第2話 見えざる力、聞こえる世界
赤ん坊として生まれ変わったノヴァが、この世界の音・言葉・空気に少しずつ順応していきます。
まだ歩けず話せないながらも、観察と思考を積み重ね、彼は世界を理解しようと必死にもがいています。
「宿」という環境と、そこに関わる人々の姿を、赤ん坊の視点から描きます。
ノヴァがこの世界に生を受けてから、およそ5ヶ月が過ぎた。身体は日ごとに成長し、首も完全に据わった。視界は鮮明になり、ぼやけていた周囲の景色が、はっきりとした色彩と形をもって目に飛び込んでくる。
木製の梁が巡らされた天井、温かい土壁、そして揺れるランプの炎。差し込む陽光が、土間に置かれた古い木箱の埃をきらきらと輝かせている。それらすべてが、彼が確かに異世界に存在している証だった。
この期間、ノヴァは驚異的な速度でこの世界の言葉を吸収し続けた。前世の知識と、生後間もない頃から耳に響く音の連なりに意識的に耳を傾け続けた甲斐あって、今では大半の会話の内容をほぼ理解できるまでになっていた。
両親の会話からこの世界の常識や文化、自分がどんな場所に暮らしているのか、少しずつ掴んでいった。
(なるほど……これが、この世界の音、か。)
特に興味を引かれたのは、耳に届く様々な音の連なりだった。生活に密着した「食事」「水」「休む(ヤスム)」といった単語は、特定の状況と結びつくことで自然と脳にインプットされていく。
それ以外の、まだ意味をなさない言葉の羅列も、心地よいBGMのように耳に馴染んでいった。自分の成長速度に驚きつつも、ノヴァは喜びを感じていた。
ハイハイはまだできないが、手足をバタつかせて意思表示をするようになった。特に、親が話しかけてくれると、その声の調子や表情から感情を読み取り、小さな手足を動かして反応を示した。
「お!ノヴァはわかっている様だ。」
父は少しのことでも反応してくれる。それを見て母は呆れたそぶりで、
「バカねー。まだよく理解できないわよ。過大に期待をしてプレッシャーを与えないで!」
と父を叱る。両親が優しく「ノヴァ」と呼ぶたびに、胸の奥が温かくなるのを感じる。それは前世で失った純粋な愛情だった。
ある日、ノヴァは母親に抱かれて、いつもとは違う部屋へと移動した。そこは、多くの人々が行き交い、楽しそうに談笑している広間だった。
見慣れない顔ぶれが次々と入れ替わり、奥の厨房らしき場所からは食欲をそそる匂いが漂ってくる。そして、人々は皆、奥の部屋へと消えていく。
その様子をぼんやりと眺めていると、母親がとある人物に向かって「ようこそ、星導庵へ!」と、はっきりとした声で話しているのが聞こえた。
(「セイドウアン」……。その言葉が、強く耳に残った。この場所に来る人々は皆、この発音と共に迎えられている。そうか……ここは、旅人たちが立ち寄り、眠り、そしてまた旅立つ場所。つまり、宿、なのか……?)
この時、ノヴァは自分が暮らしている建物が、多くの人が泊まりに来る「宿泊施設」だということに気がついた。日々の賑やかさや、見慣れない人々が頻繁に出入りする理由が、ようやく腑に落ちた瞬間だった。
母親の腕に抱かれ、ノヴァは広間の隅から、忙しなく行き交う人々をじっと見つめていた。よく見ると、この場所にはいつも見る同じ顔ぶれの人間がいた。
厨房と広間を行き来する恰幅のいい男は、大鍋をかき混ぜながら「今日もいいクォハ(だし)が出てるぜ!」と豪快に笑っている。どうやら料理人のようだ。
客室への案内や配膳を手伝うまだあどけなさの残る少女は、盆を手に駆け回りながら「アオハギ(お待たせ)しましたー!」と元気な声を上げていた。
そして、帳場で客の応対をしている穏やかな表情の中年女性は、「いってらっしゃいませ、ミチヅレニ・キヲツケテ(道中お気をつけて)」と柔らかな声で見送っていた。二人はよく似ており一目で親子だということがわかる顔つきだ。
ノヴァはしばらく注意深く観察していたが、どうやらこの宿は5人で運営されているようだ。彼らは皆、忙しそうに建物内を動き回り、時に冗談を言い合って笑っていた。
ノヴァの両親は、他の3人に指示を出し、宿を取り仕切っているようだ。特に父親は、厨房で料理の腕を振るう恰幅のいい男と、仕入れや宿の修繕について真剣な顔で話し込み、母親は帳場の中年女性とその日の客の入りや部屋の割り振りについて細かく確認していた。
どうやら両親が、この「宿泊施設」の経営者として、他の皆を束ねているのだと、ノヴァは理解した。
知識は増える一方、ノヴァの身体はまだ赤ん坊のままだ。ハイハイすら満足にできない。頭の中では様々な思考が駆け巡るが、いまだ理解できていない言葉も多くそれを表現する言葉も、行動もままならない。
手足をバタつかせたり、意味のない声を上げたりすることしかできない現実に、時折、言いようのない苛立ちを感じた。
(くそっ、もっと詳しく聞きたいのに! この身体じゃ、身動き1つ取れない……!)
彼の前世の経験と知性は、この幼い身体に閉じ込められている。見たいものがあっても、触りたいものがあっても、誰かに抱き上げてもらうか、偶然その場に転がってくるのを待つしかない。
ある日の昼下がり、広間では老夫婦の客が旅の疲れを癒していた。ノヴァは母親に抱かれ、その近くで彼らの会話に耳を傾けた。
「いやぁ、まさかこんな辺境に、これほど立派な宿があるとはのう。星導庵は噂通り、飯も美味いし、湯も格別じゃった」
「ええ、本当に。帳場のおかみさんも、若い娘さんも、皆よく働くし、料理人のガンドルフさんもきっぷが良い」
(ガンドルフさんね)
ノヴァは心の中で頷いた。彼らの会話は、従業員の名前と関係性、そして宿の評判をノヴァに教えてくれた。
「それにしても、この先の道は魔物が出るらしいからのう。あんまり奥へは行かんでおこうかの」
「そうね、国境までのセザム街道は、野党も多く出没するらしいし、魔物も出るらしいから冒険者でもない限り、迂回した方が賢明だわ」
魔物、冒険者という物騒なキーワードが出てきた。この世界には魔物がいて、冒険者がそれを退治しているようだ。街道の名前も出てきたことで、断片的ながらも、この世界の地理や危険に関する情報も、自然とルカの頭に蓄積されていく。
特に客たちが持ち込む珍しい書物や道具、あるいは魔物に関する話を聞くたび、その知識を深めたいという欲求に駆られるが、幼い声で訴えても親はただ「あらあらご機嫌さんね」と頭を撫でるだけだ。
彼の意識は、もはや赤ん坊のそれではない。前世の知識とこの世界の情報を結びつけ、彼は急速に世界への理解を深めていた。
しかし自由にならない身体が、その思いにブレーキをかける。彼はただひたすら、自分の成長を待つしかなかった。
ある日の夕方、母親がノヴァを抱きかかえ、旅館の裏にある小さな庭へと連れ出した。そこには夕日に染まった色とりどりの花が咲き、柔らかな風がそよぐ。土の匂いが鼻腔をくすぐる。
広がる赤い空、遠くに見える山々。
(これが、この世界の自然か……)
前世では、常に高層ビルとアスファルトに囲まれて生きてきた直樹にとって、この光景は圧倒的な開放感を与えた。大自然の美しさに、彼の心は深く癒された。
同時に、この広大な世界で、自分はこれからどう生きていくのだろうという、漠然とした期待と不安が入り混じった感情が湧き上がってきた。
少し暗くなったころ、ふと宿の玄関を見ると今の時間から出立しようとしている客が見えた。
先ほどの少女が、手を振りまわしながら、
「今から暗くなるのでお気をつけて!」
と、先ほどと同じ様に声を張り上げ若いお客を見送っていた。
「ありがとうまた立ち寄るよ!」
若い男はそう言うと胸元から何かをとりだし、いきなり手元に明るい光が発生した。
(なんだあの光は、炎の赤い光ではない青白いライトのような光だ。何かの道具なのか?まだまだ知らないことが多いな。)
若い男は足取りを確かに宿を離れていく。母親に先ほどの光が何なのか聞くこともできない、この世界にはまだまだ自分の知らないことが多く存在するようだ。もっと情報を得なければと再度決意した。
今回はノヴァの感覚の成長と、暮らしている場所の全体像が少しずつ明らかになってきました。
赤ん坊という制限の中で、耳からの情報を頼りに世界を理解していく描写が、今後の展開にも関わってきます。
ほんの少しずつしか進めない分、彼の「焦り」や「意欲」が伝わっていれば嬉しいです。
次回は、より人との関わりが深まっていきます。お楽しみに!