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境界線上の魔王  作者: 羽山一明
第五章 『雨』
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5-10 孤独な勝利

 ……女は、自分が戦闘鍛錬を放棄してきたことを自覚していた。

 接近戦においては、その爪で突き、薙ぎ、振り下ろす。距離があれば、手のひらに集めた魔力をただ放り投げる。それで何も問題はないはずであった。

 圧倒的な力の前では小手先の技術など通用せず、それを持ち得る自分にとっては、鍛錬に費やす時間は無為であろうことを理解していたのだ。

 その認識は正しかった。

 本気で牙をむいた龍に対抗しうる生物など、これまでもこれからも、いないはずであったのだ。

 ……つまり、アリアをのぞいた二体の龍から言わせると、目の前の少女ローズマリーの存在そのものが異分子なのだ。


「…………」


 もう何度叩きのめされたのか、女はもはや数えることをやめていた。

 自己治癒能力にすぐれるはずの肉体は、折り重なった裂傷と打ち傷を誤魔化しきれず、体の各所が悲鳴の合唱をあげている。

 無尽蔵とすら思えた莫大な魔力も、度重なる浪費の末、枯渇する現実味を帯びてきた。

 いずれも、龍として産まれて以来、初めての経験であった。

 ……しかし、それよりも何よりも、納得のできないことがひとつだけあった。


「……ねえ、あなた」


 水辺に膝をついたまま、天に視線を向けたままの姿勢で、女が独り言のように口を開いた。


「なんで、手加減しているのぉ? 私ごときに本気を見せる必要はないのかしら?」


 向かってくる女の魔法を止め、爪を弾き、そして水面に叩きつける。

 疲労や傷は蓄積するが、それだけでは致命傷には至らない。マリーの行動は命を刈り取る戦闘ではなく、さながら心を折る鎮圧行動のようであった。

 問いかけに対して、マリーはすっと構えを解いた。


「そうですね。本気を見せる必要がありません」

「……は?」


 色彩の薄い表情と声色をもつ龍族より、それはさらに無機質な回答であった。

 自身が口にした皮肉をそのまま投げ返されて、女は思わず不快げに声をあげた。


「どうかお引き取りください。私から言えることは、それだけです」

「わけがわからないわあ。それだけの力があるなら、ぜぇんぶねじ伏せて思い通りにすればいいじゃない?」

「だからこそ、です。負けている側が争いを否定しても、説得力はないかと」

「……そう。なら、あなたのほうが弱ければ辻褄が合うわね?」


 荒い呼吸をまじえた女の声が、ひと息のうちに生気を取り戻した。諦観の片鱗すらみせていた瞳がぎらついて、獲物を狩る直前の獣のような圧力が迸った。

 最初に反応をしめしたのは、レオンたちを庇うように立ちはだかっていたノインであった。女の表情を見るや否や、様子見から一転、その顔めがけて腕を振り上げた。

 光をまとったその手のひらから、しかし魔法が放たれることはなかった。


「なに……?」


 異変を言葉にしたノインに同調するように、背後から困惑の声がさざめいた。

 同じく、防護魔法の内側にいたレオンたちもまた、何かを察知してなお、何をすることもできなかったのだ。

 ざらついた空気のなか、戦場の渦中にありながら、ひとりマリーだけが蚊帳の外にいた。背後からこぼれた、かすれるような声に振り返ると、直後、女が小さな笑い声をあげた。


「首から下を動けなくしただけよ。まだ、何もしてないわぁ」


 身構えたマリーの機先を制するように、女が口を開いた。傷だらけの顔に、姿を見せたときのような余裕と薄笑いが浮かんでいた。すっと頭上に掲げた指先の周囲に、白く輝く光の玉が無数にあらわれた。


「まだ、ね――」


 いくつかの光の玉が、まっすぐに空へと吸い込まれていった。屋敷の高さほどにまで駆け上がった光の玉は、直後、するどい緩急をつけて急降下した。

 狙いは、明白であった。


「クリス!」


 マリーが口にした少女のもとへ、光の玉がまっすぐに降り注いだ。それを見上げて走り出したマリーを見送った女が、スカートの裾をするりと手繰り寄せた。

 艶めかしい両腿の隙間からあらわれた大蛇のような尾の、いびつな棘を生やしたその尖端が、マリーの背に照準をさだめた。

 ……マリーの強さは、こと直接的な戦闘において本領を発揮する。

 龍をして舌を巻く純粋な身体能力の高さと、セイジとの訓練で育まれた魔力耐性は、彼女の少ない戦闘経験を補って余りあった。

 しかし、魔法と人質を絡めた曲線的な戦闘においては、守るも破るも接近戦のみが手札である彼女は、限りなく無力であった。


「ぐっ……!」


 半ば体当たりのように、身を挺して光の玉を暴発させる。

 一撃でも通せば、みんなの命が危ない。そう思うばかり、身を守ることもせず、ひたすらに速さを求めて宙を舞った。その身体に、目に見える傷が徐々に浮かび上がりはじめた。


「……守られるだけの立場というものは、こんなにも口惜しいものか」


 マリーを見上げた一同の内心を汲み取るかのように、ノインがぽつりと呟いた。


「ヒト同士、こうして守り守られていくわけか。強くなるわけよな」


 感心してみせた龍の視線の先で、最後の光の玉が撃ち落とされた。勢いそのまま、クリスたちの眼前に転がり落ちたマリーが、慌てて顔をあげた。

 撃ち洩らしを恐れたのであろう険しい表情は、目立った怪我のないクリスたちの姿を見て、ふっとやわらいだ。


「ああ、よかった――」


 穏やかな声に、言葉は続かなかった。

 繰り返す攻撃を乗り越え、その果てに生まれたわずかな綻びを、音もなくのびた女の禍々しい尾が貫いた。


「…………っ!」


 マリーが抵抗するより早く、身体から生えたままの尾が持ち上がった。

 空中での姿勢制御を不得意とするマリーは、支えるもののない空中ではわずかに自由を失う。そのことを見抜いていた女の尾が、打ち付ける雨のように、マリーの身体を執拗なまでに、繰り返し、何度も、貫いた。

 無慈悲なまでに弱点を突いた攻撃の前に、抵抗は無意味であった。やがて動きをとめた小さな身体が、尾の尖端で力なく四肢を脱力させた。


「最初から、こうすればよかったわぁ……」


 確かめるように歩み寄った女が尾をひと振りすると、その先から崩れるように、マリーの身体が放り出された。鮮やかな血とともに水面に打ち付けられた身体の脇を、女は笑みとともに優雅に通り過ぎた。


「標的以外にあんな化け物がいるなんて、聞いてなかったわよぉ?」

「私が知ることではない。貴様は標的になど興味がないのではなかったのか?」

「ないわよぉ。ここにだって、龍の気配がたくさんしたから、遊びにきただけよ。けど……」

「……けど、なんだ」


 ノインの問いかけに、女がふっと空を仰いだ。音の途切れた空間に、クリスの声にならない声がかすかに響いた。


「怖かった……とっても。女王さまが、ヒトを標的にした理由がわかった気がするわ」

「そうか。しかしその言葉を吐くのは、少し気が早いようだな?」

「えっ……?」


 言葉を失った女の肩が、血まみれの手のひらに掴まれた。引き倒された女の視界に、千切れた自分の尾と、体中を鮮血に染めたマリーの姿がうつった。

 マリーを貫いた尾の尖端が、地に背をつけた主人の体に穿孔をあけた。


「あああああぁーーッ!!」


 余裕の名残もない悲痛な叫び声に、思わず目を背けたくなるような生々しい音がつづいた。

 恐怖に滲む女の視界の前で、血のような紅色の瞳を燃やしたマリーが、腕を持ち上げ、振り下ろした。自分がされたことを繰り返すように、二度、三度……。


「……そのあたりにしておけ。もう何もできまい」


 四度目に振り上がった腕を、ノインが静かに諌めるように掴んだ。

 だらりと垂れ下がったマリーの腕の先で、涙と血が入り混じった表情を浮かべた女が、消え入るような命乞いを繰り返していた。


「マリーちゃん、傷口を――」


 女が放った魔法であろう拘束が途切れた瞬間、弾けるように飛び出したクリスが、びくりと体を震わせた。

 力なく見上げた赤々とした瞳と、ぐにゃりと形を変えてもとに戻ろうとする患部を見て、反射的に身体が強張ったのだ。

 その反応を見たマリーが、血だらけの顔に寂しそうな笑みを作って、ふわりと浮き上がった。


「あっ……」

「待て!」


 口ごもるクリスを力強く制して、ノインがラフィアの方角へと指をさした。


「セイジ・ルクスリアなら、ラフィアの国境の先で、紅色の龍二匹と交戦中だ。心してかかれ」


 無表情のまま、しかし確かに頷いたマリーが、空高くへと舞い上がり、やがて見えなくなった。その姿をしばらく見送っていたノインが、ふと遠い目をしたまま、ぼうっと口を開いた。


「ヒトも龍も等しく怖れる力、か。平穏を求めるには、あまりにも不憫な命運よな……」

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