0-4 あの背中を追って
「どんな具合だ?」
人気の無い城壁の足元、兵舎との間に申し訳程度に植えられていた灌木の裏側。その隙間に光る銀髪を見いだして、セイジはおもむろに周囲を確認した。薄暗闇の向こう側ではいまだ喧噪が充満しており、散会を迎えた剣戟の余韻に浸りながら、楽しげに談笑する人たちの熱気は今しばらくおさまる気配がみられなかった。
芝生の上で座り込んでいたマリーが、セイジの問いかけに嬉しそうに顔をあげ、名を呼びかけてはっと口を噤む。フードに隠れた唇のうえに人差し指をあてたセイジが、くすりと笑ってすぐに表情を改める。
「予後良好です。補給剤を数滴飲ませて快復したところをみると、単純に魔力が枯渇したのかなと」
「じゃ、たぶん魔力欠乏症だな。大事なくてよかったよ」
魔法使いの天敵である重篤症状の名を苦々しげに呟いたセイジが、マリーの膝上に横たわる魔導師に目を配らせ、次いで周囲で立ち尽くしていた仲間らしき人影に顔を向けた。
「宮廷魔導師団の方々ですよね? 応急処置だけはしておきましたので、あとは治癒魔法の使い手に委ねれば問題はないはずです」
淡々と語られたセイジの声に対し、返ってきたのは沈黙だけであった。
横たわっていた男の体を持ち上げたセイジが、後は任せた、と言わんばかりに差し出した。
なおも押し黙る魔導師たちであったが、フードの隙間から覗いたセイジの口元が不機嫌そうに引き締まるのをみとめると、渋々ながら男の身柄を引き継いだ。
「あの――」
「詮索は、ご勘弁を」
背を向けたセイジに何かを言いかけた魔導師の言葉は、視線すら合わせずに返された声に冷たく二の句を封じられた。素っ気ないやり取りを寂しげに見守っていたマリーが、何かを言いたげに開いた唇をきゅっと結び、代わりに手のひらを差し伸べた。
「帰りましょうか」
その手を握り返したセイジが、ぎゅっと身を寄せてきた嬉しそうな笑顔に頬を緩めて、銀糸のような細やかな艶のある長髪をやさしく撫でた。セイジの手櫛が髪の隙間を滑るたび、ふわりと流れる前髪が目に入らないように、と、紅緋色の瞳が閉じて開いてを忙しげに繰り返した。
「ごめんな。また今度、時間作るよ」
「いいえ。逢い引きみたいで楽しかったですよ」
「逢い引きって、お前なぁ……」
「ふふふ、冗談ですよ」
仲睦まじい会話が、かけるべき言葉を見失った魔導師たちから遠ざかり、暗がりに消えていった。
それと入れ替わるように別の方向から足音が転がり込んできた。立ち尽くすばかりの魔導師たちのもとに姿をみせたのは、大団円の主演をつとめた聖騎士クリスティアと、彼女によく似た金色の頭髪をもつ長身の男であった。
「クリスティアさま!」
「はい、事情はお兄さまから伺っております」
弾かれたように声をあげた魔導師に頷きを返して、クリスティアはその腕に力なくおさまっていた男の顔へと手を伸ばした。
先ほどまでの喧噪とは別世界のような静寂に、ぽつり、涼やかな水音が心地よく響いた。純白の光を帯びた手のひらから、煌々と輝く一雫が男の唇の隙間にふわりと舞い落ちると、繰り返し漏れ出していた小さな呻き声が緩やかに収まっていく。
ほう、と息を吐いたクリスティアが、鮮やかな治癒魔法に見惚れた男たちの前で唇を結び、力なく頭を下げた。
「ごめんなさい。私が無理を言って、前夜まで練習に付き合わせてしまったせいですわ」
「お前だけのせいじゃねえよ、クリス」
「でも……っ!」
背後に立っていた男の優しく諭すような声に、クリスティアはかえって憤るかのように勢いよく振り返る。
「あんな大がかりな魔法、ひとりを欠いた状態で続けるなんて、それこそ――」
「……違う。後半、おれたちは何もしていない。誰かがあの場を引き継ぎ、取り計らってくれたんだ」
勢いよく跳ね上がったクリスティアの目が、疑念と驚愕を帯びて見開いた。その瞳と同じ色をした男の琥珀の瞳に、躊躇いをしめすような陰がさしていく。
「何を、言って……?」
「お前と戦っていたのは、人間だ」
重苦しく放たれた言葉の意味に、クリスティアはその場の誰よりも速く辿り着き、誰よりも強く心を揺さぶられた。
誉れ高き聖騎士の称号。それは、冠する者に並び立てる者など存在しないという何よりの証左。
――例外があるとするならば、それは同じく聖騎士のみである。
「そういえば、さっきの男……」
いびつな輪形をかたどっていた男たちのひとりが、ぽつりと声をこぼした。いっせいに耳目を浴びながら、男はどこか独り言のように言葉を続けた。
「遠目からでしたので憶測ですが、先ほど、上空で殿下と応酬を繰り広げていた魔力と同じ気配がしました」
その言葉が何を意味するか、一様に理解が及んだのであろう。流れるように走ったクリスティアの視線を浴びて、みなが次々に同意をしめすように頷いていく。
「その方は、今、どちらに……?」
「城壁に沿って、門の方角へ――」
男が指先を持ち上げるより速く、クリスティアは駆けだしていた。
誰とも知れぬ男の背中を追って、どことも知れぬ場所に向けて。枯れかけた魔力も、尽きかけた体力も、すべてを忘れてただ石畳を蹴り続けた。
視界の奥に街灯の光が浮かび上がっては、両端に流れて消えていく。楽しげに歩いていた人々の隙間を突風のごとく潜り抜け、敬礼をほどこした門番に相槌すら返さずに、かすかに感じられる魔力の気配をなぞって、ただ、前へ前へと突き進んだ。
橋を越えて飛び出した先からほど近い丘の上。人工物が姿を消し、夜に覆われて群青色に輝く草原。
淡い月光が降り注ぐだけの儚い景色が広がるその先に、彼女はふたつの人影を見いだした。
「待って……!」
立ち止まり、今まさに空へ吸い込まれていく人影に向けて、渇いた喉を奮い立たせる。疲労を示すような掠れた声が弱々しく飛び出すと、凜と引き締まった顔立ちが幼子のように弱々しく変わった。
ならば、と、動きをとめた体に魔力を滲ませたその直後、背の低い人影が何かに気がついたように振り返った。次いでその輪郭がゆっくりと高度を下げはじめると、隠しきれない気配と魔力が次第に鮮明になっていく。
さらさらと流れていた風が凪いで、葉風の音がいっせいに黙した。舞い下りたふたつの人影がゆっくりと踏みならす草の音が、会話のない時を心地よく埋めていく。
隠れていたローブの色が月光に濯がれて、クリスティアは長く息を吐いた。その風貌が、紛れもなく上空で剣を交わした相手のものであることは、魔力を推し量るまでもなく明らかであった。
「……先ほどは、ありがとうございました。それと、ごめんなさい。魔力人形であると勘違いしたまま戦ってしまいまして……」
「気にしないでください。できることをしたまでですので」
「謙遜なさらないでください……。それで、あの、お礼をさせていただきたく思うのですが」
「いえ、先を急ぐもので。すみませんがご遠慮させていただきます」
会話を拒絶するようなそっけない回答を立て続けに浴びて、クリスティアはゆっくりと一歩を踏み込んだ。
「間違っていたならすみません。あなたはもしや、セイジ・ルクスリアさまではないでしょうか……?」
「……いいえ」
初めてみせた沈黙の奥から動揺を感じ取って、さらにもう一歩。重い足を持ち上げて詰め寄る。
「ひと目だけでよいのです。どうかお顔をお見せ願えないでしょうか。どうか……」
「……すみません。自分は王女殿下に顔を晒すほど大した人間ではありませんので」
言い切らないうちに、問答をしていた人影がもうひとりと手を繋ぎ、音もなく上昇をはじめた。追い縋るように空を見上げたクリスティアに向けて、押し出すように手のひらをかざしてみせる。
「風魔法はおやめください。それ以上魔力を使うと、あなたまで魔力欠乏症になってしまいます。どうかご自愛ください」
無理を通してでも、と、全身に込めていた力がすっと抜けていった。
気遣いから放たれたはずのその一言は、剣戟の場においてすら加減されていたことを証明する一言でもある。
肩を並べるどころかこちらの技量に合わせてくれたであろう示唆を浴びて、クリスティアは消えゆく人影を力なく見守ることしかできなかった。
ぼんやりと落ちてくる月日を浴びていた体を翻し、まさに帰ろうと振り返った直後、視界の端に光る何かがうつりこんだ。それはクリスティアの瞬きに重なるように明滅を繰り返すと、少し離れた草むらの上に音をたてて舞い落ちた。
「あれは……?」
ゆったりと歩み寄くと、何かの装飾品だろうか、小さな銀板が鈍色の光を跳ね返して草の根に転がっていた。
拾い上げ、泥を払いのけた手の動きが、息をのむ音とともにぴたりと止まった。
細い鎖に繋がれた、簡素なつくりの首飾り。
そこに刻まれていたのは、英雄にのみ身につけることを許された見覚えのある意匠と、かつて憧れ追い求めた人の名。
――フェルミーナ王国第二聖騎士 セイジ・ルクスリア――
「……嘘つき……」
悲しげに呟いたクリスティアは、人影が消えた北の空をもう一度振り仰いだ。無意識に握りしめた首飾りが、熱っぽい手のひらにわずか冷えた感触を滲ませて、すぐに人肌に溶けていった。
……
…………
………………
……………………
その三日後。
聖騎士クリスティアの姿は、その称号を誇る者だけが渡ることを許された『境界線』のもとにあった。
「…………」
かつては人々を潤す大河であった水面から立ち上る、天を貫き、大地を両断する光の壁。
見上げたクリスティアの横顔は、緊張によるものか、拭い切れていない疲労のせいか、どこか憂いを帯びていた。
「こんな短期間の間に、二度もここを訪れることになるとは思いませんでしたわ……」
ぽつりと零したその声からは、剣戟を披露した英雄の気配は窺えない。
そこにあったのは、ただ年相応の幼さをみせる無垢な少女の姿であった。
「セイジさま……」
俯いた視線の先、腰に下げた革袋にのびた手が、鈍色に光る首飾りを掬い上げた。
名声を得る遙か昔から憧れ、追い縋り、ようやく手にした第二聖騎士へと繋がる手がかり。
去りゆく背中を見送ったあの夜より鮮明な『セイジ・ルクスリア』の名が、そこに刻まれていた。
――生きていた。また会えた。
ほの明るい思いと同居する、灰色の不安。
なぜ帰らないのか、なぜ身を潜めていたのか。
その真相に、その思いに。触れていいのか。覚悟はあるのか。
療養の傍ら、答えのないその問いかけに、クリスティアは悩み続けた。
父王と兄に打ち明け、反対されながら、それでも彼女は旅立つことを決意した。
聖騎士として、英雄として、真実と向き合うことから目を背けてはいけない。
たとえどんな事情であろうと受け入れてみせる。力になってみせる。
そのために積み重ねた日々を、辿り着いた今を、無駄にはしたくない。
強く純粋な意志を胸に、クリスティアはゆっくりと顔をあげた。
「クリスティア、参ります!」
弾けるような表情と声をあげたクリスティアの体がふわりと舞い上がり、光の壁に触れた。
わずかな抵抗の直後、少女の体は人の世から消失した。
……彼女には、知る由もなかった。
この選択が、彼女自身はおろか、憧れの相手の運命さえも大きく変えていくことを。