一話
ある日、異世界に召喚された。
バイトの帰り、最寄駅で電車を降りたら見知らぬ泉の中に立っていた。
泉の周囲は開けた草原で、遠くに山々が見える。
一目で人里離れているとわかるその場所に、大勢の人間が集まっていた。
「ようこそおいでくださいました。異界の客人よ」
厳しい顔の老人が首を垂れると、背後にずらりと並んだ大勢のローブを纏った人々がそれに倣う。
その様は一言で言って壮観だった。
パニックにならずに済んだのは、そういう物語を読んだことがあったからかもしれない。まさか我が身に降りかかるだなんて夢にも思わなかったけれど。
さて、私が召喚されたのは大きな大きな大陸の端っこにある小さな王国だった。
小さいながらも列強に併合されずに済んだのは、異界から人を召喚する技術があったからなんだとか。
老人が言うことには、異世界から来た人間は精霊を使役することができるらしい。どの精霊が従うかはまちまちで、湧き水の精霊の時は、人々は乾きに怯えることなく作物は豊かに実り、桃の精霊の時は、季節を問わず、常に桃がたわわに実ったとか。
え? 桃?
と思わないでもなかったけれど、この国は桃の産地で、一年中桃を輸出できて国庫が大変潤ったそうだ。
そんなわけで、貴方はこの国の救世主になる。と煽て崇められて、下にも置かぬ持て成しを受けた。
のは召喚されてから2ヶ月間だけだった。
私に従う精霊が現れなかったのだ。
国の危機(多分財政的な)が去れば日本に返すと言われていた私は、一刻も早く戻りたくて、日々、精霊が現れるという神殿で願った。
初めの数日は、きっとそこそこいい精霊が来てくれるに違いないという根拠のない自信に溢れ、過去に大きな成果を残したという、水系の精霊や鉱物系の精霊が来てくれるように。
なのに一月経っても精霊は現れず、人々の態度はなんとなく微妙なものになっていた。
次の1ヶ月、焦った私は、なんでもいいから来てくれと願った。人参の精霊でも、ピーマンの精霊でもウェルカムだ。
でも、来なかった。
最短では召喚したその日のうちに、長くても一月以内には精霊が現れていたという。
けれど2ヶ月たっても精霊のせの字も見えない。
そんな私に城の人々は分かりやすく冷たくなった。
まず、城の最上階の日当たりのいい客室から、半地下のじめっとした場所に部屋を移るように要請された。次に食事の質が明らかに落ち、さらに三食供されていたものが二食になった。貴族や神職のお偉いさんは、三食食べていたが、それ以外の人々は二食らしいから、この時点では飢えさせるつもりはなかったのだろう。それが十日も経たぬうちに一食になったとき、私は命の危機を覚えた。
役に立ちそうにないから返してくれと、厳しい顔の老人に直訴した。
しかし、次の召喚の準備をせねばならないから、すぐに返すのは無理だと言われ、ならいつなら返せるのかと喰い下がれば、兵士を呼ばれて放り出される始末。
私の扱いは完全にお荷物、いやそれ以下になっていた。
勝手に召喚しておいて、そりゃないだろ。と恨んだりもしたけれど、役に立たず、働きもしていない。ただ飯食いはよくなかったのかもしれない。と気を取り直し、城で働かせて欲しいと申しでた。老人にはもう会わせて貰えなかったから、直接厨房や、洗濯場に乗り込んだのだが……
「異界からの客人を働かせるなんてとんでもない!」
と断られた。
もう、どうしろと。
私は完全に詰んでいた。
そんなとき、城下に向かう馬車を見かけて、私は衝動的にそれに乗り込んでいた。
外に出ればきっと働ける場所がある。働けばお腹いっぱいご飯が食べられる。
そう思ったのだが、世の中そう甘くなかった。
身元の分からない怪しい女を雇ってくれるところはなかったのだ。
さらに悪いことは重なるものらしい。
空腹を抱え、フラフラと街中をさまよっていると、明らかにゴロツキといった風体の男たちに囲まれた。
路地裏に連れ込まれ、服を引き裂かれる。
抵抗すれば頰を打たれ、刃物をチラつかせられ、私は泣くことしかできなかった。
もう嫌だ。
もう無理だ。
もう頑張れない。
勝手に連れて来られて、勝手に失望されて、元の世界に返してもくれない。私を見てもくれない。
あの、糞爺。
「絶対に許さない」
絶望に呪詛を吐いた時だ。
「やあ。今日はいい天気だね」
場違いな明るい声が聞こえたのは。
「異界の人間、この世が嫌い? 君を召喚した人々が憎い?」
声の元を辿り、視線をむける。
男が立っていた。真っ黒な髪に真っ黒な瞳。着ている服さえ黒一色だ。
「ああ、なんだ? 見世物じゃねえぞ」
私を押さえつけたままゴロツキが凄む。
だが、男はゴロツキには目も向けず、私に語りかけた。
「ねえ、憎いんでしょ? 復讐したいんでしょ? なら僕の手をとりなよ。僕が力を貸してあげる」
そう言って近寄ると、手を伸ばす。私はすぐさまその手をとった。
別に男の言うように、復讐のために手をとったのではない。ただこの場面から助けてくれるならなんだってよかったのだ。
指先が重なったその瞬間、彼が人間ではないと理解した。
皮膚を通して伝わる、恐ろしい力の本流に思わず手を引きかける。
しかし、男がそれを許さなかった。
素早く私の手を掴み、指を絡める。
「よろしく。僕は闇の精霊。今日から君の僕だ。さあ、主、願って」
なんだか、やばい精霊がくだった。とすぐに理解した。
けど、今はそれよりも目の前の男たちをどうにしかしたかった。一秒だって触られていたくない。
「こいつらを二度と女の人を襲えないようにして! それから一生、私の目の前に現れないようにして!」
「りょーかい」
ひどく軽薄な返事ののち響き渡ったのは男たちの絶叫。
股間を押さえて震え、白目を向いている。
壮絶な光景に目を背けようとした次の瞬間、彼らは消えた。周囲から伸びた闇にのまれて。
「二度と女を抱けない体にして、地の果てに飛ばしたよ。どう? 僕の力。すごいでしょ?」
黒ずくめの男は、私を引き起こすと、褒めて褒めてと言わんばかりに笑顔で詰め寄る。
「あ、ありがとう」
私は礼を言って、男に握られていた手を引き抜いた。
助かったと息を吐いた私の心を次に襲ったのは、男に対する恐怖だ。
「あの、本当に助かりました」
深々と頭を下げて、男の横をすり抜け、通りに戻ろうとする。
ただただ怖かった。あっさりとゴロツキたちを片付けてしまえる力も。その心も。
しかし目の前にさっと男が回り込む。
「主。僕を置いてどこへ行く気? それにその格好で通りに出るのはおすすめしないなぁ」
私はハッとして、ずたずたに裂かれた胸元を押さえた。
「次は何を願う? 僕としては着替えがいいと思うんだけど?」
「じゃ、じゃあ、着替えを」
確かに、この格好ではどこにも行けない。
私はおずおずと着替えを願った。
途端に目の前の影から現れる服。
「どうぞ、主」
男は恭しく服を差し出す。
私はそれを頭から被った。