第35話 神童の息抜き、美の開花
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研究に没頭するノヴァに、ちょっとした“休暇”が訪れます。
しかし彼は社畜時代の本能がたたって、休むだけでは終わらず――日常の中から、とんでもないものをこの世界に放ってしまうようです。
ノヴァは、領都ヴェイルのバルドの工房で、付与魔法の研究に没頭していた。膨大な魔力と集中力を要するその作業は、彼の天才的な頭脳をもってしても、容易ではなかった。日を追うごとに、何が付与できて何ができないのか、その限界が少しずつ見えてきた。根詰めて研究を進めるうち、彼は知らず知らずのうちに疲労を蓄積させていた。
「ノヴァ坊主、いくらなんでもやりすぎだぞ。顔色が青いじゃねえか。」
バルドが心配そうに声をかける。ノヴァは腕を伸ばし、凝り固まった首を回した。
「うーん、確かに、少しばかり目が霞むような……。あと一歩で、この効果が安定するはずなんですが。」
ノヴァは未だ諦めきれない様子で、試作中の金属片を手に取った。しかし、その手は微かに震えている。
「あと一歩も二歩もねえよ! お前さんは魔物じゃねえんだ! いいか、来週一週間は、きっちり休むんだ! このバルドさんが命令してやる!」
バルドは、親鳥が雛を巣から突き出すように、有無を言わさぬ口調でノヴァを工房から追い出した。ノヴァは渋々といった表情で、工房を後にした。
「はぁ……一週間か。何をして過ごせばいいんだ、全く……。」
前世で猛烈社員として仕事に明け暮れていたノヴァにとって、手持無沙汰は苦痛以外の何物でもなかった。休息という概念自体が、彼にはどこか縁遠いものに感じられた。屋敷に戻ったノヴァは、所在なく邸内をぶらついていた。普段は訓練や工房にこもりがちで、屋敷の隅々まで見て回る機会などなかった。まずは愛らしい妹のエリスの部屋を訪ねる。
「エリス、遊ぼうか!」
「お兄ちゃ! 来てれた!?」
エリスは満面の笑みでノヴァに飛びつき、二人はひとしきり、積み木遊びや鬼ごっこに興じた。エリスの無邪気な笑顔に、ノヴァの張り詰めていた心が少しずつほぐれていく。エリスとの至福の時間が終わり、再び屋敷をさまよっていると、奥の広間で母親のエレノアと数人のメイドたちが深刻そうな顔で話している声が聞こえてきた。
「はぁ……本当に困ったわね。最近、どうにも髪の毛がまとまらなくて……。軋むし、乾燥してパサついてしまうのよ。」
エレノアがため息交じりに言うと、メイドたちも頷く。
「ええ、奥様。私も同じですわ。お湯と石鹸だけでは、どうにもならない時がありますわね。」
「そうそう! 洗っても洗っても、なんだかスッキリしないし、匂いもねぇ……」
メイドの一人が、手にした石鹸を顔から遠ざけながら、眉をひそめた。
ノヴァはその会話を聞いて、ふと気づいた。この世界に転生して以来、彼が目にした「石鹸」は、どれも質素で、香りもあまり良くないものばかりだった。そして前世では当たり前のように使っていた「石鹸」、「シャンプー」や「リンス」というもの自体を、この世界で一度も見たことがないことに、今更ながら気が付いたのだ。
(そうか……この世界には、まだシャンプーやリンスといった概念がないのか!)
ノヴァの脳裏に、遠い前世の記憶が蘇った。それは彼が営業として働いていた頃、化粧品メーカーを担当していた時のことだ。当時の部下で化粧品に異常なほど詳しい女性がいた。彼女は雑談の中や、飲み会の席で酔った時に、石鹸やシャンプー、リンス、果ては基礎化粧品の作り方についてそれはもう詳しく(いや、しつこく)熱弁していたのを思い出したのだ。
(あの時は、適当に相槌を打っていただけだったけど……まさか、こんな形で役に立つとはな!)
ノヴァの目に、新たな閃きが宿った。手持無沙汰を持て余していたノヴァにとって、これはまさに渡りに船だった。母親のエレノアや、これから必要になるであろう妹のエリスのために、前世の知識を活かした美容製品を作ってみよう。彼は早速、屋敷の離れにある、以前薬草の調合に使われていた小部屋に籠もった。
材料は屋敷の薬草園で手に入るものや、市で買える植物油、灰、アルコールなど。前世の部下の「しつこい」解説が、まるで目の前で再現されているかのように鮮明に蘇る。
「まずは、油と灰を混ぜて鹸化反応を起こすんだっけな……。アルカリ度を調整して、刺激を少なくするために、蜂蜜なんかも入れると良いって言ってたな……。」
ノヴァがブツブツと呟きながら作業を進めていると、その話を聞きつけたメイドたちが、興味津々で小部屋を覗き込んだ。
「ノヴァ坊ちゃま、何をなさっているんですか?」
「髪を美しくする魔法の薬を作ろうと思いまして……。」
ノヴァが説明すると、メイドたちの目が輝いた。
「まぁ! 私たちにもお手伝いできることはございますか!?」
「ええ、ぜひ! この液体をゆっくり混ぜていただけますか? 焦げ付かないように、火加減もお願いします!」
こうしてノヴァの指揮のもと、メイドたちとの共同作業が始まった。部屋の中には植物油を煮詰める甘い匂いや、ハーブを煎じる香りが漂う。メイドたちはノヴァが指示する奇妙な配合や手順に首を傾げながらも、熱心に手伝ってくれた。
「坊ちゃま、これは本当に効くんですか? こんなの見たことも、聞いたこともないのですけど……。」
「ふふふ、見ていてください。これはこの世界の常識を覆すほどの代物になりますよ!」
ノヴァは自信満々に微笑んだ。石鹸の型抜きでは、メイドたちが花の形や星の形にしようと、きゃあきゃあと楽しげに盛り上がる。シャンプーやリンス、基礎化粧品も、試行錯誤の末、ようやくそれらしいものが形になってきた。
一週間後、ついに完成した製品を前にエレノアとメイドたちが集まった。エリスはまだ幼いため、使用は控えることになったが彼女も興味津々で目を輝かせている。
「本当に、これで髪が綺麗になるのかしら……?」
半信半疑のエレノアが、ノヴァが作ったシャンプーを手に取った。泡立ちが良く、洗い流した後の髪は、軋むことなく指通りが滑らかだ。次にリンスを使うと、驚くほど髪がしっとりとして、艶を帯びる。最後に基礎化粧品を塗ると、乾燥しがちだった肌が潤い、柔らかな感触になった。
「まぁ……! なんてことでしょう! この髪の毛、まるで絹のよう!」
エレノアは、自分の髪を撫でながら、目を大きく見開いた。メイドたちも次々に試していき、そのたびに歓声が上がる。
「奥様、見てください! 私の髪もこんなにツヤツヤになりましたわ!」
「本当に! 肌もすべすべで、匂いも素晴らしいですわ!」
女性陣は皆、興奮を隠せない。その使用感は、全員一致で「最上」のものだった。ノヴァは、その反応を見て、ようやく安堵の息を漏らした。しかしその安堵は束の間で終わる。
「ノヴァ様! こんな素晴らしいものを、なぜ今まで作ってくださらなかったのですか!?」
「そうですわ! これがあれば、私たちの美しさが、何倍にも引き立つというのに!」
「坊ちゃま、これはもう、もっともっとたくさん作っていただかないと困りますわ!」
女性陣は、ノヴァを取り囲み、狂気じみた情熱で「もっと作れ」と圧をかけてきた。その勢いは普段の穏やかな彼女たちからは想像もつかないほどだった。
その様子を見ていた執事のレオナルドと、偶然通りかかったギュンター卿は、あまりの剣幕に顔を引きつらせた。
「レ、レオナルド……あれは、一体……?」
ギュンター卿が震える声で尋ねる。レオナルドは、冷静な顔を保とうとしながらも、その額には冷や汗が滲んでいた。
「恐らく、ノヴァ坊ちゃまが開発されたという、例の『美容製品』の力かと……。女性の美に対する情熱は、時として理性を凌駕するようですな……。」
レオナルドは遠い目をして呟いた。ギュンター卿は、ドン引きしながらも、どこか妙に納得したような顔で頷く。
「ま、まさか、女性陣をここまで熱狂させるとは……。これは付与魔法どころではない、新たな波乱の予感がするぞ……。」
ノヴァは女性陣のただならぬ情熱に、この先一波乱ありそうな予感をひしひしと感じていた。彼が作ったのは、単なる日用品ではなかったのだ。それはこの世界の女性たちの「美」への渇望を刺激し、新たな時代を拓く、まさに「革命」の製品だった。
女性陣の熱狂は、その日屋敷中に響き渡った。エレノアは、ノヴァの作った製品を肌身離さず持ち歩き、その効果をこの領都で縁を深めた友人たちに、熱く語り聞かせた。またメイドたちも知人や市場でよく話す人間、職場に商品をおさめに来る商人などに自慢げに話し、瞬く間にノヴァの「美容製品」の噂は、領都中に広まっていく。
ギュンター卿は、義理の娘のあまりの熱狂ぶりに呆れながらも、ノヴァが開発した製品の品質とそれに伴う、経済的な可能性に気づき始めていた。一方ノヴァはこの予期せぬ展開に、困惑しつつもどこか面白さを感じていた。
「まさか付与魔法の研究の合間に作ったものが、こんな騒動になるとは……。」
ノヴァはため息をつきながらも、その手には、次の製品開発のための新たな構想が練られ始めていた。
ノヴァの小部屋には美容製品のレシピを記した新たなノートが加わった。彼の「科学知識」は、この世界の「魔法」と融合し、人々の生活にこれまで想像もできなかった変化をもたらし始めている。
付与魔法、美容製品。ノヴァの持つ異質な力は、彼の周囲にそして辺境伯領に、確実に新たな光を灯し始めていた。彼の挑戦はまだ始まったばかりだ。
今回は剣や魔法とはひと味違う“革命”が描かれました。
ノヴァの発想力は休息中でも止まらず、身近な悩みから新たな時代の波が生まれようとしています。
次回、彼の行動がどんな波紋を広げるのか……どうぞお楽しみに!
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