プロローグ 終わりの始まり。
初めまして、読んでくださってありがとうございます!
この物語は、人生を諦めかけた男が、異世界で「家族」に出会い、少しずつ心を取り戻していくお話です。
まずはプロローグとして、主人公が「人生を詰んだ」その瞬間から始まります。
埃をかぶった表彰楯と色褪せた家族写真が並ぶリビングで、山本直樹はソファに沈み込んでいた。55歳。若くはないと分かっていても、人生がここまで崩れるとは思っていなかった。
長年勤め上げた大手電機メーカーの営業職。若い頃は誰よりもがむしゃらで、上司の無理難題にも「お前ならできる」と言われれば何とかしてきた。
バブル期を知る同僚たちと夢を語り合い、夜の街に繰り出したあの日々。気がつけば部下に慕われ、顧客からも頼られ、社内でも「頼れるベテラン」と呼ばれた。だが、時代が変わっても直樹だけは変わらなかった。
社内に溢れる新しいシステム、新しい働き方、若い世代の柔軟さ、いつの間にか直樹は「古い人間」とささやかれ、後輩たちは笑顔の奥で距離を置いた。
二年前、致命的な一撃を与えたのは、年下の上司だった。表向きは愛想がいいが、裏では責任を押し付け、失敗すれば人前で晒し者にする。胃の奥に鉛を詰め込まれたような痛みで目覚める毎日。鏡に映る顔は、生気が抜け落ちていた。
それでも直樹には帰る場所があった。妻の美保と、家族の記憶だけが支えだった。二人の息子は成人し、巣立って今は夫婦二人きり。寂しさはあっても、静かな幸せは確かにそこにあったはずだった。
幼かった息子たちを車に乗せて出かけた夏の海。波にさらわれる砂の城を何度も作り直し、大笑いして、帰りの車で眠った子供たちを美保が振り返って見ていた。その横顔を、直樹は何度も胸の奥で思い出していた。
しかし、ある日、その小さな支えさえ崩れ去った。
心身の不調でついに休職を言い渡され、いつもより早めに帰宅した昼下がりのリビングから、誰かと楽しそうに話す美保の声が聞こえた。
その笑い声は、直樹が何年も聞いたことのないほど弾んでいた。
「美保、誰と話してたんだ?」
直樹が声をかけると、美保は肩を小さく跳ねさせた。受話器を置く手がわずかに震え、その指先が妙にゆっくりと受話器の位置を整える。
「……あ、あなた、早かったのね。」
美保は振り返るが、目が直樹の方を向いていない。視線は直樹の肩の少し上を泳ぎ、口元だけで形だけの笑みを作る。
「誰と話してたんだ?」
直樹はもう一度、今度は声を抑えて尋ねる。胸の奥が、さっきまでと違う音を立てているのを感じた。
美保は、台所に戻るふりをして直樹と距離を取った。その動きが、かえって直樹の心をざわつかせる。
「……昔の友達よ。」
言葉の途中で、わずかに声が詰まった。目線をテーブルの上の花瓶に落とし、ひと言ごとに慎重に選んでいるようだった。
「あなたには……分からない話。」
笑おうとした唇の端が引きつり、視線がようやく直樹とぶつかる。だが、その奥にあるはずの親密さは、冷たい膜に覆われていた。
分からない? 何が?
直樹は、ついさっきまでの穏やかな昼下がりが、足元から崩れていくような感覚に襲われた。心臓が、胃の奥を殴るように跳ねる。耳の奥で、自分の呼吸音がやけに大きく響いた。
ほんの数秒の沈黙が、ふたりの間に取り返しのつかない裂け目を生む。直樹は、何かを言いかけたが、声は喉の奥で凍りついたままだった。
ここ数ヶ月、美保は「習い事」や「友達とのランチ」と言って家を空けることが増えていた。週末も、共に出かけることは減り、代わりにスマホを手放さなくなった。
共通の友人から「最近、奥さん見かけないけど大丈夫?」と訊かれた時の、小さな違和感が胸に突き刺さる。その夜、直樹は眠れなかった。
暗い天井を見つめ、心臓が何かを訴えかける。通常より思考が加速して、色々なことがまとまりをもたず頭の中を駆け巡っていくばかりだった。
そして翌日――直樹は決定的なものを見つけてしまった。
美保が慌てて出ていったリビングのソファの隙間に、見慣れない革の手帳が落ちていた。恐る恐るページをめくると、見知らぬ筆跡で、美保の名前と他の男の名前が何度も並んでいる。ノートには笑顔で並んで撮ったプリクラが貼ってある。
「また来週、いつもの場所で。」
あまりにも無防備に置かれた手帳。そこには、もう美保が何を隠そうとも思っていないような気配すら感じられた。
「……これ、どういうことだ、美保。」
声がかすれた。直樹の手は震え、美保を呼び寄せる。美保は手帳を一瞥すると、一瞬、顔色を失ったが、すぐに目を細めて肩をすくめた。
「見ての通りよ。私には、もう理由がないの。あなたの隣にいる理由が。」
「理由……? 俺たちは……夫婦だろ……!」
「いつからそんなことを気にするようになったの?会社でボロボロになって帰ってきて、私のことなんて見てくれなかったくせに。」
鋭い言葉が突き刺さった。昔、美保が小さな声で「あなた、無理しすぎないで」と言ってくれた日が蘇る。だが、直樹は仕事に埋もれて見て見ぬふりをした。
「裏切り者め……!」
吐き出すように言った時、美保は一度も振り返らずに荷物をまとめ、家を出て行った。
数日後、離婚届に判を押し、誰もいない部屋でソファに沈み込む直樹。
もっと早く気づいていれば。もっと、向き合っていれば。何度も問いかけても答えは返ってこない。部屋には空の冷蔵庫、埃をかぶった家族写真だけが取り残されている。
その夜、安物の缶ビールを無心に飲んだ。冷たい液体が胸の奥を焼くように流れていく。
突然、心臓の奥に重たい痛みが走った。立ち上がろうとした足に力が入らず、視界が狭まり、リモコンが床に転がる音が遠くで響いた。
(こんな終わりか……俺の人生……何だったんだ……)
どくん、どくんと不規則に脈打つ鼓動が、残された時間を無情に刻んでいく。汗が頬を伝い、冷たいはずの床に触れた手のひらがやけに熱い。
死ぬのは怖い――けれど、もう楽になれるのなら、それでもいい気もした。あれほど耐えて、あれほど尽くして、最後は誰にも看取られずに終わるのか。悔しさよりも、ただ虚しさが心を満たす。
ふいにまぶたの裏に、幼い息子たちの笑い声が蘇った。公園で砂だらけになりながら追いかけっこをしたあの日。夕暮れの中、美保が「お疲れさま」と背中をさすってくれた夜。あの温かさは幻じゃなかったはずだ。
(俺は……何を間違えた……?)
心臓が軋む。このまま終わりたくない――そんなわがままが、最期の最期に滲んだ。しかし意識は冷たい闇へと沈んでいく。
崩れた砂の城の下から、微かな光が滲んだ。それは絶望の果てに差す、やり直したいという微かな願いのようにも思えた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
主人公はようやく「リスタート」のきっかけを得ました。次回から、少しずつ異世界の家族と暮らしが始まります。
初投稿なので、ドキドキしながら書いています。よければ感想などいただけると嬉しいです!