第36話 都市の光、秘匿の技術
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休息の合間に始まった“ちょっとした発想”が、領都の未来を揺るがす大計画へ――。ノヴァは付与魔法の研究に加え、生活を根本から変える上下水道の整備に挑みます。しかし、その道のりは技術だけでなく、予想外の方向からの熱い圧力(?)も満ちていました。
ノヴァは、自室で辺境伯領の地図を広げていた。付与魔法の研究は着実に進んでいるが、彼にはもう1つ、どうしても実現したい夢があった。
それは、領民の生活を根本から変える、上下水道の整備だ。前世の記憶にある清潔で快適な環境を、この世界にもたらしたい。特に、彼の頭の中には、誰もが心置きなく使える「ウォシュレット」のイメージが明確に描かれていた。
しかし、その実現は容易ではない。膨大な費用と、何よりも高度な土木技術が必要となる。
「うーむ、どうしたら……。」
ノヴァが唸っていると、コンコンと扉がノックされた。入ってきたのは、ギュンター卿だ。
「ノヴァ、何か考え込んでいるようだな。」
「ギュンター卿。実は領都の上下水について考えていたんです。僕の知る限り、王都でも最新の技術でないと難しいと聞きました。何か良い方法はありますでしょうか?」
ノヴァの言葉に、ギュンター卿はわずかに眉を上げた。わずか十歳の子供が、領都のインフラにまで目を向けていることに感心したのだ。
「なるほど、上下水か。確かに容易なことではない。現存の技術では王都でさえ、ごく一部にしか導入されていないのが現状だ。だがお前に1つ、紹介したい人物がいる。筆頭執政官のユリウス殿だ。彼はこの領における土木技術の第一人者でもある。」
ギュンター卿の提案に、ノヴァの顔に希望の光が差した。
「ありがとうございます、ギュンター卿! 早速、お話しに伺いたいです!」
翌日、ノヴァはギュンター卿に連れられ、筆頭執政官ユリウスの執務室を訪れた。ユリウスは、痩身で眼鏡をかけた、いかにも学者肌の男だった。
「初めまして、ノヴァ殿。ギュンター卿からお話は伺っております。あなたがあのうわさの神童ですな。」
ユリウスは、ノヴァを見るなり、鋭い眼差しで観察するように言った。ノヴァは軽く会釈する。
「神童などではないですよ。出来ることを周りの人の助けをもらいながら何とかやった結果です。本日は、上下水についてお伺いしたく参りました。」
ノヴァが単刀直入に用件を切り出すと、ユリウスはわずかに驚いた表情を見せた。
(謙遜か?それよりも上下水だと。10歳の子供が……。)
「ほう、上下水ですか。それは大変に高度な技術を要します。現存する技術は、王都ですらごく一部に導入されているに過ぎません。そのことをあなたがご存知とは……。」
ユリウスの言葉に、ノヴァは内心で冷や汗をかいた。うっかり前世の知識を匂わせすぎたか、と。
「ええと……はい。町でのうわさや辺境伯の図書館にも少し触れた書籍があったものですから……。」
ノヴァはしどろもどろになりながらとっさに話をごまかす。ユリウスは、怪訝な表情をしながらもそれ以上は追求しなかった。
「なるほど、しかし残念ながら現状では大規模な上下水道の整備は財政的にも、技術的にも困難と言わざるを得ません。特に高度な濾過技術や排水処理技術が課題となります。」
ユリウスの言葉にノヴァはめげずに切り込んだ。
「いえ、濾過については、複数の砂層と炭層を組み合わせることで、かなり改善できます。排水処理も汚泥の分離と自然分解を促す方法があります。特に排水管は素材を現在研究中の『付与魔法』を使用して改良すればより耐久性が増しますし、傾斜を工夫すれば水の流れを最大限に利用できます。」
ノヴァは前世の知識を総動員し、知り得る限りの上下水処理の原理と、資材改良のアイデアを熱弁した。ユリウスはノヴァの言葉を聞くにつれて、徐々にその眼鏡の奥の瞳を大きく見開いていく。
「な……なるほど! 砂層と炭層の組み合わせ……! 汚泥の自然分解……! 排水管の素材を新たな技術で改良して傾斜の工夫とは……! 『付与魔法』?よくわからないが確かに、言われてみれば、理論上は可能かもしれん……!」
ユリウスは興奮して立ち上がると、執務室の中を右往左往し始めた。彼の頭の中では、ノヴァの提示したアイデアが、これまでの常識を覆すパズルのピースのようにカチリとはまり込んでいる。
「これは時間がかかることは承知の上ですが……実現不可能ではない! いや、むしろこの方法であれば、これまで夢物語だった大規模な上下水道網の構築も視野に入ってくるぞ!」
ユリウスは再びノヴァの前に戻ると、その手をがっしりと握りしめた。
「ノヴァ殿! あなたはまさにこの領の、いや、この国の未来を担う逸材だ! ぜひこの上下水整備計画にあなたの才をお貸しいただきたい!」
ユリウスは興奮のあまり、まるで懇願するようにノヴァに詰め寄った。その様子は普段の冷静沈着な筆頭執政官からは想像もつかないものだった。
「そして近いうちに辺境伯様へこの件を報告する場を設ける。その際、ノヴァ殿も同席していただきたい。あなたの口から直接、この計画の意義を説明していただきたいのだ!」
ノヴァはユリウスの熱意に押されつつも、内心ではほくそ笑んでいた。これで、研究の口実もできたし、王都の学園選びの貴重な経験にもなるだろう。
数日後、辺境伯への報告会が開かれた。ノヴァはユリウスと共に執務室には辺境伯とライナス公子その隣に座るアメリア夫人の姿があった。
「辺境伯様、このユリウスご相談があり面会をお願いいたしました。本日はノヴァ殿を専門家として参加してもらいます。」
ノヴァが挨拶すると、アメリア夫人が目を細めてノヴァをじっと見つめてきた。
「あら、ノヴァ殿。先日はライナスが大変お世話になりましたわ。」
穏やかな笑みを浮かべているが、どこか鋭い視線を感じる。ノヴァは少し緊張しながらも、紳士的に返した。
「いえ、こちらこそライナス様にはいつも気にしていただき、大変感謝いたしております。」
ユリウスは、辺境伯に上下水整備計画の概要を説明した。ノヴァが提案した『付与魔法』を使用した耐久性の高い管の製造法や、濾過・分解のシステムについて熱弁をふるった。辺境伯はユリウスの説明に真剣に耳を傾け時折質問を挟んだ。
「なるほど……ノヴァの発想がなければ、これほど大規模な計画は絵空事だった。『付与魔法』については初めて聞く技術だが面白い!ユリウス、この計画は領民の生活を根本から変えるものだ。ぜひ研究開発を進めるよう。」
辺境伯の言葉に、ユリウスは深々と頭を下げた。ノヴァも安堵の息を漏らす。これでしばらくは堂々と研究に打ち込める。
「ありがとうございます、辺境伯様! 精一杯、尽力させていただきます!」
ノヴァが退室しようとすると、それまで静かに聞いていたアメリア夫人が、突如として身を乗り出した。
「待ちなさい、ノヴァ殿!」
その剣幕にノヴァは思わず足を止めた。ユリウスも辺境伯も、何事かと驚いた顔で夫人を見る。
「ノヴァ殿、お聞きしておりますわよ。あなたが母上様と妹のエリスのために、それは素晴らしい『製品』を開発したと!」
アメリア夫人の目が、獲物を狙う猛禽のようにギラリと光る。
「せ、製品、ですか……?」
ノヴァはギクッとした。まさか、石鹸やシャンプーリンス、基礎化粧品の噂がここまで届いているとは。どこから話が出てしまったのだろうか?
「ええ! あなたが作られたという、あの髪をツヤツヤにするという『液』と、肌を滑らかにする『水』! そして、全身を清潔にする華やかな香りのする『固形物』! その様な物は王都の貴族や王族でさえお目にかかったことはない羨望の品ですのよ!」
アメリア夫人は、身振り手振りを交えながら、その「製品」の重要性と必要性を熱く語り始めた。
「あなた! お聞きくださいませ! この肌が荒れやすい冬の時期、王都の貴婦人たちは皆、乾燥に悩まされております! それが、ノヴァ様が作られたというその『基礎化粧水』を塗れば、しっとりと潤い、まるで赤子の肌のようになるとか! そしてあの『シャンプー』と『リンス』を使えば、どれほど髪が傷んでいても天使の輪が輝くと申しますわ! これはもう一国の婦人として領民の、いやこの国の女性たちの美と健康を守るために、絶対に必要なのです!!!」
アメリア夫人の言葉は、ほとんど絶叫に近いものだった。辺境伯は、妻の剣幕にドン引きしたような顔で、顔面蒼白になっている。
「あ、アメリア……落ち着け。ノヴァは研究で忙しいのだぞ……。」
辺境伯がたしなめるも、夫人は聞く耳を持たない。
「お黙りくださいな。あなた! あなたのような男に、女性の悩みが分かるとでもおっしゃるのですか!? これは美容という、いえ、衛生という、いえ、もはや国家の威信に関わる問題なのですわ!」
常軌を逸した母の行動に堪らずライナスが母親を諭そうと口を開く。
「母上、ここは今そのような話ではなく治世の話をしています。製品の話なら後で御用商人にでも……。」
「あなたは黙っていなさい!!」
アメリア夫人の一喝が執務室に響き渡った。ライナスはまるで叱られた子供のようにピタリと黙り込んでしまった。辺境伯も筆頭執政官ユリウスもその光景にただ黙って首をすくめている。
アメリア夫人は、再びノヴァに向き直ると、懇願するような、しかし有無を言わせないような表情で言った。
「ノヴァ殿! どうか、どうか、その素晴らしい製品を、少しだけでも私にお譲りいただけませんか!? お願いいたしますわ!」
ノヴァはアメリア夫人の熱意にただただ圧倒されるばかりだった。辺境伯はドン引きしながらも、妻の言うことを聞くしかなくノヴァに助けを求めるような目で頷いた。
「ノヴァ……済まないが、少しだけ、分けてやってもらえないか……。妻の頼みは、断るのが難しいのでな……。」
ノヴァは困惑しつつも目の前の女性たちの情熱と、それがもたらすであろう影響の大きさを理解した。彼は小さくため息をつき頷いた。
「……分かりました。少量ですが今試作品を持っています、取り急ぎそれをお渡しいたします。」
ノヴァの言葉にアメリア夫人の顔に満面の笑みが広がった。その笑顔はまるで春の陽光のようだった。
アメリア夫人はノヴァから「製品」を受け取ると、小躍りせんばかりの勢いで執務室を後にした。残された辺境伯とライナス公子は、呆然とした顔でその背中を見送った後深々とため息をついた。
「……いやはや、ノヴァ殿。ご苦労だったな。しかし妻があそこまで熱心になるとは……。まあそれだけお前の作るものが素晴らしいということなのだろう。今後ともぜひその才をこの領のために貸してほしい。」
辺境伯の言葉には先ほどの困惑とは裏腹に、ノヴァに対する深い信頼と期待が込められていた。ユリウスも再び冷静な表情に戻りノヴァに頭を下げた。
「ノヴァ殿。この上下水計画の実現には、あなたの力が不可欠です。私も全力で支援いたしますので、どうか引き続きご協力をお願いいたします。」
ノヴァは、二人の期待に応えるべく、深く頷いた。
「はい! 領民の皆様のために、精一杯尽力させていただきます!」
こうしてノヴァの生活は、付与魔法の研究に加え、上下水という新たな大規模プロジェクトの研究と開発に本格的に参加することとなった。領都の未来そしてこの世界の生活水準を向上させるという壮大な夢の実現に向けて、ノヴァの挑戦は続いていく。
上下水道という壮大な夢が動き出した一方で、別の“製品”が貴婦人たちを熱狂させる波紋を広げます。ノヴァの知識と行動が、領都の暮らしだけでなく貴族社会までも変えていく――次回もその余波から目が離せません。
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