今と昔
これは、罰なのかもしれない。
「ほら、早く行っといで」
虫でも追い払うように、女中は手を振る。今の俺は『クロ』と呼ばれる…道具に等しい存在なので、誰もがぞんざいに扱う。そのせいで、左脚が悪いのだが、それでも、魔物も出る森へ水を汲みに行くよう命じられる。逆らっては、もっと非道い目に遭うので、従うより他にない。
魔物も出る『蝕の森』を抜けた先に、『聖霊の湖』と呼ばれる湖がある。王族の人間が入る風呂には、その湖の水を使う。たった3人の一晩の入浴のために、俺は、大きな荷車をひいて、危険な森に入らなければならない。
ため息をついても、誰も同情してくれないため、諦めて、森へと入る。
今から300年前、俺は、この国の王子だった。だから…と言うと、ご先祖さまや子孫に悪いが……ひどく傲慢で身勝手な人間で。自分の考えが絶対に正しいと信じて疑わず、他の人間の忠告や反論を嘲笑っていた。特に、婚約者だったヴィーラに対しては、非道い言葉をぶつけては喜ぶような真似を……
そんな俺も、恋愛をした。今にして思うと、あれを恋愛と呼んでいいか分からないが、しかし、あの頃の俺は間違いなくこの世の春だと信じていた。
ミィア。亜麻色の髪と若草色の瞳が輝く美しさは、今も忘れられない。父親が、出奔した名門貴族の嫡子だったことが発覚し、15歳から貴族令嬢となった少女。他の令嬢にはない素朴な雰囲気と、素直な性格に俺は魅了された。幼い頃から、貴族らしい子女しか周りにいなかったせいだろう。
だが、考えて見れば、いつか王になるかもしれない子どものそばに、子どもらしい…わんぱくなり小生意気な子どもを置くようなことを、王侯貴族の大人たちがするはずない。幼くとも、礼儀を身につけ、立場を弁えることのできる子どもだけが、俺のそばにいたんだ。
そんなことも分からなかった俺は、周囲の反発もよそに、彼女をそばに置いた。彼女が、それによって勘違いをするような人間ではなかったお陰で、周囲も文句は言わなくなる。
そうなると、当然、ヴィーラの立場は悪くなるが、当時の俺は、そんなことどうでもいいと思っていた。そうも言っていられないことに気づくのは、ミィアと出会って半年ほど経った頃。
「ヴィーラに、やられたのか?」
「確信は、ないのですが…」
母親の遺品だと言うドレスが、ボロボロに切り裂かれたと、犯人はヴィーラだと、ミィアが訴えてきた。他にも、父が王立学園入学の祝いにくれたペンダントがなくなってしまっただとか、祖母からもらった裁縫道具の箱が校庭の池に捨てられただとか、祖父の作ってくれた髪飾りが壊されただとか。
ミィアの言葉を信じ、ヴィーラを糾弾するための証拠を集めた。冷静に考えてみれば、証拠があまりにも簡単に集まっているのだが、ミィアにいい格好ができると興奮していた俺は、全く違和感を持たなかった。ヴィーラさえ消えてくれれば、ミィアと結ばれることができると固く信じていたから、なおのこと。
「貴様、よくもミィアを非道い目に遭わせたな」
「まあ、分かってしまわれたのですね」
そういうヴィーラは、笑っていた。それが、少々薄気味悪いとは思ったが、愛する人を傷つけた『悪』を糾弾できるというのは、とても、気分がよく…その笑みの意味を考えることさえ、忘れてしまった。
「貴様を、『蝕の森』へ追放する」
ヴィーラのしたことは、単純な器物損壊で、そこまで重い罪ではない。にも関わらず、俺は、王侯貴族に対する死刑に当たる罰を与えた。戦闘の訓練も、攻撃魔法の習得もしていない貴族の令嬢が、1人で立ち入れば、たちどころに命を失うであろうことは、子どもでも分かる。だからこそ、心地よかった。
「承知いたしました」
ヴィーラは、そう言って、相変わらず、笑っていた。それは、さすがに気味が悪く、ミィアの肩を抱いて庇う。その時に、そちらが青い顔をしていることには、気づかなかった。
それから3年。周囲の承諾を得て、ミィアと結婚するべく、準備を進めた。何もかも、完璧に整えてから、プロポーズをする。本人から了解を得ていないにも関わらず、結婚の準備をするなど、非常識にもほどがあるが…あの時の俺は、断られることなど、想像もしていなかった。
「今、何と言った……」
「お断りいたします、と」
「なぜ…?」
「あなたが、ヴィーラさまを死に追いやったからです」
「どうしてあいつが出てくる」
「あの方は、私に嫌がらせなどしていません。むしろ、他の方から庇ってくださいました」
「だったら、どうして……俺に、嘘をついた?」
求婚を断られただけでも、信じがたかったというのに、更に、誰よりも信じていた相手が、嘘をついていたと知り…絶望した。
「頼まれたからです、ヴィーラさまに。王宮を出て暮らしたいが、王子と婚約している自分には、簡単なことではない。しかし、当人のあなたに嫌われさえすれば、叶うかもしれないと…そう仰っていました。私よりもよほどあなたを知っているあの方は、『蝕の森』へ送られても構わないようにと、準備までされて…」
「つまり、お前は…あの女に言われて、俺を騙したと?」
「なんとでも仰ってください。森へ向かわれる前、私に、あなたを支えて欲しいと言われましたが、どうしてもできません。恩人であるあの方を、執拗に嘲笑う人に、どうして仕えることができましょう?」
そこからの記憶は、はっきりとしない。気がつくと、事切れたミィアの上に跨っていた。
誰よりも信じていた相手に嘘をつかれていたこと、誰よりも侮っていた相手に騙されていたこと。世界が、崩れていく気がした。
それから俺は、少しずつ正気を失い、発作的に人に暴力をふるい、死に至らしめるようになる。最初は、古城に幽閉されるだけだったが、世話係を尽く物言わぬ姿に変えてしまうので、呆れ果てた父から、死を賜った。
そして、目を覚ますと……今の人生だったという訳だ。