【書籍化】無自覚な俺の婚約者
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「まずい、浮気がバレた」
青い顔で頭を抱えるのは俺の学友。
「おい、ヴィル、どうしたらいいんだ?」
「そんなこと俺に聞かれてもなぁ」
「いやいや、お前、何度も浮気バレてんじゃん。それでもうまくいく秘訣って何? いったいどうやって許して貰っているんだ?」
この世の終わりって顔で聞いてくる友人に、俺は『秘訣』を教えてやる。
「そんなの決まっているだろう。アンネリーナが俺にベタ惚れだからだよ」
「何だよそれー」と友人が項垂れ頭を掻きむしる。
「何であんなに可愛くて素直ないい子がお前にぞっこんなんだ」
「そりゃ、顔?」
「あぁ、むかつく。これだから顔のいいやつは。でも、謝罪ぐらいしてるんだろ」
もちろん。貴族の婚姻は契約でもある。婚約の際には契約書も作成する。そこには不貞があった場合、婚約破棄や慰謝料もきめられているが俺の場合はそれだけではない。
「浮気していた期間、相手の名前、謝罪の文言を書いてアンナに渡せば、許しますとサインしてくれる。それで終わりだ」
「何それ、天使かよー」
机にゴツンゴツンと頭を打ちつける友人を俺は優越感たっぷりで見下ろす。だって俺には、俺を愛してやまない婚約者がいるのだから。
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「随分たまりましたわね」
自室で机に向かいながら、ハーレスト子爵家の令嬢アンネリーナはポツリと呟く。
湯上りで少し湿ったブロンドの髪を軽く掻き揚げると、月明かりの下できらりと輝き、すぐに肩から滑り落ちる。
伏せていた紫色の瞳を上げると、先程まで読んでいた書類を他の書類と一緒にして角を揃える。手にしているのは、婚約者ヴィル・レイモンドからかつて渡された浮気の証明書。
浮気の証明書、なるものが一般的に存在するものかは分からないが、兎に角、今日そこに新たに一枚が加わった。
レイモンド伯爵家の印紋が押されたそれは、八枚、いや九枚になった。
アンネリーナは十八歳。婚約したのは十五歳だから三年でこの量は大したものと言えるだろう。決して褒められたものではないけれど。
アンネリーナの子爵家はあまり裕福ではない。いや、はっきり言って貧乏だ。数年前の洪水被害を受け、領地経営が回らなくなってお金を借りたのがレイモンド伯爵家。
アンネリーナとその妹の貴族学園への入学金と授業料を、レイモンド伯爵家が肩代わりすることで決まったのが二人の婚約。レイモンド伯爵は次男であるヴィルを婿養子にしてくれる貴族を探していたので双方の利害が一致したのだ。
さてと、とアンネリーナは書類を持って立ち上がると、自室のクローゼットの奥にある金庫に大事にそれをしまった。
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数日後、王家主催で開かれた夜会にアンネリーナはヴィルと一緒に来ていた。ヴィルが、父親に言われて仕方なく来た、と尊大な態度で迎えにきた時でさえ、アンネリーナは嫌な顔一つせずに微笑んだ。
それを見てヴィルは、やはり俺に惚れていると内心ほくそ笑み、ファーストダンスを踊ったあとはアンネリーナを置いてさっさと人混みに消えていってしまった。
「アンナ、ヴィルがまた他の令嬢を口説いているけれどいいの?」
声をかけてきたのは同じクラスのスーザン。
「いいの、もう慣れましたもの」
「でも、貴女は婚約者なのよ。もっと自覚を持って怒っていいのに」
「婚約者の自覚、と言われましても」
頬に手を当てコトンと首を傾げるアンネリーナにスーザンは眉間を押さえる。人が良すぎるのか鈍いのか。ちょっとぼんやりしたところがアンネリーナにはある。でも今日は壁にかかる大時計をちらりと見るとわずかに眉間に皺を寄せた。
新しい音楽と共に、ヴィルが赤い髪の令嬢と広間の中央に躍り出たのを見たアンネリーナは、すっと息を吸う。
「……スーザン、わたくし帰りますわ」
そう言って扉に向かって速足で歩き始めた。今までヴィルが他の令嬢と踊っていても、にこやかに微笑んでいたアンネリーナの反応にスーザンはびっくりする。「えっ?」と聞き返し、呼び止めようとした時にはもうその姿は人混みの向こうへ。
スーザンは暫く目をパチパチしたけれど、アンネリーナにも婚約者としての矜持と怒りがあったのだと、どこかホッとさえした。今回こそがっつりとヴィルを責めるだろうし、その時は友人として力を貸そうと心に誓う。
アンネリーナは広間の大きな扉を開け、ピンク色のドレスの端を摘んで階段を下りる。パーティーは始まったばかりで、会場の外に人はいない。カツカツとアンネリーナの足音だけが響く中、足早に石畳を歩き馬車へと向かっていると背後から声が聞こえてきた。
「待って、アンネリーナ」
呼ばれて振り向いた先にはスーザンの幼馴染のセドリックが。
「あら、どうしましたの?」
「いや、スーザンから君が帰ると聞いたから。心配して追いかけてきたんだけれど……大丈夫そうだな。送るよ」
「セドリックはダンスをしないの?」
「一緒に踊りたかった人が帰るみたいなので」
「あら、それは残念ね。でも、セドリックは格好良いし次がありますわ」
セドリックは褒められ顔を赤らめつつも、アンネリーナの鈍さに肩をがくりと落とす。アンネリーナは、はて、と小首を傾げるも「そうだ、授業で分からないことがあったの」と全く違う話題を口にする。
「その話なら、子爵邸まで送るから馬車の中で話を聞くよ」
そう言って、セドリックは自分が乗って来た侯爵家の馬車へとアンネリーナをエスコートする。
アンネリーナは婚約者のいる身。馬車の中での二人の距離は適正なものだし、話題は勉学のこと、もちろん子爵家へちゃんと送り届けた。
夜会から数日後。
「アンナ、明日の茶会だが用事ができて行けなくなった」
「分かりましたわ」
「……怒らないのか?」
「ふふ、だって、それで婚約解消はなさらないでしょう?」
「ああもちろん」
ヴィルの答えをきいてアンネリーナは嬉しそうに微笑む。
さらに数日後。
「アンナ、その、昨日レイナと会っていたのは……」
「スーザンが、ヴィル様が流行りのカフェで御令嬢とお茶をしていると言っていましたが、レイナさんというのはそのお相手ですか?」
「あぁ、そうだ。でもやましいことはない。相談に乗っていたからだ」
「構いませんわ。ねぇヴィル様、婚約解消なんて仰いませんよね?」
「もちろんだ」
力強い言葉にアンネリーナは破顔した。その顔を見てヴィルは、やっぱりアンネリーナは俺にベタ惚れだとにんまりと笑った。
さらに一ヶ月、二ヶ月。
そのあとも茶会の欠席は続き、放課後に会うことも夜会に誘われることもなくなった。しかし、アンネリーナはその頃忙しく、ヴィルに対し問い詰めることも、不満を漏らすことも一切しなかった。
アンネリーナの耳にはヴィルとレイナの噂がどんどん入ってくる。手を繋いでいたとか、見つめあっていたとか、普段使われない特別教室のある別校舎に頻繁に出入りしていて、そこでキスをしていたとか。
いつも以上に目につく行動と熱の入れ具合に助言をしてくれる友人は多くいたけれど、その度にアンネリーナは、
「ヴィル様の婚約者はわたくしですし」
とにこりと微笑むだけなのだ。
そろそろヴィルに「浮気をされていますよね」と浮気証明書に記入を求める頃だけど、今回ばかりは違っていた。
自室の机の上でアンネリーナはカレンダーを睨む。
(もう時間がありませんわ。急がなきゃ)
卒業式まであと一月。やらなきゃいけないことが山積みで、眠気覚ましの珈琲を口にして、アンネリーナは自分に気合いを入れた。
そして卒業式。
卒業パーティーの広場にその声は響き渡った。
「アンネリーナ、お前との婚約を破棄する!!」
ヴィルの隣には緩くまかれた赤い髪の令嬢。こぼれ落ちんばかりの胸元を強調したドレスに身を包みヴィルの腕にしがみついている。その口元は扇で隠れているけれど、目は意地悪く細められていた。
突然の言葉にアンネリーナの顔色がさっと青く変わる。
「あ、あの。婚約破棄と聞きましたが」
「あぁ、そう言った」
「それは困ります。理由を聞かせてください!」
慌て狼狽えるアンネリーナにヴィルは侮蔑の視線を投げつける。
「理由か、それはな。お前が嫉妬に狂いレイナを虐め挙句の果てに階段からつき落としたからだ。俺の真実の愛の相手はレイナだ、お前との婚約を破棄して、レイナを婚約者とする」
鼻息荒くヴィルは述べる。
さて、どうするか。
泣いて詫びるか、土下座するか、アンネリーナの反応を待っていると。
アンネリーナは頬に手を当て、はて、と首を傾げた。顔色は相変わらず悪いけれど、泣いてはいないし、土下座の気配はさらさらない。
「あの、申し訳ありませんが、わたくし虐めた記憶がないのですけれども」
「な、なんだ。その態度!」
「ですが何のことを仰っているのか」
「ふん、そうやって誤魔化す気か。ならば教えてやる」
ヴィルは意気揚々と一歩前に踏み出すと、さらに声を大きくする。
「お前は同じクラスの者にレイナと口を利くなと命じ孤立させ、文房具や教科書を隠した。それだけでなく、すれ違いざまにドレスを切り裂き、挙句に階段から突き落とした」
「私はそのようなことはしておりません」
アンネリーナには全く身に覚えのないこと。第一そんな暇などないぐらい忙しかったのだ。
「この期に及んで、まだ苦しい言い訳を重ねるつもりか」
「ヴィ、わたくしとても辛くて悲しかったけれど、きっとアンネリーナさんも嫉妬で苦しんでいたと思うの」
青筋を立てるヴィルの前で、レイナがわざとらしくアンネリーナを庇う。それが本心かは扇の向こうに隠された口角が上がっているのを見れば一目瞭然。でも、大抵の男はそんなことに気づかない。
「レイは優しいね。酷い目にあったのにアンネリーナを庇うなんて」
うっとりと見つめ合う二人。
アンネリーナはお腹の前で組んだ手をぎゅっと握りしめる。顔は青ざめているが、その目は二人をじっと見据えたままで、頭は冷静にこの状況を理解している。
(婚約破棄だけは避けなくては)
「ヴィル様、私はクラスメイトにレイナさんと口を利くなと命じたことはありません」
「まだ言うか。見苦しいぞ」
「だって、そもそも私はレイナさんのクラスメイトとお話をしたことがありませんもの」
「へっ? お前、自分のクラスメイトと会話をしないのか?」
「? 私のクラスメイトとは仲良くさせて頂いていますよ」
ほわん、として穏やかなアンネリーナはクラスの中心人物ではないけれど、皆に好かれていた。
「あの、もしかしてですがレイナさんはCクラスなのではないでしょうか?」
「そうだ。お前と同じCクラスだ」
「わたくしAクラスですわよ?」
学園は成績によってクラスが分かれ、最も良いものがAクラス、最下位がCクラス。三階建ての校舎は学年ではなく成績により階がことなり、Aクラスが一階、Bクラスが二階、Cクラスが三階。階が違うためか同学年であっても他クラスとの交流は極めて少ない。
「なっ、ぼーっとしたお前が俺より上位クラスだなんておかしいだろう!!」
「入学以来ずっとそうですが、ご存じありませんでしたの?」
同じクラスではないから、自分より下のクラスだとヴィルは思い込んでいた。
今まで他クラスに行ったことはなく、ヴィルとレイナの逢瀬はいつも校舎の外か、特別教室のある別棟。
アンネリーナの傍に親友のスーザンがそっと寄り添い援護射撃をする。
「アンネリーナはAクラスでも最優秀生徒として毎学期表彰されているわ」
ヴィルが会場中を見渡せば幾人かの生徒が頷いている。おそらくアンネリーナと同じAクラスの人間だろう。こんな公の場所で嘘などつけるはずもなく、真実であることは周りの反応からも明白。
「ですから、わたくしがレイナさんのクラスメイトに彼女と口を利かないよう頼み、孤立させるのは無理なのです」
面識のないクラスの人間に、レイナと口を利くなと頼むのは難しい。アンネリーナに権力が有れば話は変わるが、実家は子爵家、大して力もない。
会場がざわざわとざわめく。
「なんか私達がレイナを虐めていたみたいじゃない?」
「クラスから浮いているのは確かだけれど、それって人の婚約者に色目を使ったからだし」
「ええ、それも何人も。何十人って言ったほうがいいかしら」
遠くから聞こえてくる言葉にヴィルはレイナを見る。
「俺以外にも色目を使っていたのか?」
「まさか! 彼等から私に言い寄ってくるのです! でも断りました、私の愛はヴィだけですもの」
レイナの言葉に十人ほどの男子生徒が、何を勝手なことをと、眉を吊り上げた。中には教師も一人いたが……
「同じ理由で文房具を隠すのも無理ですわ。だってわたくしがレイナさんのクラスのある三階を歩けばそれだけで目立ちますもの。その状況で他人の机から文房具を持ち出すなんて不可能です。そもそもレイナさんの机がどこかも知りませんし」
ヴィルはうぐっと言葉に詰まる。しかし、虐めていた話はそれだけではないと思い直す。
「では、ドレスを傷つけたと言うのは?」
「どうやって傷つけるのですか?」
「どうやって……てそりゃ、刃物だろう」
「その刃物は何処から持ち込まれたのでしょう?」
アンネリーナは頬に手を当て、はて、と首を傾げる。その仕草にヴィルはいらっとしながらも、はっと気づく。
「そのお顔、今お気づきになったようですが……学園に刃物を持ち込むことは不可能ですわ。校則で禁止されていますし、登校の際には持ち物検査も行われます。唯一あるのは剣技の授業で使う剣のみですが、授業を受けるのは男子生徒のみ。わたくしが学園内で刃物を手にするのは不可能ですわ」
その剣だって長剣だから、こっそり持ち歩いてすれ違い様にドレスを破るなど不可能。
「そ、それなら! レイナを階段から突き落とした件はどう説明する」
予想通りに話が進まないことに苛立ち始めたヴィルが顔を赤くし狼狽し始める。
「それはいつのことでしょうか?」
「一週間前だ」
「場所は?」
「特別教室のある校舎二階の階段。これならクラスが違うなど言い訳できないぞ」
一週間前。それはアンネリーナにとって忘れられない特別な日。
カレンダーにもしっかり書き込み、その日を指折り数え過ごしてきたのだ。
「その日、私は学園に来ておりません」
「無断欠席したというのか。真面目だけが取り柄のお前が」
「いえ。先生方の許可は取っておりますわ。頑張ってこい! あなたならできる! と励ましの声を沢山いただきましたもの」
「頑張る? 励ます?」
いったい何のことだ、ヴィルには全く心当たりがない。
すると一人の男子生徒が前に歩み出た。セドリックだ。
「アンネリーナがその日学園にいなかったことは俺が証明する。俺もその日、学園を休みずっとアンネリーナと一緒にいたのだから」
「浮気していたのか!?」
なんでそうなるのか、とアンネリーナはげんなりする。片腕に赤髪の令嬢をぶら下げて、よく言ったものだ。
ただ、この反応についてはセドリックにも原因がある。
セドリックの少し顎を上げた態度はヴィルを挑発しているように見えるし、その瞳には恋慕の情がしっかりと浮かんでいる。腰や肩に手を回してはいないものの、距離も少し近い。
最も、鈍いアンネリーナはそんなこと全く感じていないけれど。
「どうも人は自分の思考や行動をもとに推測する傾向があるようだな。浮気ではないし、それも証明できる」
「では、どこで何をしていたと言うのか?」
「文官の試験を受けていたんだよ。文官一種」
会場がざわざわとし始める。
城の役人はエリートコース。次男以下にとっては喉から手が出るほど欲しい地位だし、嫡男にとっても家督を継ぐまで文官として勤め人脈作りに励む者もいる。
文官になるのに必要なのは貴族階級ではなく実力で、試験は一種から三種まである。
その中で一種は超難関とされ、優秀な令息令嬢が通うこの学園からでさえ、その試験に合格するのは年に一人いるかいないか。
その試験はさすがにヴィルも聞いたことがある。
しかし、アンネリーナが受験していたのは初耳。
「は、はは。お前がまさかそんな無謀なことに挑戦していたとはな。まったくお前は自覚がなさすぎるんだ。自分の能力も考えずにそんな無謀な……」
「受かりましてよ」
サラッと述べるアンネリーナの言葉に会場から歓声が漏れる。
「俺も受かったよ」
続けて述べられた言葉に歓声はさらに大きくなり手を叩く者さえも。
「おい! 二人揃っての合格なんて学園始まって以来なんじゃないか?」
「一種っていえば十年勤めて実績を積めば爵位を貰えるんだろう?」
セドリックは侯爵家の三男。いずれは家を出なければいけないけれど、この試験に受かったのであれば叙爵は確実。さらに。
「女性の一種合格は王国始まって以来ではないか?」
「試験を受けられるようになったのが現国王が即位してからだからな」
女性の社会進出を掲げた国王によって女性の試験が認められたのが十年前。それと同時に女性が家督を継ぐことも許された。アンネリーナは初めての女性文官一種合格者で、十年後には叙爵も確実。
夜会を早く帰ったのも、茶会の欠席が続き、放課後に会うことがなくても気にしなかったのも、その方がアンネリーナにとって都合がよかったから。少しでも勉強のために時間を使いたかったのだ。
「ということで、その日、試験を受けていたわたくしにレイナさんを階段から突き落とすことはできませんわ」
会場はしん、と静まり目の前で起きた婚約破棄の結末を見守り始めた。
さて、こんな大騒ぎを起こした元凶の二人はこれからどうするのか。
「それに、落ちたの一週間前ですわよね」
アンネリーナは不思議そうにレイナを見る。
「階段は二十段ほど。その上から落ちたと仰ってますが傷一つ、あざ一つございませんのね」
大きく開いた胸元、足は見えないが肩から指先に掛けて露出している肌には青あざ一つない。
「いったいどんな落ち方をされたのでしょう? それから、これはご存知かも知れませんが、レイナさんの男爵家は一代男爵。婿養子に入ったとしても身分は平民になりますわよ?」
「なっ!!」
ヴィルの顔色がさっと変わる。そもそも、ヴィルとアンネリーナの婚約の一番の目的はヴィルを子爵家の婿養子とすること。でなければヴィルはいずれ平民となってしまうのだ。
「アンネリーナ、俺は騙されていたみたいだ。婚約破棄は撤回する」
「そんな! ヴィ! 私を愛しているって言ったじゃない」
「煩い! 一代男爵など俺は聞いていない」
ヴィルはレイナの腕を振りほどき、アンネリーナに走り寄る。その肩に手を置き整った顔で最高級の笑顔を作ると、震えを抑えながら甘い声で囁いた。
「すまないアンネリーナ。俺は悪女に騙されていたのだ。許してくれるよな」
「では婚約破棄はされませんのね」
うるんだ瞳で縋るように問いかけるアンネリーナに、ヴィルはうんうん、と何度も頷く。やっぱりコイツは俺にベタ惚れだと、その目に優越感が戻ってくる。
「当たり前じゃないか」
その言葉にアンネリーナがホッと息を漏らし、頬を上気させ笑った。
俺は何をしても許されるんだと、ヴィルが傲慢な笑みを浮かべた時、セドリックがその腕を掴んだ。
「アンネリーナ、よく考えろ。こいつは何度貴女を裏切った? 何度貴女を傷つけた?」
「ふん、外野は黙っていろ。アンネリーナは俺に惚れ込んでいるんだ。さっきの笑顔を見ただろう? 何度も俺を許してきたのがその証拠だ。アンネリーナが愛するのは俺だけなんだ、そうだろう?」
「違いますわ」
「そう、ちがっ……えっ?」
自信満々に言い放った言葉を、アンネリーナはバッサリ否定した。
口をあんぐりと開けるヴィル。
会場で事の成り行きを見守っていた生徒の中にも目もパチクリしている者が大勢いる。だって、アンネリーナはヴィルにベタ惚れだと、愛しているのだと思っていたから。何よりヴィルがそう言っていたから。
「違う……?」
「はい、違います。わたくしあなたの事をこれっぽっちも愛していませんわ」
どうしてそんな勘違いなさっているの? とアンネリーナは頬に手を当てる。その姿は心底不思議そうだ。
「でも今までだって、浮気を許してくれたし、婚約解消しないといったら頬を染め喜んでいたじゃないか。さっきだって婚約破棄を取り消したら涙を溜めた顔でほっとしていたぞ」
「ええ。ほっとしましたわ。だって婚約破棄は私からお伝えしなければなりませんから。ヴィル様、わたくし、あなたとの婚約を破棄いたしますわ」
晴れ晴れとした笑顔でアンネリーナははっきりとそう口にした。
「え? 婚約破棄? それは先程取り消したのでは?」
「取り消したのはヴィル様からの婚約破棄です。冤罪だということも証明いたしましたわ。今、お話ししているのはわたくしからの婚約破棄です。理由は度重なる不貞、証拠はさきほどまであなたの腕にしがみついていたレイナさんとここにいる皆さまの証言。それから九枚の浮気の証明書」
浮気の証明書、なる初めて聞く単語に学友は眉間に皺を寄せる。
しかしヴィルにはしっかり思い当たるものがある。なにせ九枚も書いたのだから。
「あの証明書はいったい?」
「もしかして婚約の際に取り決めた契約書をお読みになっていないのですか? もし片方に不貞があった場合、もう片方は婚約破棄を申し出ることができる。それを許す場合であっても、不貞の相手と期間等を婚約者当人同士で確認した浮気の証明書を作成すれば、浮気した方の当主にその都度、慰謝料を請求できる――そう取り決めたではありませんか」
アンネリーナの部屋の金庫には、ヴィルの浮気相手の名前と浮気した期間を明記した書類がある。その書類はヴィルとアンネリーナによって作られたのち、アンネリーナの父親を経由してレイモンド伯爵に届けられた。レイモンド伯爵はその証明書に印紋を押し、慰謝料とともにアンネリーナに返却した。
アンネリーナは、渡された慰謝料には一切手をつけず、浮気の証明書と一緒に全額金庫にしまっている。
「そ、そんなことが。でも、婚約破棄したら妹の学費はどうする? 我が伯爵家から借りた借金は?」
「借金は一年前に全て返済しましたけれども、ご存知ないのですか? それから妹の学費の問題は解決しましたわ」
「解決? どうやって。貴族学園は入学代も授業料も高い。借金を返したばかりの子爵家にそんな余裕があるはずが……」
言葉途中にヴィルは、はたと気づいた。先程アンネリーナが言っていたではないか。浮気の証明書九枚分の慰謝料の存在を。
「浮気の慰謝料として頂いた金額が、ちょうど妹の入学金と三年間の授業料に達しましたから。それにヴィル様に責のある婚約破棄ですから、その慰謝料も頂けます」
「では、今まで婚約解消を嫌がっていたのは」
「婚約期間が長ければ長いほど浮気の証明書、いわば慰謝料は増えますもの」
「先程、俺からの婚約破棄の解消を喜んだのは……」
「もちろん、それも慰謝料のためですわ。婚約破棄は私から申し上げませんと。父と一緒に新しい事業を始めようと思っておりますのでその軍資金にしようと思っております」
フフッとふわりと笑うアンネリーナの前でヴィルは力なく膝をつく。
婚約して三年。
ヴィルはアンネリーナに惚れられていると勘違いして、数多の女性と浮気をした。
早々にヴィルの本質に気がついたアンネリーナはすぐに婚約破棄をしたかったけれど、子爵家の借金と学費の為にそれはできない。
だから父と一緒に領地経営を行い借金を返し、浮気の証明書によって貰った慰謝料は妹の学費にするため手を付けず金庫にしまった。
その一方で妹に爵位を譲り、自身は独立すると心に決めた。
家のために結婚させられるのはもうまっぴら。
一人で生きていく力を身に付けようと思い、何ができるのかと考えた。男なら騎士になればよいけれど、それはできない。それなら文官を目指そうと、どうせなら一番難関の試験に合格して、だれにも文句を言われない地位を得てやろうと思った。
その結果がこれだ。
アンネリーナはほんわりしてるし鈍いけど、頭は良いし、芯も強い。準備をしながら時がくるのをずっと待っていた。
妹の学費が貯まり、生徒達の前でヴィルが自分の浮気を自ら暴露する。そう、やっと。
――時は来た――
あらぬ疑いをかけられた時は焦ったけれど、友人の援護射撃で冤罪を証明した今、すべてはアンネリーナの筋書き通り。
だからもうここにいる必要はない。
「それではわたくし、婚約破棄とヴィル様の不貞をお父様に伝えてきます。ヴィル様にもレイモンド伯爵様からお話があるでしょう。そういえば、レイモンド伯爵様、十回目はないと仰っていましたよ?」
「……ない、とはどういう意味だ?」
「あなたに爵位を与えようと、レイモンド伯爵様も随分我慢されていましたが……何事にも限界はあるようですわね」
勘当。ヴィルの頭にその二文字がよぎった。
「ま、待ってくれ。俺を見捨てないでくれ。それじゃ、アンネリーナにとって俺はいったい何だったのだ」
アンネリーナは頬に手を当て、コトンと首を傾げる。
皆が注目する。アンネリーナは俺にベタ惚れと吹聴していた男の末路に。
「考えたこともありませんわ。その価値すらあなたにはございませんもの」
ふわりとドレスを翻してアンネリーナは会場を出て行く。残された観衆は、その華麗な後姿にそっと拍手を贈った。
「アンネリーナ待ってくれ」
よく知った声に振り返ればセドリックがこちらに駆けて来る。そういえば数か月前にも同じ事があったような、とアンネリーナは思う。
「どうしましたの? 卒業パーティーはこれからでしょう?」
「いいよ。ダンスを申し込もうと思っていた人は今日も帰るようだから。家まで送るよ」
セドリックはそういうとツイと腕を差し出す。そのエスコートの意思に、深く考えることなくアンネリーナは手を添える。だってアンネリーナは鈍いから。
「婚約破棄、おめでとう、でいいのかな?」
「ええ。ありがとう」
「あいつを愛していなかったんだな」
「もちろん。わたくしはただ無関心だっただけなのに、どうしてそんな噂が立ったのでしょう? それに、わたくし、人を愛するってよく分からないわ」
眉間に僅かに皺を寄せ、アンネリーナは首を傾げる。愛という言葉は知っているけれど、それは果たしてどういうものなのか。
「なるほど、これは大きな課題ができたな」
「課題? 文官になってもセドリックは向上心が高いですわね。わたくしも見習わなくては。それで、どんな課題なの?」
「うーん。正直今の所、解決策が見つからない」
「あら」
「でも、絶対にクリアしなければいけない課題なんだ」
「あらあら」
それは大変ね、とアンネリーナはふわりと笑う。
さらに「頑張ってね、貴方ならできるわ」と可愛く拳を握ったりするものだから、セドリックは苦笑いを浮かべるしかない。
鈍感なくせに男心を無自覚にくすぐるアンネリーナを籠絡するのは並大抵のことではなく。
熱の篭った視線もふんわり笑顔で躱され、そのくせ格好良いだの、一緒にいて安心するだの、頼りになるだの臆面もなく口にする。
すっかり骨抜きにされたセドリックが、拝み倒して二人が婚約したのは三年後。
「俺の婚約者が無自覚すぎて可愛い」
そんな惚気話に周りの皆はうんざりし、心から祝福をした。
タイトルの「俺」はヴィルでなかった、というのが一応オチです。
楽しんでいただけたなら嬉しいです。
面白いかった、オチがいい、スッキリしたなど、気に入ってくださった方、ブクマ、★をお願いします!
○新作「虐げられた令嬢は腹黒侯爵様に甘やかされ、隣国で才能を開花する」を投稿します。(2月17日7時から)
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婚約者に薬草の研究結果を盗まれ、婚約者破棄された主人公ライラが、隣国で才能を開くお話。
○連載「 裏路地の魔法使い〜恋の仲介人は自分の恋心を封印する〜」が完結しました。
こちらも最後まで読んだ頂くと、あー、こう繋がっていたか、と思って頂けるように作りました。
前半の3章はオムニバス式に裏路地の魔法使いに会った令嬢が主人公。
後半は裏路地の魔法使いであるココットの物語。
無自覚侍女&ご主人様の焦ったい恋愛物語。
沢山の伏線散りばめ、全ての登場人物の立ち位置も伏線のひとつになっています。是非ご一読くださいませ!
https://ncode.syosetu.com/n0647ia/