王国の終わり
「はぁ、はぁ…酷い目にあった……」
「間に合った?」
「あ、ああ…」
親に命じられた家事をやり終えた子どものような笑みで、こちらを見られると、調子が狂う。
「何やってたんだい!早く浴場へ運んどくれ!!」
俺が遅くなったせいで予定が狂ったと喚き散らす女中が現れ、また気が滅入る。
「はい」
「私も手伝う!」
はいはーいと、手を上げながら飛び跳ねる女を見て、女中は当然、怪訝な顔になった。それでも、女は相変わらず呑気な顔でいる。
「誰、あなた…」
「しらない」
「しらない?自分のことでしょう?」
「しらないのは、しらない。それより、お水をお風呂に持っていくんでしょ?間に合わなくなるよ」
この女中は、俺をいびることを趣味としているので、普段なら『コレの仕事だから』と言うだろう。しかし、間に合わなければ自分も責められるので、今は何も言わない。それが愉快で、内心笑っておいた。
「だとしても、お前には関係ない。早く帰れ」
「えー、やだ」
「子どもか」
「ちがうー」
そう言いながら、頬を膨らませて、上目遣いでこちらを睨む顔に、上手く抵抗ができない。
「分かった……ついてこい」
「はーい」
袋を荷車から台車に移そうとすると、女は軽々と全て持ち上げてしまう。
「お、おい…」
「こっちだよねー?」
「ああ…」
何も持っていないのと変わらない軽やかさで歩き出した女を追って、浴室へ向かう。場所を、知っているのか?
「きゃーーー!!!!」
不意に、悲鳴が聞こえた。何事かと振り返ると、例の女中が炎に飲まれていく。その炎は、どんどん広がって、目に見えるものを焼き尽くす。その光景をみていると自然に湧いてくる仄暗い歓喜のせいで、危機感を持つのが遅れる。
「逃げよ!」
女は、俺の手を掴む。そのまま勢いよく走り出そうとするが、それに抵抗する。
「待て!」
「なに?」
「聖剣を取りにいくぞ」
「分かった」
聖剣は、王権の象徴だ。それを手にできれば、この国を手にしたのと同じになる。こんなに大袈裟なまねをする人間の目的なんて、アレしかないだろう。
「くっそ…っ」
一応、自分にも、王族の矜恃があったのかもしれない。元々悪い脚も、さっき捻った脚も、上手く動かせないことに対して、焦りが募る。立ち止まる度、あれだけは、どうしても、絶対に奪われてはいけないという感情が肥大化していく。すると、脚はますます言うことをきかなくなる。
「乗って!」
複数の目を持つ黒い狼が現れた。あまりにも助けられて申し訳ない気持ちや、自分一人でどうにかしたい意地があり、その背に乗ることを、一瞬ためらったが熱風が背中を撫でると、そうも言っていられない。
「すまない」
「気にしないで」
そういう声は、優しい。そして、どうしてか、ヴィーラに似ていた。
黒い狼は風のように疾走し、時には巨大な蜘蛛に化け、壁や柱をよじ登り、王族が居住する敷地の中心にそびえ立つ塔にたどり着く。そこには、まだ炎は届いておらず、周囲の騒ぎは全て幻なのではなかろうかと思うほどに、静かで涼しい。
「鍵がかかっているな」
「壊しちゃおう」
降りるように促す声に従うと、狼は女に戻る。が、左手のみ、鋭い爪を持つバケモノのままだった。勢いよく振り下ろされたその爪は、オリハルコンで造られているはずの頑丈な鍵を簡単に壊してしまう。
「すごいな」
「そんなことないよー」
本音が一切隠せていない謙遜をする顔が、かわいいので緊張感を失ってしまいそうになるのを、何とかこらえて、中へ。
灰色の硬い石を積み上げて造られている塔だが、所々に宝石や色硝子が埋め込まれている。お陰で、薄暗い内部には様々な色の光が差し込んでおり、幻想的で神聖な雰囲気が漂う。
そんな場所の中央の床に、剣が1本、突き立てられている。特に装飾のない、真っ直ぐな、銀色の剣だ。
「よし…」
この国の王子だった記憶はある。しかし、今の体は、一滴も王族の血が流れていない。抜けるか、自信はないが…触れることはできているので、何とかなると思いたい。
「だれ?」
女が、険しい声を出す。それに驚いて振り返ると、男が1人、立っている。薄暗い建物の中でも輝いて見えるほど眩い金色の髪をした軍服姿の美丈夫。残念ながら、今の国王や王子ではない。
見覚えのない人間がここにいる段階で、この大騒ぎを起こした側の人間である可能性は極めて高いが、その中でも重要な立場であろう。陽炎のように目視できるのではないかと思うほど強烈な存在感は、不思議と、主犯であろうと強い確信を抱かせる。
「その剣を、探していた。が、くれてやっても構わない」
何様なのだろう、と思う。同時に、過去の人々から見た自分も、こんな風だったのだろうかと、笑いが込み上げてくる。
「無条件、という訳ではないだろう」
「無論だ」
「何がほしい?」
思わず、剣の柄を握る手に力がこもる。それに気づいているのか、いないのか…男は愉快そうに笑う。ますます、腹が立つ。
「お前から、もらえるものではない。もらう、という表現も、正しくはないだろう」
「どういうことだ?」
「そちらのレディ」
舞踏会で、紳士が淑女にダンスを申し込む時の仕草で、手を差し出された女は、周囲を見回してから、首を傾げた。
「私?」
「僕と一緒にきてくれないか?」
どこぞの王子か騎士のようにキザったらしく跪き、男は女に手を差し出す。が、女はこちらを見る。俺は、目を逸らしてしまう。
「そうしたら、あれをくれるの?」
「約束しよう」
「わかったわ」
固く、凍りついた声で、女は頷く。その声は、間違いなくヴィーラだった。