻略キャラクター達だった。
“聖女”の肩書きを持つ彼女によってルークとリネットは処刑され、アモネリア王国は再び平和と幸せを取り戻す。
守られるだけではない、自らの力で幸せを勝ち取ったオリビアの性格が好きで、本当に大好きなゲームだった……――
なのに、よりによって“悪役王妃”リネットに転生してしまったのだろうか。
必死に積み上げた努力の結晶が砕け落ちる音が聞こえる。
(処刑が確定している人生だなんて……)
鼻先がツンと痛む。それと同時に溜まりだした涙を、父にバレないよう慌てて拭った。
「せっかくだ、二人でゆっくり話すといい。私は国王陛下と少し話しがある。リネット、失礼のないようにするんだぞ」
「はい、お父様」
ルーク様に一礼し、父が部屋を出ると、それを追うようにメイドたちも部屋を後にした。
一国の王子様だというのに、普通ひとりはこの場に残るべきだろう。
外に見張りがいるとは思うが……さすが『嫌われ者の王子』と言うところだろう。
彼がその名で呼ばれる理由はいくつかある。
外見が醜く、引っ込み思案な性格。剣術も武術も出来ず。かと言って博識でもない。
そんな彼を見て、城の者は“醜い無能王子”と彼を見下す。
その態度が城から貴族へ、貴族から平民へ――まるで伝言ゲームのように、それもかなり悪質な形で伝わり、彼は『嫌われ者の王子』になってしまった。
「ルーク様、このまま立ち話もなんですから、どうぞおかけくださいませ」
「…………」
「ルーク様?」
私の問いかけに彼は無言で、ずっと下を向き視線も合わない。
困ったな……父が新しいドレスや靴を急に用意したのは、このためだったのか。
履きなれていない靴のせいで足がじんじんと熱を帯びる。今すぐ脱ぎたいし座りたいが、彼が座らないのに私だけ座るわけにもいかない。
かと言って、他人に無関心な彼が気を遣うなんて到底思えないし……
「……って……」
「え?」
「ぼ、ぼく
に……気にしな、いで……す、座っても……いい、よ……」
この場に誰もいなくて良かった。
物音や服の擦れる音、そんな些細な音でかき消されそうな程、彼の声はとても小さかったのだ。
そして彼のその言葉に、私は驚きを隠せなかった。
なぜならゲーム内での彼は、とても他人を気にかけるような性格ではなかったからだ。
(もしかして……まだ間に合うかもしれない)
私達が国王、王妃になるまで猶予がある。それにゲームでは気遣いもできなかった彼だが、今は違う。
人を思いやる大切さを伝え、まともな外見に整えれば――国中に認められる国王になれば、この悲惨な運命を回避できるかもしれない。
「ルーク様!」
もじもじと行き場の失っていた彼の手を取り、ぎゅっと握る。それと同時に、髪の毛で隠れている彼の瞳を見つめた。
「えっ! な、な……手っ」
「ルーク様……私、あなたを必ず“立派な国王”にしてみせますわ!」
その言葉に――初めて、彼が私を見てくれた。