第4話 歩む一歩、奇妙な魔法
生後10ヶ月。ノヴァはついに、自分の足で“最初の一歩”を踏み出します。
それは自由への一歩であり、探求への第一歩。そして偶然の中で、父の口から「魔法」という存在が明かされることに――
幼き主人公が世界の“ルール”に触れ始める、転換点の回です。
ノヴァがこの世界に生を受けてから、ついに十ヶ月目を迎えていた。彼の成長は目覚ましく、ハイハイはすでに達人の域に達していたが、ついにその小さな足が、新たな一歩を踏み出した。
ある日の午後、広間の畳の上で遊んでいたノヴァは、目の前の木製のおもちゃに手を伸ばした。
いつものようにハイハイで進もうとしたその時、ふと、もっと違う方法があるのではないかという衝動に駆られた。
膝を立て、ゆっくりと、そして慎重に立ち上がる。小さな手が床を離れ、不安定ながらも自力で体を支えた瞬間、ノヴァの視界は一段と高くなった。床の木目が、埃の舞う光の筋が、普段よりもはっきりと見える。
「おお! ノヴァ、立ったぞ!」
父親の驚きと喜びが混じった声が響く。まるで息子がノーベル賞でも受賞したかのような大袈裟な喜びようだ。母親も目を見開き、嬉しそうに手を差し伸べた。
「ノヴァ、こっちよ、おいで!」
母親の優しい声に誘われるように、ノヴァは1歩また1歩と足を進めた。よちよちとたどたどしいながらも自分の意思で床を蹴り、前に進む感覚はハイハイとは全く異なる解放感だった。
何歩か進むとぐらりと体が傾ぎよろめいたものの、母親の腕の中に飛び込むことができた。その瞬間、彼の胸には、これまでのどんな達成感よりも大きな喜びが満ち溢れた。
(ついに、歩けるようになった! この一歩は自由への偉大なる一歩だ!!ハイハイとは比べ物にならない……! ああ、これで、もっと「合法的に」情報収集ができる!)
よちよちとではあるが、自分の足で歩くことができるようになったことで、ノヴァの行動範囲は格段に広がった。
これまで手の届かなかった棚の上、視界に入らなかった高い場所。彼の世界は、文字通り「上」へと拓かれたのだ。
そして、身体能力の向上と時を同じくして、彼の言語能力も飛躍的な進歩を遂げていた。これまで脳内で理解していた言葉を、ついに自分の口で発することができるようになったのだ。
「か……か……」
ノヴァが初めて発した音は、母親の「おかあさん」という言葉の、最初の音だった。母親は感動に打ち震え、彼を強く抱きしめた。
感動のあまり、彼女の目からは大粒の涙がこぼれ落ち、
「私のノヴァが! 私のノヴァが!」
と、まるで映画のヒロインのように咽び泣いた。
「そうよ、かあさんよ、ノヴァ……!」
「と……と……」
次に発したのは、父親に向けた「とうさん」の響き。たどたどしい発音ではあったが、それでも両親はまるで奇跡でも起こったかのように喜び、彼の頭を何度も撫でた。
父親に至っては「これで俺も一人前の親だな!」と、なぜか自分の手柄のように胸を張っていた。
(ようやく、意思疎通ができるようになった……!)
この言語の覚醒は、ノヴァにとって何よりも大きな武器となった。これまでは、身振り手振りや泣き声でしか表現できなかった欲求や好奇心を、言葉にして伝えることができるようになったのだ。
「み、みず……」
喉が渇いた時、彼は初めてそう口にした。両親は驚きながらも、すぐに彼の言葉を理解し、コップに入った水を差し出した。この小さなやり取り1つ1つが、ノヴァの世界をさらに広げていく。
言葉を話せるようになったことで、ノヴァの魔法への探求心はますます強まった。以前目撃した、旅人の光る石。
あれらは本当に魔法なのか? その謎を解明するため、彼は両親への「尋問」を開始した。ただし赤ん坊としての「尋問」なので、それは微笑ましい光景にしかならない。
ある日の昼下がり、母親が彼に絵本を読み聞かせている時だった。
「かあさん、あのね、ひ、ひかり……ぴかっ、って」
ノヴァは拙い言葉で、旅人が石を光らせた時のことを懸命に伝えようとした。母親は首を傾げる。
「あら、ノヴァ坊、何の話かしら? ぴかっ、って?」
思うように伝わらないことに、ノヴァは軽く歯がゆさを感じた。
(もどかしい! この頭脳を、この語彙力で表現しきれないもどかしさ!)
と心の中で叫んだ。そう思案していると、父親が広間から戻ってきた。
「父さん!」
ノヴァは満面の笑みで父親を呼んだ。父親は嬉しそうに彼を抱き上げた。
「ん? なんだ、ノヴァ。何か欲しいものがあるのか?」
この機を逃すまいと、ノヴァは棚に飾ってある石を示して「ひ、ひかり……ぴかっ、っ」と意思を伝えようとする。父親は目を丸くし、石を見つめて考え込むとやがて顔に笑みを浮かべた。
「ああ、もしかして、あれのことか?」
父はノヴァを抱いたまま、空いている片手を前に差し出した。そして、目を閉じ、何かを集中するように深く息を吸い込んだ。
「ルーメン !」
父親がそう唱えると、彼の指先から何かが発せられる気配を感じ、石が以前見たのと同じ光を発し始める。それは棚の上で光を照らす。ノヴァは目を輝かせた。
(間違いない! これは魔法だ! そして、呪文がある! しかも、その呪文は「ルーメン」! なるほど、ラテン語風の単語が使われているのか。これは面白い!)
光は3分くらいで消えたが、ノヴァの心には確かな手応えが残った。父親は魔法が使える。そして、特定の呪文を唱えることで発動する。
「お、おれも! おれも!」
ノヴァは興奮して、小さな手を伸ばし、父親に何かを訴えかけた。父親は彼が魔法に興味を示していると理解したようで、優しく頭を撫でた。
「お前もか? フフ、ノヴァも大きくなて、呪文とイメージをつかめばきっと使えるようになるさ。だが、魔法は危ないからな。魔力が安定するのは8歳ごろからだとされてる。
無理に早く使わせると暴走する恐れがあるって、教会が言っててな 、8歳を過ぎたら、師についてちゃんと習うんだぞ」
(8歳……やはり、子供には難しいのか。だが、俺には前世の知識がある。科学、物理、効率化……これらを応用すれば、この世界の魔法に革命を起こせるかもしれない! いや、少なくとも、子供の常識を覆せるはずだ!)
父親の言葉は、この世界の魔法の常識をノヴァに教えてくれた。そして、彼の探求心に火をつけた。夜、両親が寝静まった後、ノヴァは一人、静かに思考を巡らせた。
(「ルーメン」は光……呪文に効果がある。そして、魔法は「イメージ」で発動すると言っていた。つまり、詠唱とイメージの組み合わせが鍵になるのか。よし、まずは一番単純なところから試してみよう!)
彼は自分の小さな手を伸ばし、目を閉じて、意識を集中させた。身体の奥底に感じる漠然としたエネルギー、これを魔力と仮定し、それを指先へと集めるイメージ。そして、小さな声で、父親が唱えた呪文を真似てみた。
「……ルーメン……」
何も起こらなかった。ノヴァはため息をつく。
(やはり、そう簡単にはいかないか。イメージが足りないのか、魔力の量が足りないのか……あるいは、発声の仕方に問題があるのか? いや、待てよ。旅人が光らせた石は持続時間が長かった。父さんのルーメンは3分。俺は……まだ何も出せていない。イメージの精度、魔力、そして呪文の正確さ。この3つが揃ってこそ、本格的な魔法が使えるのだろう。)
彼は諦めなかった。数日後、ノヴァは両親が見守る中、再び魔法の練習を始めた。彼の視線は広間にある窓から差し込む夕日の光に釘付けになっていた。
空に広がる茜色のグラデーション、きらめく光の粒子。それら全てを脳裏に焼き付け、まるでカメラで撮影するかのように詳細なイメージを構築していく。
「か……かあさん、あれ、あれ……」
ノヴァは窓の外を指差し、身振り手振りで光の魔法を試したいと訴えた。母親は困ったように眉を下げたが、父親は面白そうにノヴァの真似をして手を前に出した。
「もしかして、ルーメンをやりたいのか? よし、お父さんと一緒にやってみようか。こうやって、手を前に出して、集中して……ルーメン!」
父親の指先からは、この間と同じ小さな光の玉が生まれた。ノヴァは食い入るようにそれを見つめ、脳裏にそのイメージを焼き付けた。
(よし、今だ! イメージは完璧だ! 次は、俺の番!)
ノヴァは両親の目の前で、小さな手を前に突き出した。そして、全神経を指先に集中させ、これまでの人生で最も真剣な表情で、呪文を唱えた。
「ルーメン!」
その瞬間、ノヴァの指先から、米粒ほどの淡い光が、ぴちっと弾けるように生まれ、プシュッと音を立てて消えた。まるで火打石の一瞬の火花のようだった
両親は一瞬呆然としたが、やがて父親が腹を抱えて笑い出した。
「わははは! ノヴァ、お前、豆粒よりも小さい光を出しとるぞ! しかも、一瞬で消えるとは! あははは!」
母親も笑いをこらえきれない様子で、ノヴァの頭を優しく撫でた。
「もう、ノヴァったら。きっと、イメージはできたけど、まだ魔力が足りなかったのね」
ノヴァは顔を赤らめた。
(クソッ! こんどは豆粒か! しかし、これは進歩だ! 今回はちゃんと「ルーメン」と唱えて「光」が出た! 前回は何も出なかった。つまり、呪文と属性は合致している! 問題は威力か、イメージの細部、あるいは魔力の量か……! いや、何が足りないのか、もっと明確に分析する必要がある!)
彼の実験は盛大な失敗に終わったが、ノヴァの探求心は一切衰えなかった。むしろ、この失敗が、彼に新たな課題と、乗り越えるべき壁を示してくれた。
前世の科学知識と、この世界の魔法の法則。これらを融合させれば、きっと前人未踏の領域に達することができるはずだ。
よちよち歩きと、言葉の発声。ノヴァはこれらを武器に、宿の隅々まで探索を始めた。帳場の引き出しの中を覗き込んだり、厨房の調理台に這い上がろうとしたり。
従業員たちはそんな彼を微笑ましく見守り、時に危険な場所から優しく連れ戻した。ガンドルフは彼のために、特別に柔らかく煮込んだ野菜を与え、エルダは彼にこの世界の絵本を読み聞かせてくれた。
(文字……! これを読めるようになれば、もっと情報が手に入る!)
絵本に書かれた文字は、まだノヴァには読めなかったが、その存在は彼に新たな目標を与えた。両親や従業員たちとの会話も、より具体的になった。
彼らの口から語られるこの世界の習慣、地域の祭り、遠い街の噂話。それら全てが、ノヴァの世界観を形作っていく。彼は特に、宿を訪れる行商や旅人たちの話に耳を傾けた。
遠くの街の特産品、珍しい魔物の目撃情報、そして伝説の英雄たちの物語。それらはノヴァの知識欲を刺激し、いつかこの目で見てみたいという願望を駆り立てた。
赤ん坊にとっての「初めての一歩」は、人生を変えるほどの大きな一歩。
ノヴァにとってもそれは例外ではなく、行動範囲の拡大とともに、言語・魔法・知識の取得という探究心の地平が一気に広がる回となりました。
特に今回注目すべきは、魔法の発動条件と、呪文「ルーメン」の存在です。小さな“豆粒の光”に込めたノヴァの熱意と、その失敗からの分析力――これはまさに、前世の知性と子供の柔軟性の融合ですね。
次回は、さらに彼の魔法研究が深まる予感。引き続き、見守っていただければ嬉しいです!