第二話 花咲く校舎の陰に
遅れまくってすみません。慣れないジャンルに手を出すから……。
やっぱり深井陽介はミステリでないと、というのは脇に置いて、本編へどうぞ。
本日は晴天なり。特別な行事とかがなくても、今日はそのように声を張り上げて言いたい気分だ。
何しろ、土に埋めたものを掘り出す作業をするから、雨や雪が降っては困るし、まだ冬の寒さが抜け切っていない時期なので、なるべく晴天の暖かい日の方がいい。そういうわけで、本日は晴天でまことに喜ばしい。
さて、二ヶ月ぶりに地元の土を踏んだわたしと、付き添いの美紗は、駅へ迎えに来ていた父の車に乗って、待ち合わせ場所である奥山西小学校へ向かった。山間の地域だけあって、学校への道はゆるい登り坂が多い。わたしは小学生の頃、車で登下校したことは数えるほどしかなかったが、それでも窓の外に流れる景色は、確かに覚えがあった。じわじわと、童心に返っていくような感覚がする。
そして、後部座席でわたしと並んで座っている美紗も、わたしの後ろから覗き込むように、窓の外を見つめている。
「へぇ、ここが彩佳の生まれ育った場所かぁ……のどかでいい所だね」
「それ、地元民が聞けば、何もない場所をいい感じに言っているだけだと思われるよ」
「えっ、わたし、そんなつもりは……」
「分かってるよ。東京の喧騒に馴染むと、こういう場所が新鮮に感じるんでしょ。わたしもそう思うから安心して」
「ひょっとしてわたし、彩佳にからかわれてる……?」
ははは、まさか。この町で育ったわたしから見ても、特に目を瞠るものがないのに、口を突いて出た言葉が“いい所”だから、美紗の故郷はここまでの田舎ではないのだろうと、くだらない邪推を働かせてやっかんでなどいないよ。ほんとだよ?
まあ、さほど思い入れのある場所でもないとはいえ、よその人から“いい所”と評されて悪い気はしないけどね。
そんな、割といつも通りの会話を交わしているうちに、車は小学校に到着した。トランクに積んだキャリーバッグはそのままにして、普段使いのバッグやポーチだけを持って、わたしと美紗は車を降りる。重い荷物は父がこのまま、実家に運んでいく手筈だ。
奥山西小学校の校門の前には、かつての七人の級友たちがすでに集まっていた。そのうちの一人、おしゃれな作業着をジャケットのように着こなす女性が、わたしの到着に気づいた。この集まりの発起人である、藤白ひかるである。パッと花が咲いたように顔を綻ばせ、そして、いの一番にわたしに抱きついてきた。
「彩佳ぁ! ちょっとぶり~!」
「ひかるちゃん、ちょっとぶりだね。すっぴんだと少し雰囲気違うね」
「きゃー」ひかるは急に手を離して照れだした。「だって成人式の時は振袖が映えるように、めっちゃ気合い入れてメイクしたし! じっと見られるの恥ずかしい!」
「自分から駆け寄っておいて何を言うか……」
「よっ、雨洞。何だかんだ、全員集まっちゃったな」
三人しかいない男子メンバーの一人、堀米悠斗が、軽く手をあげて歩み寄ってきた。背が高く筋肉質の悠斗は、高校を卒業してすぐ消防士になったと、成人式の日に聞いている。彼につられて他の五人もぞろぞろとやってきた。
「わたしは春休み中の大学生だから、割と自由に時間を取れたけど……悠斗は消防士の訓練で忙しいんじゃないの?」
「消防署での訓練は何も毎日やるわけじゃないからな。筋トレは毎日やるようにしているけど、適度に体を休める必要はあるし、今回の集まりはいい気分転換になるからな」
「ひかると悠斗みたいに、地元に残っていて、時間に融通を利かせられる人はいいわよね。わたしは一日休みを取るだけでも、色々調整しなきゃいけないのに」
傘木結衣は腕組みをして、恨めしそうな目を悠斗に向ける。見る人を畏怖させるほど目鼻立ちの整った結衣は、成人式の時と同様、サラサラで美しいストレートロングの髪を靡かせている。この子、昔から女王様気質で気が強かったな……。
「結衣はいま仙台だっけ」
「ええ。美容師になるために勉強中アンド修業中。専門学校が休みでも、バイト先の美容室はあまり休みたくないのよね」
「それなのに、わざわざ休みを取って来たの?」と、わたし。
「だって、わたしの知らない所で昔埋めたものを人に見られるなんて嫌だもん」
なるほど、わたしも同じことを考えたから、気持ちは分かるよ。
「ところで、さ……彩佳と一緒にいるその子、誰?」
結衣の視線が、わたしの後ろに控えている美紗に向くと、呼応するように他の六人の視線も美紗に集中した。わたしがみんなと話している間、ずっと美紗は黙ったままだったが、根っからの陽キャで底抜けに明るい美紗にしては珍しい。
すると美紗は、わたしの肩に手を回して、ぐっと引き寄せ、こいつが俺の彼女だぜと見せつけるような態度で言い放った。
「わたしはねぇ……彩佳の、唯一無二で最大級の親友の、小園美沙って言います。以後お見知りおきを~」
なんでわたしの友人ポジションを巡って、級友たちにマウントを取っているのだろう。いや、理由は何となく分かるけど、わたしの級友を無闇に敵に回さないでほしい。これから一緒にタイムカプセルを掘り出す仲間になるというのに。
距離感のバグった美紗の自己紹介に、しばらくみんなはポカンとしていたが、そのうちの一人、同い年のメンバーで一番小柄な女性が表情を明るくして、腑に落ちたみたいに手をパンと鳴らした。
「ああ、そっか! 彩佳ちゃんの言ってた親友の女の子って、あなただったんだ!」
「へ?」
「成人式の時に聞いたよ。大学に入学してすぐ仲良くなった女の子と、ほぼ毎日お泊まりしているって。もはや一緒に住んでるじゃん、って感じで笑ってた」
「えっ、何それ、わたし聞いてないよ」
「わたしもだよぉ。彩佳、なんでそんな大事なこと教えてくれないの……って、どうしたの、彩佳」
結衣とひかるがわたしに向ける顔を、わたしは見る事ができない。激しい羞恥のあまり片手で顔面を押さえて、項垂れているから。
そうだった……今思い出したが、詳細は話していないものの、喜多村真子には美紗と半同棲状態にあることを、口を滑らせる形で打ち明けていた。成人式が終わって、中学の同級生たちとの会合をした後、酔い覚ましに歩いて帰ろうとした真子に付き添った時だから、他の人が聞いていなくても無理はない。
親にすら話していない美紗との現状を、なぜか真子にだけ話していたことに、当然ながら美紗は呆れている。まあ、いま美紗の表情は見えないのだが。
「ふふん、こればかりはね、小学生の時からの幼馴染みである、わたしだけの特権だね。酔っぱらって口走っちゃうのは、相手に気を許している証だもん」
ああ……真子が誇らしげに胸を張っている姿が、見えなくても目に浮かぶ。小柄だけど運動神経のいい真子は、昔からウサギのように跳ねながら行動する、落ち着きのない子だった。体の動きは軽いが、同様に口も軽い。
そんな性格だと知っていて、普通に友達付き合いをして来たのだから、気を許しているというのは間違っていないが。
「酔っぱらって?」美紗が首をかしげる。「彩佳、あんまりお酒飲まないよね?」
「うん、酔っぱらってたのは真子ちゃんの方。わたしは、その……久々に友達と会って、積もる話で盛り上がっていたら、酔っぱらった真子ちゃんのペースに乗せられて……」
「なるほど、雰囲気に酔ったのね」
情けない話だが、真子とのくだらない会話が楽しくて、嬉しくて、浮かれていたのだと思う。そして今の今までそのことを忘れていたのだから、なおのこと恥ずかしい。
ちなみに、小学生の時から特に仲のいい子は、真子の他にもう一人いるが、その時は一緒にいなかった。わたしと同様にお酒を好まず、雰囲気にも酔っていなかったので、酔っぱらいの真子に付き添う理由がなかったのだ。そのもう一人の幼馴染みが、真子に白い目を向ける。
「全く、蟒蛇の真子に付き合わされた彩佳が気の毒ね。公園のベンチにでも放っておけば良かったのに」
「いやそんなことしたら凍死するわい!」
もう泥酔しているのか、真子はあっけらかんと笑いながら、怜花にビシッと裏拳ツッコミを入れた。
茶谷怜花は昔からいわゆる才媛で、中学でも学年一位の常連だった。あの頃、美人で有名なのは結衣だったが、怜花もまた、内側から滲み出るような飾り気ない美しさで、学内でも評判だったと聞く。理知的でクールな性格ばかり目立つが、気の置けない友達にはたまに冗談を言ったりする一面もある。確か今は、筑波大学の理工学群に所属していると言っていた。今日は人に会うからかコンタクトレンズだが、いつもハーフリムの眼鏡を持ち歩いている。
「それにしても、これまた意外なタイプと友達になったのね、彩佳。見た目はギャルっぽいけど、中身は一途で独占欲が割と強いタイプってところかしら」
「あっ、あはは……これはお恥ずかしい」
美紗は照れくさそうに笑いながら、ようやくわたしから手を離した。怜花からの冷静な分析のおかげで、自分の行動を客観視できて、急速に恥ずかしくなったみたいだ。そんな美紗に、真子は興味津々である。
「本当に東京って色んな人がいるんだね。この辺じゃギャルさんなんて見ないし」
「わたしの出身は九州なんだけどね……」
「マジで? ここより東京から遠いじゃん! バイタリティが半端ないね!」
「いやー、わたしの場合はだいぶ“無謀”の割合が高めだからなぁ。周りには無難に福岡の大学に行くよう勧められたけど、全部無視したし」
「うおう、チャレンジャーだねぇ。ちなみにわたしは、なるべくたくさんスノボをやりたいという理由だけで、北海道の会社に高卒で就職した!」
「えぇー! 真子ちゃんもめっちゃチャレンジャーだ! いいねぇ、そういうの!」
なんだかすっかり意気投合したみたいで、美紗と真子は「いぇーい」と言いながら両手でハイタッチする。二人とも根が明るく調子に乗りやすいから、揃ってテンションが天井知らずに跳ね上がっている……頼むから誰か制御してくれ。
願いも虚しく、全員が二人を放置することを選んだ。
「ついていけないわね、あれ」と、呆れる結衣。「そういえば、うちらの中で大学生なのって、彩佳と怜花だけ?」
「そうね。わたしは茨城だけど」
「なんでわざわざ、電車ですぐ行けそうな所に? あんたの頭なら東大も狙えたでしょ」
「東京大学や東京科学大学も魅力的ではあったけど、つくば市みたいに学びの環境が市町村レベルで整っている場所が、電車ですぐの範囲にあるのだから、わたしはそこで充分だと思ったの。すごいのよ。産総研、高エネ研、国土地理院、国環研、実験植物園、防災科研、そしてJAXAの筑波宇宙センター! これだけの施設を歩いて回れるなんてすごすぎると思わない!?」
「そ、そうね……あんたをそこまで興奮させるくらいだし」
昔から学問が好きだった怜花は、大学生になってから学問好きに磨きがかかっている。素晴らしい環境で学べることがとにかく嬉しいのか、興奮のあまり鼻息を荒くして結衣に同意を迫ったが、昔から勉強が好きじゃなかった結衣はドン引きしていた。
「うーん、わたしからしたら、外の世界で励んでいるだけでもすごいけどね」ひかるは自嘲気味に笑う。「結衣だって、美容師を目指して、仙台で勉強しているわけだし」
「まあ、美容師の勉強はこっちでも出来るけど、おしゃれの感覚は本で学ぶより、都会の雰囲気の中で肌に染み込ませた方がいいからね」
「それなら東京の方がおしゃれな人は多そうだけど……」
「そうでないのも含めて人が多すぎるからイヤ。仙台はいいよぉ。杜の都というだけあって、都会っぽさの中にも緑がいっぱいあって」
「うん、いいよね、仙台。居心地もいいし、お店も多いし」
「あれ? 古川も仙台だっけ?」
三人しかいない男子の一人、古川良樹が結衣の言葉に頷くと、それを聞いた悠斗が反応した。もじゃもじゃ頭に丸眼鏡の、いかにも気弱そうな良樹は、確かプログラマーの勉強のために仙台の専門学校に行ったと聞いている。
「そうだよ。仙台はITの専門学校も充実しているから、プログラマーの勉強をするならぴったりなんだ。まあ僕も、東京は人が多すぎて躊躇した口だけど……その意味じゃ、東京の私立大学に行っている雨洞さんはすごいと思うよ」
「どうだろう……わたしはまだ、卒業後の目標とか何も決められていないし、みんなみたいに、手にしたいスキルが明確な人が羨ましいよ」
「それを言うならわたしだって」ひかるが肩を竦める。「地元には残ったけど、定職には就かずに、あちこちでお店やイベントの手伝いをするだけだし、将来のビジョンなんてなんもないよ。まあ、おかげで市内にずいぶん人脈は広がったけど」
「その人脈を活かそうとは思わないの? 新聞記者とかライターとかできそうだけど」
「はっはっは。中学の時の読書感想文、『面白かった』だけ書いて提出して怒鳴られたわたしだよ? 文章力なんか高が知れてるって」
そういえばあったな、そんな事も……あれは文章力以前の問題だと思うけど。
こうして久々に会って話してみると、かつての級友たちはそれぞれ、違う道を歩み始めているのだと気づかされる。中学を卒業して、すっかり疎遠になったと思っていたから、成人式をきっかけに、こうしてもう一度集まれたことは、ひかるに感謝すべきだろう。もちろん、招集に応じてくれた他の六人に対しても。
…………ん? 六人?
ひかるの他は、悠斗、結衣、良樹、真子、怜花。
「あれ、一人いなくない?」
「え? あれ、あいつどこ行った?」
「おーい」
遠くから朗らかな男の声が聞こえてきた。校門の向こうを全員で振り向くと、校舎の前を通る石のタイルが敷かれた道の途中に、短髪でパーカー姿の男性が立っていて、その足元には小さいシャベルが大量に置かれている。男性は一本のシャベルを握る手を、ブンブンと振っている。
「あ、いた」
「何やってんだ、あいつ」
ひかると悠斗に訝る目を向けられていると気づいていないのか、男性は声を張り上げてわたし達に向けて叫んだ。
「工事現場の人から、人数分のシャベルもらってきたから、早く掘り起こしにいこうぜー!」
「俊彦のやつ、さっきから話に参加してないと思ったら、工事の人を見つけて先に飛び出していったのか」
「いやぁ、羨ましいほどのフッ軽だねぇ」
「あのさぁ、その前にあのバカに言うべきことがあるでしょ」
呑気にしているひかるに呆れながら、結衣はため息の後に、大声で俊彦に告げる。
「埋めた箱一つだけなんだから、人数分もシャベルいらないでしょ! 一本か二本で充分だってば!」
「あっ、そっかぁ!」
俊彦はシャベルを持った手で、ポリポリと頭を掻いた。そして、足元のシャベルを両手で掬い上げると、わたし達に声をかけながらどこかへ走っていく。
「いらないシャベル返してくるわー!」
「……あれを貸した工事の人、紀平のことを絶対呆れた目で見ていたと思う」
「あはは……」
走り去っていく俊彦を白い目で見送りながら毒づく結衣に、わたしは苦笑いしかできなかった。
紀平俊彦は、わたし達級友たちの中で、真子と並ぶムードメーカーだった。盛り上げ役であり、お調子者。まあ、どの学校のどのクラスにも一人くらいはいる、馬鹿をやって人気を博すタイプの人間だ。そして、二十歳になった今でも、それは変わっていない……。
というわけで、今回集まった面子はこれで全員である。こうして改めて見てみると……率直な感想を、美紗がわたしの隣で呟く。
「なんていうか……キャラの濃い面子だねぇ」
「まあその分、退屈とはほど遠い学校生活だったけどね」
みんながあの頃とほとんど変わっていないおかげで、こうして言葉を交わすだけで、この学校にかよっていた時の感覚が蘇る。今は土だけになってしまった、校舎のそばの花壇にも、色とりどりの花が咲いていて、所々に短い雑草が生えているグラウンドは、休み時間になればいつも誰かが駆け回っていて、それを見守る先生たちもいて……。
懐かしさに浸っていると、すでに級友たちは校門の向こうに踏み入っていて、怜花と真子が振り返って、わたしと美紗を急かしてくる。
「彩佳、何してんの。もう行くよ」
「早くしないと、彩佳が埋めたやつを先に見ちゃうからね~」
「それはやめて」
真子の冗談に笑って返しながら、わたしは美紗を連れて後を追う。
少しだけ大人に近づいたその足で、およそ八年ぶりに、奥山西小学校の敷地へ、飛び跳ねるように踏み出した。
* * *
今からちょうど九年前、わたし達が小学校五年生の時、退職する担任の先生との思い出作りのために、タイムカプセルが埋められた。手紙、思い出の品、その当時お気に入りだったものなどを持ち寄って、ステンレスのお菓子箱に詰めて、校庭の隅っこにポツンと立っている桜の木の根元に、同級生全員の手で埋めたのだ。いつか大人になったとき、またみんなで掘り返そうと、他愛もない約束を交わして……。
その桜の木は今も同じ場所に残っていて、まだ三月の半ばということもあって、小さな蕾がちらほらと見える程度だ。その根元の地面を、悠斗と俊彦がシャベルで掘っていく。その様子を、周りを取り囲んでいるわたし達は、じっと見守っている。夢中になって結構深く掘っていた記憶があるから、しばらく時間がかかりそうだ。
「そういえば、その退職した先生は呼ばなかったの? 先生との思い出作りのために埋めたんでしょ?」
わたしの隣に立って見守っていた美紗が、ふと気づいてひかるに問いかけた。
「ああ、まあね……呼べたら呼びたかったんだけど……」
「寿先生っていうんだけど、去年、病気で亡くなったらしいんだ」
言いにくそうなひかるの代わりに、わたしが美紗に説明する。
「あ、そうなんだ……」
「尤もわたしも、成人式で帰省した時に、お父さんから聞いて初めて知ったんだけどね。元々いい歳だったけど、この間から病気がちだったみたいだから」
「わたしも後でそのことを知って……遅ればせだけど、天国にいる先生への手向けも兼ねて、タイムカプセルを掘り起こそうと考えたわけ」
「へえ、そんな事情もあったんだ」と、真子。
「本当に遅ればせだね……できるなら、寿先生にも立ち会って欲しかったし」
屈託を滲ませた表情で、結衣は呟く。小学生の頃、わがままで女王様気質だった結衣に、寿先生は物怖じすることなく、その言動を窘めていた。結衣にとっては、当時は鬱陶しく思えても、人間として成長するきっかけをくれた、恩師でもあるのだろう。
「後で、タイムカプセルと一緒にみんなで写真撮って、その写真を持って先生のお墓参りに行きたいね」
「そうね」真子の提案に怜花は頷く。「最後に受け持った生徒が、みんな無事に成長したところを、先生にちゃんと見せたいし」
「あら、リアリストの怜花にしては、スピリチュアルなことを言うのね」
「別に死者の魂とか信じているわけじゃないわ。ただ、そうやって先生を満足させることができたと、自分が納得したいだけ。亡くなった人への挨拶なんてそんなものでしょ」
「あー……やっぱリアリストのままだわ。身も蓋もないわね」
冷徹なまでに現実的な怜花の性格は、実のところ小学生の時から変わっていない。そして結衣は、その頃から怜花のそうした一面に、苦手意識を持っていた。なんか、みんな揃いも揃って、外見は成長しても、中身に関しては三つ子の魂百までである。
そんな会話をしていると、ようやく土の中のカプセルが露わになった。悠斗が手袋を嵌めた手で持ち上げて、残った土を払い落とす。
「あった、こいつだな。うっわ、懐かしいなぁ」
「これ、蓋に書いてある『おく山西小 5年生一堂』って、俊彦が書いたやつだよな?」
「そうだっけ?」
「だって、“奥”の字が書けてないし、“一同”も間違えてるし」
「確かに」結衣がニヤリと笑う。「代表者を気取ってこういう字を書きたがる奴で、漢字が苦手なのは紀平くらいだったわね」
「ちょっ、ひどくね? 俺だってこのくらいの漢字は書けるさ」
「そりゃあ、二十歳になって書けなかったら逆に引くわ」
「そういえば紀平くん、成人式の会場にあった書き初めのコーナーで、『いも三昧』って書いていたよね」
この地域で成人式が開催される文化会館では、一月の半ばまで、用意された半紙に筆で自由に文字を書ける、書き初めのコーナーがある。成人式の日もギリギリ日程の中にあるので、式に参加した人たちの中には、そこでついでに何か書いていくという人もいる。良樹によれば、俊彦もその一人だという。
「ああ、書いたな。俺、実家で里芋育ててるからな」
「なんか、東京にある寿司のチェーン店みたいなフレーズね」
「あ、それ知ってる。福岡にも確かあったよ」
わたしが思うままのことを言ったら、美紗も乗って来た。わたしは地元でその店を見たことがないが、東京だと割とあちこちで見かけるのだ。
「でも、“昧”の字が間違っていたから、『いも三味』になってたよ」
「…………マジ?」
「呆れた。その程度の漢字も未だに書けないの?」肩を竦める結衣。「ひょっとして、専門学校の『専門』も正しく書けないとか?」
「バカにすんな。こうだろ!」
ほとんど自棄になって、俊彦は落ちていた枝で地面に字を書いた。専問、と。しかもよく見ると、“専”の右上に点がついている。……ここまでベタな書き間違いをする人も、なかなかいないよなぁ。なんというか、余計なものが多すぎる。
全員がめいめいに呆れた表情を浮かべていると、怜花が寸鉄をぶち込んだ。
「……あなたは一生、土いじりに専念した方がいいわね」
「はあ!?」
「そんな事より、早くこの箱開けて、中身を見てみようぜ。正直、自分が何を入れたか、よく覚えてないんだ」
悠斗のひと言で、俊彦の漢字力の低さについてはうやむやになった。悠斗が地面にそっと置いたお菓子箱の周りに、いじけている俊彦を除く全員が集まって、悠斗の手で蓋を外された箱の中身を覗き込む。
大体予想はしていたが、タイムカプセルの中身は、古いおもちゃとか写真や手紙だった。中でもひときわ目立つのが、一番下にある、箱とギリギリ同じくらいのサイズの、茶色く変色した花のリースである。
「うわあ、懐かしいなぁ、こんなもの入れてたんだ」
「ねえ、このリースって、誰の?」
「わたしのだ」真子が控えめに手を挙げる。「ドライフラワーで作ったリースだから、長持ちするかと思ったけど……結構くたくたになってるね」
「土に埋めた箱の中とはいえ、九年も経てばねぇ……わたしが入れたのはこれだね」
怜花がお菓子箱から取り出したのは、四角いクリスタルの置物だった。内部には国際宇宙ステーションの精巧なミニチュアがある。両手に載せて見つめる怜花の目は、星のようにキラキラと輝いていた。
「家族で筑波宇宙センターに行ったとき、お土産で買ったやつ」
「なるほど、あんたらしいわ……わたしが入れたのはこれね」
結衣が取り出したのは、五ミリほどの小さな花の細工が三つついた、イヤリングだった。当時からおしゃれが好きだった結衣らしい一品である。
「へえ、こっちは案外、錆び一つつかずに残っていたわね」
「つけるの? それ」
「さすがに今は子供っぽくてつけられないわ……親戚にでもあげようかしら」
「今でも似合いそうだけどなぁ……」
ぼそっと呟いたのは良樹だった。完全に無意識だったのか、結衣たちから奇異の視線を向けられてようやく、良樹はハッと我に返る。
「えっ? 何?」
「あんた……そういうことさらっと言える奴だったっけ」
「へ、変なこと言ったかなぁ?」
「別に変じゃねぇだろ」悠斗が笑って助け舟を出す。「似合うって言葉をおべっかじゃなく普通に言えたら、女子は喜ぶだろ?」
「そんなの人によるし、自分に似合うかどうかくらい自分で分かるわよ。まあ……」結衣はイヤリングをつまんで軽く振りながらじっと見つめる。「可愛いといえば可愛いし、たまに気の向いたときに付けてもいっか」
おっ、似合うと言われて割と満更でもなさそうだ。成長して美意識が変わったとはいえ、かつては好んで使っていたイヤリングだし、心惹かれるものはあるのかもしれない。
真子は続いて、ゲームソフトのカセットを手に取った。
「これって……昔のゲームソフト?」
「あ、それ俺が入れたやつだ」さっきまでいじけていた俊彦が名乗り出た。「小三の時に、親にせがんで買ってもらったけど、一年くらいやり込んだら飽きちゃって、でも売るのも癪だからタイムカプセルに入れたんだ」
「それ、絶対売った方がよかったと思うよ。プレイされないまま箱に閉じ込めるなんて、ちょっと可哀想」
真子は手元のソフトに憐憫の視線を向ける。一年も熱中するくらいだから、入手した当時はよほど気に入っていただろうに、何ゆえタイムカプセルに仕舞ったのか。俊彦はかつての自分のことを思い出そうと、腕組みをして唸った。
「いやー、たぶん俺、駄々こねてまで親に買ってもらったソフトを、簡単に手放したら負けだとか思ったんじゃないかな。確かに今思うと、もったいないことしたかもしれない」
「これ、まだ動くの?」怜花が尋ねる。
「動くかもしれねぇけど、対応するゲーム機がもう手元にないんだよな。中学に入ってすぐの頃、買ってもらったスマホでゲームをするようになってから、ゲーム機の方は手放しちゃったし」
「ソフトの方は売り惜しみしたのに、本体はあっさり手放したのね」
「ぶっちゃけ、ソフトを買わなくても、Wi-Fi環境でダウンロードするだけだから楽だし、スマホのゲームの方が操作の種類も多いから、ゲーム専用端末よりハマっちまって」
「ふうん……そうやってソフトの相場を軽く超える額をガチャに課金するわけね」
「なんで知ってんの!?」
怜花の指摘は図星だったらしい。たぶん鎌をかけただけだと思うけど、これだけのゲーム好きであれば、往々にしてありうる話ではあるだろう。
それから、悠斗が自分の入れたものと言って取り出したのは、切れたミサンガだった。小学五年生の夏に、サッカーの試合で地区優勝を決めたその日に、手首に巻いていたミサンガが切れたらしい。ご利益がありそうということで後生大事にしていたが、無くしそうなのでタイムカプセルに仕舞うことにしたという。
写真は、良樹が入れたものだった。小学四年生の運動会で、良樹がひかると一緒に二人三脚に出場して、上級生に勝った時の写真で、わたしや悠斗も一緒に写っている。たぶん、良樹の親が撮ったものだろう。男女で二人三脚というのは、今の時代だと色々言われそうだが、元々子どもが極端に少ない田舎だと、少し前はこういうこともよくあったのだ。
そして、ひかるが入れたのは、可愛らしい封筒に入った手紙だった。
「ひかるちゃんにしては無難なチョイスだね」
「いやあ、何を入れたらいいか、正直悩んだんだよね」恥じらうようにひかるは頬をポリポリと掻く。「わたしはみんなみたいに、タイムカプセルに入れてまで残したい宝物なんて、何もなかったからさ……」
「そう……」
わたしは何も言えない。ひかるは良くも悪くも小ざっぱりした性格だ。物事にあまり深く執着しない一方、何物にも代えがたい大切なものが、彼女には驚くほど少ない。将来の展望を持てずに、ずっと生まれ故郷に留まっているのも、何が何でも実現したい理想というものを、彼女自身が抱けていないせいだろうか。
そんなひかるが、九年前にどんなことを手紙にしたためたのか。ひかるは封筒から三つ折りの手紙を取り出して開いた。
直後に、顔を手で覆って悲鳴を上げた。
「きゃー! これは、ちょっと恥ずかしい!」
「恥ずかしい内容なの? 見せて」
「ちょっ、彩佳!」
このひかるを恥ずかしがらせる手紙なんて、ぜひ読んでみたいに決まっていた。わたしはひかるの手から便箋をさっと引き抜くように奪った。慌てふためくひかるを尻目に、わたしと、わたしの背後にいる美紗と真子と怜花が、便箋に目を落とす。
「何なに? 大好きなみんなが夢を叶えて、十年後も二十年後も、一緒に仲良くいてくれたら嬉しいな……」
「美紗ちゃん音読はやめて!」
「おぅ……」
「なるほど、こんな無邪気なことを手紙に書いて残したのね」
「ああ、もうやだ……」
真子と怜花にも変な感心の仕方をされて、ついにひかるは両手で顔を覆って俯いた。耳まで真っ赤になっている。別にそこまで恥ずかしがる事でもないのでは……いや、子どもの時の無邪気な感性で書いた文章を読み返すのは、大人になるほど応えそうではあるが。
でも、嘲笑うようなことでもない。わたしはひかるの肩にポンと手を置く。
「なんだ、宝物、あったじゃない」
「え?」ひかるは涙目の顔を上げる。
「まだ十年も経っていないし、夢を叶えたわけでもないけど……ひかるちゃんが願ったとおり、今でもわたし達、みんな仲良しだよ」
わたしは偽らざる本心を、真っすぐひかるに告げた。他のみんなも、嬉しそうに微笑み合ったり、照れくさそうにしたりしている。進む道が分かれても、こうして同じ目的のために誰もが集まれる。ひかるが幼心に願った、九年が過ぎても変わることのない、級友たちの絆は、紛れもなく、ひかるにとっての宝物だ。
わたしからの励ましの言葉に、ひかるは呆然と見つめ返していたが、やがてはにかむように歯を見せて笑った。あの頃と同じように。
「本当に、変わってないなぁ……彩佳は」
「そうかな。昔ほどの無邪気さは、もうないと思うけど」
「そうじゃなくてさ、彩佳は相変わらず、優しさの示し方が上手いってことだよ」
わたしの肩を指先でつんつんと突きながら、ひかるはからかうように言った。なんだか、素直に褒められている気がしないなぁ……。
そしてもう一人、反対側から同じように、わたしの肩を指先でつんつんと突く人がいた。
「ねえ彩佳ぁ。わたしだけのけ者にされているみたいで不服」
「そりゃあ美紗はここでの思い出とかないから……」
「なんか、ずるいなぁ」
「ずるいって何が」
「それより、彩佳がラストでしょ。結局タイムカプセルには何を入れてたの?」
「何だったかな……あれ、残ってるのも手紙だった」
ひかるの手紙の下にあったから見えなかったのか、小さく畳まれた紙きれだけが、お菓子箱に残っていた。どうもはっきりと思い出せないが、最後に残ったものである以上、これがわたしの入れたものだろう。ひかるみたいに恥ずかしい内容だったらどうしようと思いつつ、わたしは畳まれた紙を開いた。
「…………あれ?」
わたしは思いがけず呟く。小さな紙きれにはただ一言、『ありがとうございます』とだけ書かれていた。どんな恥ずかしい内容も覚悟していたが、これは想定外だ。
後ろから覗き込んできた美紗も首をかしげる。
「んー? なんかこれ、彩佳の字と違くない?」
「うん……子どもの時だし、筆跡が変わっていてもおかしくないけど、明らかにわたしの書き癖と違っている。これ、わたしが書いたものじゃない」
「それに、はっきり覚えているわけじゃないけど……」ひかるも眉をひそめる。「彩佳がタイムカプセルに入れたのは、小さな箱みたいなものだった気がする」
「ああ、そういえばそうだったよ。片手に収まりそうなサイズの」
「少なくとも木目模様の箱だったと思うわ。実際に木製かどうかは、触っていないから分からないけど」
真子も怜花も口を揃えて、わたしがカプセルに入れたのは小さな箱だと言っている。三人全員が記憶違いをしている、とは考えにくい。入れた本人であるわたしの方が、記憶が曖昧なくらいだ。そんな箱がかつて手元にあったか、それすらはっきりと思い出せない。
何より、それらしい小箱が、タイムカプセルの中にはない。誰かが間違って取ったという可能性もなさそうだ。木目模様の小箱と見間違えるものなど無かったし、全員が見ている中で勝手に取り出すこともできない。
そして、なぜか代わりに、誰が書いたか分からない手紙が入っていた……全くもって不可解なことばかりだ。うん、嫌な予感がする。
「これは、名探偵雨洞彩佳の出番ではありませんかな?」
「ありませんよー」
案の定、美紗がからかうような口調で囃し立ててきた。大学で会って以来、二回ほどわたしが必要に迫られて謎解きをしたことで、美紗の中ではすでに、わたしに名探偵の箔付けがなされている。だが、昔から探偵小説を好んで読んでいる立場で言わせれば、名探偵なんてろくでもない肩書は、熨斗をつけて返上したいくらいだ。
実を言えば、美紗のように名探偵扱いされるのは初めてじゃない。さほど数は多くないが、この地元でも何度か簡単な謎解きをしてきたため、皆の衆、雨洞彩佳の名推理をご覧ぜよ、などとふざけて抜かす人もままいる。
もちろん、そんな話を聞いたこともない人もいる。結衣はその一人だ。
「何? 名探偵って」
「へー! 美紗ちゃんは彩佳の名推理を見たことあるの?」
「ねえ真子、何の話?」
「あるよ! これまでに二回! いやあ、そのどれも警察沙汰だったから、大変な目に遭ってたんだぁ……彩佳が」
「マジか。雨洞、警察沙汰に巻き込まれたのか。東京やべぇ所だな」
悠斗が若干引き気味にこっちを見て言った。まあ、色んな人が集まる分、変な事件も起こりやすいということだ。わたしの場合、地元でも何度かそんな事件と関わったから、どっちもどっちという気もするが。
「それより、どうするの?」怜花がわたしに言う。「自分の入れた宝物が消えて、なぜかティップみたいに誰かの書いた手紙が残されていたわけだけど、名探偵の彩佳は消えた箱を取り戻したい?」
「皮肉交じりに名探偵と呼ぶな。つか、ティップって」
「日本語のチップだと発音的に不正確だと思って」
確かに、心づけを意味する単語はtipだから、チップだと英語圏の人に伝わりにくいかもしれないが、ここに英語しか分からない耳を持つ人はいないからなぁ。
そして、怜花の質問に対する答えなら、もう決まっている。わたしは立ち上がる。
「別に、どうもしないよ。わたし自身、何を入れたか覚えてないくらいだし、今のわたしにとって大事なものじゃないなら、少ない時間を割いてまで探す気はない。手掛かりがあれば話は別だけどね」
「まあ現状、お礼の書かれた手紙しかないからね」
「えー? いつもの名推理やってくれないの?」
「いつもっていうほど頻繁にやってないでしょ……」
不満そうな美紗をわたしは軽くあしらった。仮に誰かが取っていったとしても、小学生の頃の価値観で仕舞われた宝物なんて、苦労して取り戻すほどのものじゃない。どうせこの町にもあと二日しか滞在しないし、他に考えないといけないこともある。美紗が期待するような名推理は、残念ながら今回は出番なしだ。
「さっ、宝物のお披露目は済んだし、そろそろ積もる話に移ろう。この箱はどうする?」
「俺が預かっておくよ」悠斗が名乗りを上げる。「ここには親父の軽トラで来ているから、荷台に置けば土汚れも気にならないし。その手紙はどうする?」
「うーん……誰のか分からないけど、一応わたしが持っておくよ」
「分かった、雨洞に預ける」
「じゃあ、夕方にもう一度みんなで集まろう。二十歳になったわたしらにぴったりの店、予約してるんだよねぇ」
ひかるが決め顔で言ってきた。……たぶん、居酒屋とかだろうなぁ。田舎はそういう店を探せばいくらでも見つかるものだ。
その後、わたし達は揃って校門を出て、坂道を下りていった先の分かれ道で一度別れた。ひかるはお店を夕方の六時に予約しているので、それまでは各々実家などでゆっくりして、一時間くらい前になったらLINEで知らせるという。まあ、別れ際に口頭で、集まるのは駅前にある『呑ちゃん本舗』という店だと聞いてはいるが。……やはり居酒屋だったか。
みんなと別れた後は、わたしと美紗だけでわたしの実家に向かった。小学校を卒業した後は一度も通っていない通学路だが、何だかんだ体が覚えているもので、全く迷わずに実家への道を辿れている。
「ねーえ、本当に箱を探さなくていいの? 昔の彩佳の宝物だったかもしれないのに」
「どんな宝物だったか忘れた時点で、もうわたしには、それを大事にする資格なんて無い。探しても無意味だよ」
「そうかなぁ……わたしだったら、たとえ今は忘れていても、実物を見れば、その時の大切にしていた気持ちを思い出して、懐かしくなると思うけどなぁ」
「そういうものなの?」
「自分に置き換えてみたら、そんな気がした。だってほら、タイムカプセルって、いつか開かれるから意味があるんじゃない?」
美紗は晴れやかな笑顔で、躊躇いなく言ってのけた。
いつか開かれるから意味がある……確かに、タイムカプセルとはそういうものかもしれない。永遠に閉じ込めるものじゃなく、何年も経ってから開いて、忘れた気持ちを蘇らせるものなのだろう。だから、カプセルに入れるのは、その時に忘れたくないと願った、その証ということになる。
わたしはどうだったか。あの頃、わたしが忘れたくないと思ったものは何か。……まあ、たいして深く考えずに入れた可能性もあるけど、ちょっと思い出してみる。忘れたくないもの、大人になっても大事にしたいと願ったもの、或いは、忘れてはいけないもの……。
―――はい、これ。大事にしてね。
―――絶対に、忘れちゃ駄目だよ。
また、おぼろげな記憶がフラッシュバックして、わたしは立ち止まる。それだけでなく、今度は胸がざわざわするような、妙な感触があった。
わたしは、お菓子箱に入っていた小さな手紙を、カバンから取り出した。美紗が気づいて振り向く。
「ん? どうしたの、彩佳?」
「わたし……この手紙の筆跡、どこかで見たような気がする」
「えっ、ホント? どこで見たの?」
「うーん……」
わたしはしばし記憶を辿ろうとしたが、すぐに断念した。
「ごめん、やっぱり思い出せない。そもそも他人の筆跡なんていちいち覚えてないし」
「まあ、そんなもんだよね」
「もういいや。早くうちに行こう」
「だね。早く彩佳のご両親へご挨拶に伺わねば!」
「完全にテンションが結婚前のそれなんだよなぁ……」
実際は結婚どころか、付き合ってすらいないのだが。半同棲にキスまでしておいて今更だが、正式にお付き合いをしようと合意したことはない。……そのうち交際にこぎつけても不思議じゃないと思いつつ、なかなかその時が来ないのだ。
お互い、器用に生きられないのは損だな、と思いつつ、はしゃいでいる美紗と連れ立って家路をゆくのであった。
もう今月中に書き上げるのは諦めたので、開き直って、じっくりペースで進めます。……夏が終わるまでに完結したらいいけれど、完全に季節はずれになってしまうなぁ。世の中の恋愛小説家はどうやって書いているのか。