第一話 雨洞家の方へ
滑り込みました。
そして恐らく、全部が締め切りまでに滑り込むことはないです……。
というわけで、しばしのお付き合いを。
生まれ変わる、という言葉は、生き物だけでなく建造物にもよく使われる。リノベーションというやつだ。人間が生まれ変わるには、一度死ななければならないが、建物の場合は必ずしも、建物としての機能を停止する必要がない。何か一つの役目を終えた建物に、外観だけ手を加えることで、新しい役目を与えることだってある。
リノベーションの中には、元の建物の面影を残したままにして、利用者に懐かしさを感じさせるものもあるという。例えば、統廃合で使われなくなった校舎を改装して、別の施設に生まれ変わらせる際も、かつて学校だった痕跡を残すことで、昔の生徒を楽しませることもある。
……と、テレビの特集でさっきから紹介されている。
「こういうリノベーションっていいね。せっかく造った建物が、無駄にならずに済むし」
「建物を解体して出てくる瓦礫やゴミは、産業廃棄物として、お金を出して処分する必要があるから、簡単な工事で建物を維持できるのは業者にとっても旨味があるみたいだよ」
「生々しい話だなぁ……夢が足りないよ、彩佳は」
わたしと並んでソファークッションに腰かけている美紗が、呆れながらわたしの肩にもたれかかってくる。常日頃ケアを怠らないブロンドの髪から、フローラルな香りがふわりと漂う。わたしはこの匂い、不思議と落ち着くから好きなのだ。
わたし、雨洞彩佳が大学進学のために上京して、そろそろ二年が経とうとしている。入学早々に厄介事に巻き込まれて、大変な目に遭ったけど、それ以降のキャンパスライフはおおむね平和なものだった。勉学に関しては一つも単位を落とすことなく、この春休みが終われば、順当に三年生となる。世間では三年生から就活を始める学生が多数と聞くが、この二年間があまりにあっという間で、どうも今ひとつ実感が湧かない。
さて、現在わたしは、就活よりも先に考えなければならない問題に直面している。上京してからわたしが一人暮らしを始めた場所は、六階建ての古いマンションだったが、ある時からそこには帰らなくなった。今日もわたしが、我が家同然に夕飯を食べてテレビを見ながらくつろいでいる場所は、親友である小園美紗の住むマンションの一室だ。
美紗とは入学してすぐの頃に出会って意気投合し、今では一日のほとんどを彼女と共に行動している。大学は元より、プライベートでも然りだ。当初わたしの住むマンションに置いていた私物や生活用品は、大体一年かけて美紗の部屋に持ち込んだので、もはや戻る理由が完全になくなっている。一台のベッドで美紗と一緒に寝て、同じテーブルに二台のノートPCを置いてレポートを書いて、何もない日はサブスクの映画をテレビに繋げて一緒に観賞して……そんな暮らしが日常と化していた。
そんな状態で、マンションの賃貸契約の更新時期が来れば、必然的に浮上するのが、契約しておきながら実質的に無人状態の部屋をどうするのか、という問題だ。
「ところで彩佳、いつになったらわたしと一緒に住んでくれるの?」
「今だって一緒に住んでるようなものじゃん」
「そうだけど~、そろそろ半同棲っていうふわふわした感じじゃなく、名実ともに同棲状態にしたいんだよぉ。わたしと彩佳はもう、そういう関係なんだから~」
「どういう関係だよ」
と、恥じらいを自覚しながらわたしは突っ込む。飼い主に甘えるネコみたいに、頭と体をぐりぐりとよじりながら寄せてくる美紗を、わたしはなかなかあしらえない。
端的に言えば、美紗はわたしが好きだ。親友として、という以上に。別に、好きという感情に上位互換があるとは思わないが、少なくとも美紗はわたしに対して、ハグやキスは普通にしたいと思っているし、法律的な理由でわたしと結婚できないことを本気で悔しがるくらいには、わたしの事が好きだ。
そしてわたしは、そんな美紗の好意を、特に悪いと思うことなく受け止めている。
わたしの肩に、美紗の顎がちょこんと載った感触がする。真横を振り向くと、ぱちっ、と美紗と目が合った。お互いに、何かのスイッチが入った気がした。
「……していい?」
「……いいよ」
ほとんど迷いなく、吸い込まれるように、わたしと美紗の唇が重なる。美紗の胸がわたしの腕に密着して、体温と鼓動がシンクロする。
かすかな吐息が混じり始めると、美紗は唇を離した。ほんの数秒でも、美紗は満足そうにはにかんで笑っている。
「えへへ、優しいな」
屈託を知らない笑顔と、妙に艶めかしい声色に、わたしは心なしか恥ずかしくなる。
美紗と同じだけ好きだと明言したことはない。まあ、それを言うなら、美紗からもはっきりと、好きと言われた覚えはないのだが、美紗が示す好意は非常に分かりやすい。わたしの方はなんというか、面倒くさい。
私物を全部持ち込んでまで、日がな一日美紗と一緒にいようとしているのに、どこに美紗への好意を疑う余地があるのか、とも思うだろう。わたしも、ここまでしておいて何を迷うのか、と思う。ただ、今ひとつ決め手に欠けていることも確かだ。
美紗は間違いなく大切な存在だ。自分の命より大切だと、自信をもって言える。だからこそ、美紗の気持ちに応える時は、なあなあにせず、本心からきちんと向き合いたい。
正式な同棲を始めることは、その第一歩になる。わたしも前向きに考えている。ただし、これには学生ゆえの壁がある。
「そういえば、わたしのこと、彩佳の両親には打ち明けているの?」
「去年の大晦日の時、友達と一緒に過ごすから帰らない、とは言ったけど、考えてみたらそれっきりかも。美紗がどんな子なのかは話したけどね」
「えっ、嘘、初耳なんだけど。なんて話したの?」
「別に……ギャルっぽくて明るい子で、芯のしっかりしている優しい子だって言った。一緒にいてすごく居心地がいいとも言ったかな」
すると美紗は顔を真っ赤に染めて、無言のままわたしの肩をポコポコと叩き始めた。女友達の紹介としてはありふれた部類のはずだけど、盲目的にわたしを好いている美紗にとっては、充分恥ずかしかったらしい。というか、そろそろ肩が痛い。柔らかいパンチでも同じ所を何度も叩かれたらさすがに痛む。
「まあ、半同棲状態になっていて、何度もキスをしているってことまでは、さすがに打ち明けられていないけど」
「だよねぇ……こういうのはデリケートだから、身近な大人に受け入れてもらえないと後がつらいもんね」そこまで言って美紗は首をかしげる。「ん? ということは、あのボロ……もといちょっと古いマンションに、しばらく帰っていないことも伝えてない?」
いいんだよ、ボロいと言っても。どうせこのマンションと比べたら、どうしてもボロく見えてしまうものだ。
「そうなんだよねぇ……実家からの仕送りは光熱費も含めているけど、ほとんど使っていない部屋でも、家賃と光熱費は持っていかれるから、見ようによっては浪費になりうる」
「確か彩佳の母君って、家の財布を全部握っていて、お金の使い方に厳しい方だっけ」
最初にわたしが冗談半分で使った母親の呼称を、美紗はまだ面白がって使っている。普段のわたしはそう呼んでいないのに。
「そうそう。その事で色々と小言をいわれそうで、話すのは気が引ける」
「まさかと思うけど、親にわたしとの関係を言い出せない一番の理由って、それ?」
「だって、正式に同棲するとなると、マンションを解約することになるから、家賃の分も仕送りしてくれる親に黙っているわけにはいかないでしょ。親の許しがないと、同棲する話もチャラになりかねないし」
「なんじゃそりゃー! 結局世の中金か!」
美紗は天に向かって、気持ち控えめに吠えた。同棲に夢を見るのは結構だけど、お金の問題は必ず付き纏うから、その辺はシビアに考えないといけないのだ。美紗は無鉄砲に突っ走るきらいがあるから、わたしが現実的に考えることでバランスをとっている。
「気は引けるけど、どのみちマンションの契約更新が迫っているから、いずれ同棲のことを親に話すことにはなると思うけど」
「じゃあ、一度実家に帰るの?」
「もしくは親の方がこっちに来るか……ん?」
ちょうどその時、テーブルに置いていたわたしのスマホから、LINEの着信音が鳴った。手に取ってメッセージ画面を開くと、少し前に入ったばかりのグループに、少し長めのメッセージが来ていた。
「あっ、ひかるちゃんからだ」
「え? 誰? よそに別の女作ったの?」
「作ってないから。その顔やめて」
猜疑心を目一杯詰め込んだ表情を向ける美紗を、わたしは冷静に宥める。わたしの口から知らない人の名前が出る度に浮気を疑うのは、いい加減にやめてほしい。
わたしは美紗にLINEの画面を見せて説明する。
「ほら、一月に成人式があって、一度地元に帰ったでしょ。その時に、小中の時の友達に会って、グループLINEを作ったんだよ。わたしを含めて八人のグループで、その中の一人が藤白ひかるちゃん」
「ああ、そういう……」
「高校は一緒じゃなかったけど、うちの地域の成人式は中学校単位で集められるからね。特にこのグループの子たちは、小学校の時からの付き合いだから……」
「長く交流がなかったのに、連絡先を交換してたった二ヶ月で連絡してくるなんて、何やら下心を感じる」
「それは気のせいでしょ」
やっぱり猜疑心は完全に消えていないみたいだが、用事があれば二ヶ月経って連絡してくるくらいは普通だし、同性に対して下心を抱くこと自体が確率的に少ないだろう。そもそも下心があったら、他の人も見るグループLINEは使わない。
美紗の妄言を軽くあしらって、わたしはメッセージを確認する。
「えーと……へぇ、そうなんだ。とっくに取り壊されたと思ってた」
「どうしたの?」
「春休み中に時間が取れたら、みんなで集まらないかって。五年生の時に学校に埋めたタイムカプセルを、掘り起こすんだって」
「へぇ、いいじゃん。彩佳たち、タイムカプセルなんて作ってたんだね」
「ちょうど、わたし達が六年生に進級するタイミングで、担任の先生が退職することになったから、先生との思い出作りで、クラス全員で作って埋めたんだよ」
「そっかぁ……あれ? クラス全員で埋めたものなのに、掘り起こすのは八人だけ?」
「うん。それで全員だから」
「え? あー、そういうことか……」
美紗はすぐに察してくれた。
そう。わたし達の学年は、わたしを含めて八人しかいなかった。元々が地方の、山と山の間にある地域の学校なので、子どもの数はずっと減少の一途を辿っていた。わたしが中学を卒業したその年に、児童数の減少を理由に、小学校は統廃合で無くなっている。
「廃校になった後のことは知らなくて、てっきり取り壊されたと思ってたけど、なんか校舎と体育館だけは残されていて、新しい施設に建て替えられる予定みたい」
「さっきテレビでやってた、リノベーションだね」
「そうそう。来月から着工することが決まったから、その前にカプセルを掘り起こすって」
それにしても、まさかわたしの身近で、テレビで特集していたような、建物の生まれ変わりが起きていたなんて……高校に入ってからは小学校の校舎に全く立ち寄らなかったし、今は地元も離れて東京に住んでいるから、全然耳に入っていなかった。ひかるは地元に残っていると言っていたから、こういう情報を仕入れやすいのだろう。
「行くつもりなの、彩佳?」
「まあ、せっかくだし……十年近く昔のことだから、何を埋めたのかも覚えてないけど、わたしの関知しない所で掘り出されるのもあれだからね」
それに、六年間かよった校舎がどんな施設に生まれ変わるのか、純粋に興味があるし、かつての級友たちと、校舎としての最後の姿を目に焼き付けたい、という気持ちもある。
行くとしたら、たぶん泊まりがけになるだろう。東京から電車で片道三時間くらいで、掘り出すだけならたいして時間もかからないと思うが、カプセルの中身を巡って、積もる話でもすることになるだろうし、日帰りの弾丸ツアーでは、ゆっくりおしゃべりする暇がなくなってしまう。それに、地元に帰るのなら、美紗との同棲のことを、親と直接相談するチャンスだから、時間はたっぷり確保しておいた方がいい。
そうなると、しばらく美紗を一人にすることになるが……まあ、子どもじゃあるまいし、一日や二日くらいなら問題ないだろう。
「ねえ彩佳。わたしも一緒に参加するってアリかな?」
あれぇー?
わたしは困惑して首をかしげた。一人にしても大丈夫だと思ったのに、なぜか美紗はキラキラと輝いた期待の眼差しを真っすぐ向けて、そんなことを訊いてきた。確認する体を装ってはいるが、一人で留守番をするつもりは欠片もないのが丸わかりだ。
「……美紗はこの件と無関係だよね。なんで参加したがるの?」
「小学生の彩佳が何を埋めたのか、純粋に気になるから。それだけ!」
「それだけかぁ……」
小学生の彩佳という表現に、若干の劣情が混じっていそうな気もするが、まあいい。それよりも、美紗がわたしの用事について来ようとする動機が、純粋な興味だけということが非常に厄介だ。わたしが何を口実にして断っても、この興味が薄れない限り、美紗が引き下がることはまずないと言っていい。そして、断固反対する理由がわたしにない一方で、美紗がわたしの過去に向けた興味は、絶対に薄れない。
こうなると、断るという選択肢は、初めからないのも同然だ。別に、カプセルの中に、美紗に見られるとまずいものはないはずだが、美紗のことを級友たちにどう紹介するか悩ましいから、気が進まないのは確かだ。
「あっ、わたしの事をどう紹介するか迷っているなら、とりあえず普通の友達ってことで通しておくよ。一日くらい平気でしょ」
「え? 心の中を読んだ?」
「それに、わたしとの同棲を母君と父君に話すなら、わたしからの口添えもあった方が、色々と話がスムーズに進むと思うよ」
「え? 今度は未来予知?」
さっきからわたしが心の中で思っていたことと、これから思う所だったことを、的確に読み取って封じてくる。美紗って、上級のテレパスだったのか。
まあ確かに、どんなふうに打ち明けるとしても、同棲する相手の顔や人柄が分かれば、両親に変な心配をかけることもないだろう。端的に言えば、都会で怪しい奴に引っかかって騙されているのでは、という疑いを持たせずに済む。その意味では、美紗がいてくれた方が何かと好都合ではある。
これは……いよいよ断る理由がなくなってきたな。いや、これはもう、わたしが意固地にならなければ解決することだ。
「分かった……美紗も一緒に行こう」
「よっし!」美紗は控えめにガッツポーズする。「ご両親への挨拶イベント! これでまた結婚に一歩近づける!」
「……ゴール直前の一歩がものすごく難しいけどね、それ」
なんか、美紗のわたしとの結婚願望が、日に日に強くなっている気がする。重いけど、それも悪くないとか少しでも思っている時点で、わたしも大概だ。
すっかり上機嫌になった美紗はクッションから立ち上がり、ぴょんぴょんと弾むような足取りでキッチンに向かった。
「やった。これで晴れて彩佳と一緒に暮らせるぅ~」
「まだ許可が下りたわけじゃないし、美紗のご両親にも話さないといけないでしょ」
「あっ、うちの家族にはもう、彩佳のことは話してあるよ」
なんじゃそりゃ。わたしが両親に美紗のことを打ち明けたと聞いて驚いておきながら、美紗だってすでに同じことを済ませているじゃないか。しかもわたしの与り知らぬところで。
「え? いつ?」
「だって、彩佳と同じでわたしも、地元で成人式に出たから。その時に話したよ。東京で好きな女の子ができて、すでにキスを済ませて、いずれ一緒に住む予定だって。両親も妹たちも快く受け入れてくれたよ」
「マジか……」
「あっ、マドレーヌあるよ。バイト先の先輩が配ってたやつ。食後のデザートにどう?」
「……食べるかぁ」
何だか全身の力が抜けた気がして、わたしはソファークッションにもたれて天井を仰ぎながら、無気力に答える。
わたしを散々悩ませてきた同棲への障壁を、美紗の方は軽々と乗り越えたらしい。やっぱり美紗の家族なのだなぁ……多様性に寛容というか、深く考えてなくておおらかというか。
うちの両親はどうだろうか。同性恋愛に関しての話をした記憶はないし、それについての意見を聞いたこともない。父親は基本的に母親に頭が上がらないから、実質的に母の意見が全てを決めることになるが、あの人は色んな意味で油断ならない。きちんと言葉を選んで説得しないと、逆鱗に触れて全部が台無しになる可能性だってある。おおらかな美紗とうちの母が対面したら、果たしてどんなことになるやら……。
まあ、その時はその時だ。美紗が持ってきたマドレーヌをちびちびと食べながら、ニュース番組に切り替わったテレビに目を向けて、面倒な考えは放置することにした。
タイムカプセルか……何を入れたか、やはりはっきりと思い出せない。退任する先生との思い出作りで埋めたものだから、学校での思い出を象徴するものだったと思うけど。わたしのことだから、無難に、将来の自分へ向けた手紙でも作ったのだろう。別に当時、ことさら大事にしていた宝物なんてなかったし。
―――はい、これ。大事にしてね。
「えっ……?」
「ん? どうしたの、彩佳」
「いや、何でも……」
何でもない、と美紗には咄嗟に応えた。不意に脳裏をよぎった光景が何なのか、自分でもよく分からなかったから。
さっき頭に浮かんだのは、女の子がわたしの前にしゃがんで、手に持った何かを渡してきた場面だった。その女の子がどんな顔なのか、何を手渡したのか、鮮明には思い出せない。たぶん、小学生くらいの女の子だった。その子がしゃがんで目線が合うくらいだから、わたしも同じく小学生の時のことだと思う。
大事にしてほしいと言われて受け取ったもの……何だろう。今もあったかな。東京への引っ越しの時には、たぶん持ち込んでいない。実家にまだあるだろうか。あるいは……。
「見て、彩佳。もう桜が満開になっている所があるって」
「桜が?」
今は三月の上旬だ。美紗の故郷である九州ですらまだ開花していない。そんな時期に満開の桜が見られる場所なんて、一つしか思い当たらない。
テレビの画面に目を向けると、思ったとおり、満開の桜の映像が撮られた場所は、静岡の河津町だった。
「ああ、河津桜か。あれって確か、二月からもう咲き始めているんだよ」
「そういえば、伊豆に早咲きの桜があるって聞いたことある。へえ、これが……」
「花びらも結構大きくて色も濃いから、六分咲きでも見応えがあるみたいだね」
「いいなあ、どこよりも早く満開の桜が見られるなんて」
「行ったところで見られる保証はないけどね。毎年ものすごく混雑するらしいから」
お花見は時間に余裕をもってゆったりとやりたい。いま見に行かなくても、河津桜の見頃が過ぎれば、次は関東にも桜の見頃がやってくる。去年は美紗と一緒に、近所の桜並木をデートで見に行ったな。今年も一緒に見に行けたら、それはどんなにか……。
ふと、画面の向こうの桜並木から、脳裏に向けて、桜吹雪が舞い上がった。
おぼろげに記憶が浮かぶ。大きな木の根元にしゃがみ込んで、懸命に土を掘る、小さな女の子の後ろ姿。三つ編みのおさげ髪と、黄色い花柄のワンピース。何かを地面に埋めて立ち上がった、達成感に満ちたその顔は……。
あの頃の、わたしだ。
ちゅっ。
唐突な頬への柔らかな感触で、わたしは一瞬で現実に戻された。
吸い付くようなキスをされた頬を押さえて、わたしは隣の美紗に振り向く。
「ちょっ、美紗? なんで今キスした?」
「いや、またなんかボーッとしてたから、いけるかと思って」
「あのね、美紗はもう少し自制することを覚えるべきだと思うの……」
「それより、タイムカプセルを掘り返す話、早く返事してあげなよ。日にちが決まったら、バイト休みを入れたいし。で、終わったら一緒にお風呂入ろ」
にっこり笑って誘ってくる美紗。本能のままに生きているなぁ、この子は……まあ、返事はするつもりだったし、美紗と一緒にお風呂も入るけどね。わたしが何だかんだ甘いから、美紗が自制を覚えないのかもしれないが。
それにしても、さっき頭に浮かんだ光景は何だったのだろう。あの女の子は、小学生だった頃のわたしに間違いない。当時は髪を三つ編みにして、黄色い花柄のワンピースを着て外に出かけたこともあった。そして、わたし一人で、どこかの木の根元に、何かを埋めていた……そんな事もあった気はするけど、よく思い出せない。
どうやら、今度地元に帰ったら、やらなくてはいけないことがたくさんありそうだ。
* * *
後日、わたしと美紗は電車で三時間ほどかけて、わたしの実家がある町にやって来た。
二ヶ月前に帰って来たときも思ったけど、地元にいたときは田舎というほどじゃないと思っていたこの町は、東京に慣れてしまった今は、充分田舎に見えてしまう。最寄りの駅も、ニューデイズと土産物店と休憩所があって、自動改札というだけで、充分に立派な駅だと思っていたけど、東京の鉄道の駅に慣れた後だと、こぢんまりしているように見える。
「まあ、そんなもんだよね。わたしもこの間地元に帰ったとき、同じこと思ったよ」
ひと気の少ないホームに降り立って、不思議な感慨に耽っていると、美紗がそんなことを言ってきた。美紗もわたしと同様に、旅行用のキャリーバッグを引いている。ちなみに上京してから二人で一緒に買ったので、意識せずとも色違いのお揃いとなっている。
わたし達を乗せてきた電車がホームを出て行くと、入れ違いに別の線路でも、逆方向から電車がやって来た。並行する線路を挟んで二つのホームが設けられていて、改札があるのがこちら側のホームなので、あの電車を降りた人は、階段と渡り廊下を使って、こっちのホームに来なければいけない。
「それにしても、東京に初めて来たときも思ったけど、ニューデイズなんてコンビニ、地元には全然なかったよ」
「確かJR東日本管内の駅にあるコンビニだから、九州にはないと思う」
「やっぱりね。うちじゃ駅ナカのコンビニといえばキヨスクだから」
「え? キオスクじゃなくて?」
「……え?」
思いがけない地域間ギャップに、二人揃って困惑していると、別のホームに降り立った乗客たちが、渡り廊下から階段を下ってぞろぞろとやって来た。そのうちの一人が、わたしの背後で立ち止まった。
「……彩佳先輩?」
その女の子の声に、わたしは聞き覚えがあった。いや、そんなものじゃない。強烈に色んな記憶が急速に蘇るほどの、懐かしく忘れがたい声だ。
バッと振り向くと、そこには、ダウンジャケットに細身のレディースパンツを纏った、ハーフアップの女の子が、同じくキャリーバッグを持って立っていた。相手もわたしの姿を見つめて、驚いたように呆然としている。
「千鶴ちゃん……?」
「あっ……彩佳先輩!」
女の子はキャリーバッグを放置してダッシュで駆け寄り、わたしに正面から抱きついた。抱きつかれたわたしが後ろに倒れそうになるほどの勢いで。
船木千鶴はわたしにぎゅっとしがみ付いて、涙声でまくし立てた。耳元で叫ばれると鼓膜をやられそうなので、わたしは逆側に首を傾けた。
「彩佳先輩! すごい、夢みたいです! まさかここで先輩に会えるなんて!」
「そ、そうだね……わたしも千鶴ちゃんに会うなんて思って……はっ!」
ここでわたしは重大なことに気づいた。この場には、わたしに必要以上に接近しようとする見知らぬ人に、いとも容易く嫉妬と警戒心を抱いてしまう人がいる。
振り向くと果たして、美紗があんぐりと口を開けて、実に面白い表情になっていた。
うん、厄介な事態になる前に、ちゃんと説明しておいた方がいいな。わたしは千鶴を引き離して……あっ、離れない。仕方ないから千鶴を引っ付かせたまま、美紗に言う。
「美紗、この子は船木千鶴ちゃん。高校の時の、部活の後輩」
「後輩……に、めっちゃ慕われているなぁ」
「まあ、色々あって……なんか、わたしのファンを公言している」
「えっ? 彩佳って高校時代は芸能人だったの?」
「あはは、そんなわけはないねぇー」
乾いた笑い声で答えて明後日の方を向いたら、美紗は訝るように首をかしげた。
「……もしかして、高校生の時から名探偵っぽいこと、してた?」
ご明察だ。もっと正確に言えば、小学生の時から謎解きの類いを経験している。もちろん小中の時に解いた謎は、事件になるほど深刻なものではなかったし、子どもの遊びの延長として許される範囲でのことだった。ただ、高校生になってからは様相が変わってきた。
すでにどこかのタイミングで美紗には話したが、わたしは高校時代、この地域で一番規模の大きい高校で、文芸部に所属していた。そして、一人しかいなかった先輩の暴走に巻き込まれる形で、事態を収束させるために渋々謎を解いてきた。それらは表沙汰になってはいないものの、この地域の学生の何人かは噂を耳にしていて、千鶴も同様にわたしの活躍を耳にしたことで、わたしの知らない間にファンになっていた。
尤も、千鶴がわたしのファンになった要因は、どうも他にもありそうなのだが。
「彩佳先輩、高校時代は大活躍でしたからね! 悪党を捕まえた事だって一度や二度じゃありませんし!」
「いや、厳密に言えば、捕まえたのは警察か千鶴ちゃんだよね。得意の合気道で」
「合気道は今でも大学で続けてますよ。いつでも彩佳先輩の探偵の右腕となれるように!」
「今はわたしの右腕にしがみ付いているけどね……あと、別に募集してないし、探偵になるつもりもないから」
「えー?」
「そっかぁ。後輩ちゃんは右腕で充分なんだねぇ」
さっきから距離感をものともせずわたしに密着している千鶴に、美紗は満面の笑みで皮肉交じりに告げる。ああ……あれはだいぶフラストレーションが溜まっているな。ずっと美紗を空気扱いしていた千鶴も、さすがにこの皮肉は無視できなかった。
「……何ですか、あなたは」
千鶴が振り向いて警戒心を露わにして尋ねると、待っていましたと言わんばかりに、美紗は上から目線の尊大な態度で千鶴に言い放つ。
「わたしはねぇ、彩佳の最大級の親友にして、いずれ一生涯のパートナーとなる女、小園美沙! 信頼に甘んじて上下関係から抜け出せない右腕なんて、目じゃないわ!」
……いや、信頼のある上下関係は別に悪いことじゃないし、パートナーシップとはそもそもジャンルが違うから、比較しても無意味だと思うけど。
そして案の定、千鶴はわたしに引っ付いたまま、満面の笑みを美紗に向けた。どす黒いオーラを纏いながら。
「そうですかぁ。ご友人の小園美沙さん、ですね。いずれ、ということはまだパートナーとして認められていないということですか。そうですかぁ」
「将来的には必ずパートナーになりますけど? あなたと違って」
「わたしはいいんです。忠実なる右腕は主人にまとわりつく不届き者を遠ざけるのが至上の役割ですから」
「そうなのかぁ。だったら今すぐ遠ざかった方が、主人への忠誠を示せるんじゃない? いま彩佳にまとわりついているのはそっちなんだし」
「え? わたしは微塵も不届き者に該当しませんが? 不真面目そうなギャルと違って」
「へえ、ルッキズムは不届き者の該当要件じゃないの? 田舎者なんだねぇ」
二人の会話はそこで途切れた。そして、顔面に貼り付けていた笑顔が二人同時に剥がれ、噴出した敵愾心が二人を獣へと変貌させた。
「シャ―――ッ!!!」
「フガ―――ッ!!!」
「やめんか!」
ゴンッ!
美紗へ敵意を向けたことで、わたしにしがみ付く千鶴の腕が緩んだ隙に、わたしは千鶴を振り払って二人の間に立ち、野生の猫みたいに威嚇し合う二人の脳天に、手刀を振り下ろした。わたしへの独占欲が暴走して、お互いを慇懃な口調で罵り合ったかと思えば、怒りが爆発して人間の言葉すら出なくなるとは……。
「他にも駅を使うお客さんいるし、迷惑になるから二人ともやめなさい」
「「はい……」」
飼い主に叱られたペットみたいに、二人はしょんぼりと肩を落とした。まったく、パートナーだろうが右腕だろうが、こんな為体ではどっちもどっちだ。
「ところで、千鶴ちゃんはどうしてここに? 福島の大学に入ったって聞いたけど」
「あ、はい! 春休みなので帰省することにしまして……来年の今ごろは、教育実習の準備に追われてバタバタする可能性が高いので、余裕のあるうちに家族に顔を見せようと」
「そういえば千鶴ちゃん、教育学部に進学したんだよね。でも、千鶴ちゃんの家族って、確か……」
「大丈夫ですよ。彩佳先輩のおかげで、あの頃より蟠りはだいぶ減りましたから。今はわたしの将来を、素直に応援してくれていますよ」
「そっか、よかった……」
高校時代、千鶴とは家庭のことで色々あった。余計なお世話だったかもしれないと、気を揉むこともあったけど、今の吹っ切れた千鶴を見ていると、杞憂に思えてくる。
「そういう彩佳先輩は、どうしてこちらに?」
「千鶴ちゃんと似たようなものかな。小学校の同級生たちと会う約束をしてるの」
「その小学校、校舎がもうすぐリノベーションされるから、その前に、埋めたタイムカプセルを掘り起こそうって話になったんだって。ちなみに、わたしは面白半分の付き添い」
「へえ……タイムカプセル……」
美紗のぶっちゃけすぎている言い方はともかく、タイムカプセルという単語が出た途端、なぜか千鶴の顔から感情がスッと消えたように見えた。もしかして、わたしの知らない、タイムカプセルにまつわる嫌な思い出が、千鶴にはあるのだろうか。
まあ、千鶴にとってこの話題が地雷なら、無闇に広げる必要もあるまい。いつまでも駅のホームに留まっているわけにもいかないし、久しぶりの会話は一旦ここまでとしよう。
「それじゃあ、迎えの車も来ているだろうから、そろそろ行かないと」
「あっ、そうですね。わたしはバスですけど……」
「バスって、あれ?」
美紗が指差した方を向くと、改札の向こうに見えるロータリーに、ちょうど一台のバスがやって来たところだった。直後、千鶴は慌てだした。
「わあっ! アレです! すみません、これで失礼します!」
大慌てで駆けだした千鶴は、自動改札に切符を入れて通り抜けていく。お別れして二年くらいになるし、髪型も高校時代のポニーテールから大人びたものになったけど、相変わらず落ち着きの足りない子だなぁ……。
すると、時間がないはずなのに、千鶴は駅舎の出口の手前で立ち止まり、振り返って大声で言った。
「彩佳先輩! わたし、まだしばらくこの町にいるので、時間があったら、一緒にご飯を食べに行きましょうね! もちろん二人で!」
「なんでもちろんなのよ!」
美紗の苦言を無視して、千鶴は駅を出てロータリーのバス乗り場へ駆けていった。こういう、恐れを知らずに大胆な行動に走るところも、相変わらずである。
さて、千鶴による堂々たるデートのお誘いに、美紗は苛立ちを露わにしている。握り拳をわなわなと震わせていた。
「あいつめぇ……このわたしの目の前で、堂々と彩佳に粉をかけやがって……!」
「まあまあ。帰ったら美紗ともデートしてあげるから」
「わたしとも、ってことはあいつともデートするってことぉ?」
「高校の時から連絡先を変えてないし、千鶴ちゃん、わたしの実家も知ってるから、向こうで時間が空いたらどうせ接触してくると思うんだ。先輩として、後輩の誘いを無下にするわけにもいかないしね。浮き世の義理ってやつだよ」
「ぐぬぅ……」
「ほら、迎えの車を待たせられないし、わたし達も早く行くよ」
苦虫を噛み潰したような顔になっている美紗を連れて、わたしは改札口へ向かう。地元に到着して早々、面倒なことになったものだ。この後のタイムカプセルお披露目でも、何事もなければよいが……。
とはいえ、級友たちと久々に会える楽しみの方が大きいので、特に思い悩まされることもないわたしなのであった。
着手するのが遅かったうえに、少々長めの話になるので、たぶん公式企画の期間内に終わりません。が、期間が終わっても引き続きお楽しみください。とりあえず、六月の終わりまでには終わらせます。