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境界線上の魔王  作者: 羽山一明
第九章 『昏き追憶の水底にて』
212/212

9-53 境界線上の獣

 滅びの日から、幾度目かの夜が明けた。

 ラフィア南部に聳える光の壁は、亡国の背景にすっかりと馴染み、親たる境界線同様、遍く命ある来訪者を拒絶し続けていた。


 時が凍りついたがごとく亡国に、そして芽吹きの風が訪れる。

 惨劇の日に降り落ちた白から、命の気配あふれる緑へ。土すら凍る冷気から、肌に紅射す暖気へと。無色の彩を塗り替えた風に吹かれ、眠りこけていた自然たちが目を覚ましてゆく。


 頃合いを見計らったかのように姿を変えた、はじまりを感じさせる季節のある日。王都西門と境界線を仰ぐ、自然溢れる丘陵地に、四つのちいさな墓標が建てられていた。

 三つの墓標には、フレデリカ、メイベル、クラウディオの名が。四つ目の墓標には孤児院の子供たちの名が、それぞれ刻まれている。

 歴史に名を残すはずであった英雄たちと、歴史の波に呑まれて消えた罪のない命が、やわらかな木漏れ日を脚光がわりにして、ひっそりと眠りについていた。


「異常なし、やね」


 墓標を照らすその光が、声とともに現れたポーラの影に阻まれる。

 次いで姿をみせたファウストが、辺りに配らせていた針のような魔力を解きながら、ふっと口元を緩めた。


「そうですね。魔物の気配もありませんし、このままで問題ないでしょう」


 満足げなふたりの視線が、墓標の向こう側、深々と突き刺された鎌の輪郭をなぞった。

 近づく魔物への牽制なのだろう。持ち主をなくしたその得物からは、さながら蛇の舌のように見え隠れしている。


「んで、これほっとってもいいん? 魔力切れたりせん?」

「大丈夫ですよ。鎌の白刃が大地から、柄が大気中から、それぞれ魔力を少しずつ集めているので、威嚇牽制ていどなら半永久的にもつでしょう」

「今更やけど、ほんまなんでもありやね……」


 ぎこちない訛りを言葉に乗せたポーラが、手にした花と墓前のそれを取り替えていく。

 お世辞にも華やかとはいえない、小さな花束。高さも種類も異なるその数本は、遙か西方の山麓まで足を運び摘んだものだ。境界線の魔力に王都が呑まれた今となっては、墓前を彩る花々すらも貴重品と化していた。


 人間にとっての必需品もまた、例外ではない。

 生き残りの国民たちを王宮の隅に避難させたポーラたちは、直後に生活必需品の問題に直面した。王都に降り注いだ破滅の雪華により、草木はもちろん家畜も魔力に冒され、貯水池の水もおよそ常人が摂取できるものではなくなっていたのだ。

 被害を逃れた前線基地や各要塞を駆け回り、ようやく当座の物品を確保し終えたのがつい先日のこと。昼夜問わずに空を飛び続けたファウストともども、泥のように眠りこけ、起きるなり報告がてらに三人のもとを訪れ、半醒半睡のまま今に至る。


「兄貴、どんな感じやった?」

「正直、難航しています。取り込んだ魔力が魔力ですから……」

「そか……」


 独り言のように呟いたファウストが、ヘイゼルに魔力を託して逝ったクラウディオの墓を見やる。その視線を辿るように、ポーラは苦い話題をやや強引に転じた。


「あの人、結局この国で何しとったん? お父……国王にそそのかされただけやないやろ?」

「わかりません。袂を分かったわけではありませんが、あの子は私達とは別の形で人を辞めたようですし。ただ……」

「……ただ?」


 或いは、ただ死に場所を求めていたのではないか。

 そう言いかけたファウストが、心の底で静かにかぶりを振った。


「彼の死に、貴女やヘイゼルが責任を感じる必要はありません。それだけは確かです」

「…………」


 繕われた言葉を悟ったか、ポーラは湿っぽい目をファウストに投げかけ、しかし口に出しては何も言わなかった。


「……ヘイゼルの件は、住民たち同様、結界魔法の内側で安静にするほうがよいでしょう。彼自身が術者であったことを不幸中の幸いと捉えるくらいしかできません」

「そうな。まあ、しゃあない、か」


 半ば、自身を納得させるために言語化したような。そんなポーラの様子を憂いたファウストが、ふたたび話題を変える。


「シルヴィアの方言、だいぶん馴染んできましたね」

「何? 急に話題変わるやん。教師の質がええから、って言うとけばええんか?」

「……素直じゃない物言いまで、フレデリカさんに倣わなくてもいいんですよ」

「素直やない部分が出せるようになったってことは、ある意味素直になったってことやない?」

「本当に、ああ言えばこう言いますね、貴女は」

「ごめんて」


 まるで謝意の感じられない語気をこぼしながら、ポーラが母のもとへと歩み寄り、しゃがみこむ。


「お母さんが今ここにおったら、まだまだなってない、って笑われるんやろけどな」


 憂慮を乗せて紡がれる、母の名残たる言葉遣い。

 戦いのあと、母フレデリカとファウストが同郷であることを知ったポーラは、母が用いていた方言について教えを請うていた。

 人間は、声から忘れていくらしいから、と。理由を尋ねられたポーラは、ただ一言そう答え、ファウストもそれ以上に追求することなく、彼女の要求に応じて今に至る。


「まあ、そもそもがあたしのただの自己満足やねんけど」

「……いえ、そんな……」


 ラフィアとシルヴィア。世界地図から消えたふたつの国の想いを背負い、生きていこうとするポーラの言葉に、ファウストは薄い愛想笑いを返すことしかできなかった。

 結果だけを語れば、彼はラフィアに対してなんの利をもたらすこともできなかったのだから。


「さて、と。様子見がてら、また前線行ってくるわ」


 ゆらりと揺蕩った沈黙を破り、ポーラが立ち上がる。疲労を感じさせないきびきびとした所作と、振り返る眼に跳ねた輝きは、陽光のごとく、と喩えられた幼少期さながらの快活さに溢れていた。

 そのさまを感慨深げに見やったファウストは、喉につまらせていた杞憂の群れをくっと飲み込み、大きく頷く。


「兄貴のこと、頼むわな」

「はい、お任せください」


 跳ねるように駆け出し、息を吐く間に消えていったポーラを見送ると、ファウストはひとり自嘲めいた含み笑いをこぼした。

 人外の力を活用することへの使命にとらわれ、生きとし生けるものを牽引すべしと定めていた自分が、いつのまにやら内助の功に落ち着いていた事実。

 そして、そのことに安堵すら覚えている自分が、可笑しく思えてならなかったのだ。


「お任せください、か。ふふ、我ながら殊勝なことで……」


 堰を切ったようにこみ上げる感情のまま、人間であった頃を思い出すかのように、ファウストは肩を震わせる。外見以上に幼く見えたその笑みは、だが、時間が止まったかのようにぴたりと止んだ。

 途切れた声の後を、土を擦る何者かの足音が継ぐ。背中に感じた棘のある魔力と気配に、ファウストは振り返ることなく応じた。


「……ここまで、わざわざ歩いてきたんですか?」


 土気色の質疑を、錆びた溜息が出迎える。ファウストの背後をとったのは、落ち着いた彩色の給仕服と、ルビーを溶かし込んだような瞳のコントラストがひときわ目を引く、人形のような少女であった。


「貴方が帰参はおろか報告すら寄越さないからして、国じゅう探し回っただけですが?」


 皮肉をたっぷりと乗せて返答した少女は、短く整えられた金の髪を風に靡かせながら、小ぶりの眉目を不快げに歪ませてみせる。


「帰参や報告がかなう状況下ではなかった。それだけのことですよ、サティ」

「…………」


 諌めるような口調で名を呼ばれたサティが、なおも不満げな溜息を重ねた。龍族の特徴たる紅緋色の瞳がすっと細まると、眼光に帯びていた無言の圧力が鋭さを増して、ファウストの背をちくりと刺す。


「……まあ、いいでしょう。貴方はともかくメイベルまで音信不通になるのは、それ相応の理由があるでしょうし」


 小ぶりの唇から滑り出した龍の名に、ファウストの背がわずか揺れ、動く。呆れ半ばながら、目敏くもそれを捉えたサティが、違和をそのまま口に出した。


「それで、メイベルはどちらに? 久方ぶりですし、お顔だけでも――」


 瞬間、踊るように吹き抜けていた暖かな風が、音をたてて凍りついた。

 虫の音も、動物の鳴き声も、あらゆる生命体が死に絶えた森の中、物々しい静けさに包まれたサティの眼の前で、ファウストが首を横に振った。


「亡くなりました。おそらくは、ですが」


 予想だにしなかった真実に、二度三度。ぎこちなく口を開閉させたサティが、自身の平静を繕うかのように、普遍的な疑問を口にする。


「……なぜ蘇らせないのですか? 貴方の力なら、今すぐにでも可能でしょう?」

「宝玉そのものが行方不明です。南部に出現した新たな境界線に呑まれた可能性がありますが、詳しくはわかっていません」

「……境界線……」


 怨敵の名を口にしたサティの魔力が、どす黒い嫌悪の色に染まってゆく。

 自身に向けられていた棘の矛先が転じたことをみとめたファウストが、彼女に同調するかのような深い溜息をこぼしながら、ゆっくりと振り返った。


「この国は禁足地として定めたほうがよいでしょう。その旨、ノインに共有願えますか?」

「承知しました。フェルミーナはいかがいたしましょう?」

「不要です。あの国の統治者は優秀ですし、配属されている龍もまだ幼い個体ですから」

「はい。ではそのように」


 不満げな態度をすっかり緩和させたサティが、流れるような会話の最後にかるく会釈をほどこし、顔をあげる。そのままに踵を返すものかと思われた彼女は、だが、応じて振り返ったファウストを見つめたまま、彫像のごとくぴくりとも動かなくなった。


 守るべき民草も監視すべき国家も消えてなくなった今、この場に龍族がとどまる意味はない。ならば、あなたはここでこれ以上、何をするつもりなのか。

 紅緋色の眼光をもって、言外にそう述べ問うたサティに向け、ファウストが観念したようにかるく首を振った。


「私はここに残り、ラフィア国民としての責務を果たそうかと思います」

「……国民として、ですか……?」

「ええ。此度の脅威に際し、私は龍としての責務を何一つとして果たせませんでした。このままではこの国の人間たちやメイベルに申し開きが立ちませんから」


 言葉とは裏腹に、薄い笑みで語尾を飾ったファウストに対し、サティは静かに息を吸い。


「ファウストさま。物事を小難しく卑屈に捉える癖、なんとかなりません?」


 湿っぽい吐息に感情を乗せるようにして、真正面から苦言を吐き出した。


「……えっ?」

「それだけの力をお持ちなのですから、及び腰になってしまうのは致し方ありません。ですが、いつも必要以上に後ろ向きになって、自分が悪かっただのなんだのを、事が終わってからもうだうだと繰り返すのは別問題です。正直、ただ辛気くさいだけで、なんの意味も無いと思います」

「…………」

「大体なんですか、龍がとか人間がとか。二百何年だか知りませんが、それだけ生きていれば、普通の人間と感覚が違ってくるのは当然でしょう。そもそも、魔力によって生まれ変わった生物を龍族と定義するならば、貴方は龍族ですらありませんし。現地の人間相手にならまだしも、龍を相手にその線引きが通用するわけないじゃないですか」

「……それは……そうなんですが……」


 言葉を押しつけるかのように距離を詰めたサティと、反論すらできずに項垂れるばかりのファウストの関係は、或いは理知的な娘と不出来な父のようにも捉えられるだろう。しかし当事者たちを隔てる時の壁はあまりにも厚く、人間との感覚の乖離はさらに深い。

 だが、彼の抱える心の澱は、自身の強さを呪いとみなし卑下する思考は、この光景を水鏡越しに見つめる黒髪の、齢にして二十にも満たない少年の心と、時と種を越え確かに結びついていたのである。


「私は人間ではありません。贄として境界線に身を投げ、あなたの治療によって蘇った魔力の化身です。人間の頃の記憶はもはやないに等しいですし、彼らに対する仲間意識もありません。ですが、あなたのことは大切に思っていますし、幸せになってほしいと願っているんですよ」


 嵐のように責め立てていた語気が一転、漣のごとくやわらいで、目を伏せたままのファウストを慮るようにそっと吹き抜けた。わずかに顔をあげたファウストが、二度三度目を瞬かせたのち、苦笑とともにふたたび項垂れる。


「……ふ、ふふ、そうですね……」

「何笑ってるんですか。気持ちの悪い」

「いえ、メイベルにも同じ事で叱られたことを思い出しまして」

「……メイベルに? ふうん……へえ……」


 含蓄のある沈黙をこぼしたサティが、陶磁器で拵えたような端正な目元を歪める。初対面の男を品定めする貴婦人のような小悪魔めいたその表情に、否応なく過ったファウストの嫌な予感は、果たして見事に的中した。


「なら、私は二人目の女ってことですね」

「……そういう言い回し、お願いですから他の人がいるところでやらないでくださいね」

「心配しなくても、人前じゃ恥ずかしくてできませんよだ」


 艶然を帯びた揶揄いから、見た目相応の無邪気な振る舞いへ。仕草と表情をころころと変えたサティが、いよいよ絶句したファウストのもとから離れていく。きょろきょろと頭上を見回し、木の陰に覆われていない一画を見つけると、小さく芽吹く草花を踏まないように、そっと両足を揃えた。


「さて、言いたいことも言いましたので、私はこれにて引き上げます」

「……こちらはまだ言いたいことがありますが、どうぞお引き上げください」

「まあ、ひどい言い草。傷心の上官さまのためにここまで足を運んだというのに。せめて頭くらい撫でてくださっても――」


 別れ際にまで及んだサティの軽口が、開いた唇のごとぴたりと動きを止めた。

 風に遊ばせていた金色の頭髪が、音もなく身を寄せ伸びた手のひらにそっと押さえつけられ、ぎこちなくも優しげに撫でられる。


 揶揄いついでの戯れだ。すぐに跳ね除けるか逃げられるだろう。

 そのファウストの予想に反して、サティは主に甘える飼い猫のごとく目を細め、蕩けた目つきでファウストを直視して。


「……気安く触らないでください」

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 はっと息を吐いたと思うと、ファウストの想像通り、虫でも払うかのようにその手を跳ね除けた。


「理不尽な。貴女がそう言ったんでしょうに」

「言葉の綾や単なる比喩を都合のいいように捉えないでください。では」

「ええ……」


 冷感を乗せてまくしたてたサティが、耳まで赤面した様子をひた隠しにするかのように距離をとり、そのままに詠唱をはじめた。

 力強くも心地よく耳に滑り込んできたその音に、ファウストが不満もあらわに歪めていた口元をふっと引き締める。


「詠唱ですか? 貴女なら、わざわざ詠まずとも飛べるのでは……」

「ええ、もちろん。でも、これは初代さまが最初に教えてくださった、大切な魔法なので」

「……アルティアが……?」

「知らなかったですか? フィオナもそう言ってましたから、きっと他にも――」


 全身に光を浴びたサティが、ファウストの知らない初代女王との思い出を得意げに振り返る。どこか得意げに流した目線は、だが、ファウストの頬を伝う雫を目にした途端、驚きと困惑を帯びたそれに変わった。

 喉を詰まらせ、何かを言いかけ、短い沈黙を経て、サティは言の葉に込めた魔力を解いた。霧状に消えてゆく光の柱を背に、遠い目に涙を湛えて佇むファウストの手をとり、現実へと引き戻すかのようにぎゅっと握りしめる。


「大丈夫ですよ、ファウストさま」

「……うん……」

「いつか境界線の謎を解き明かして、一緒に女王さまをお迎えにあがりましょう」

「そうだね……うん……そうだな……」


 風邪をこじらせた幼子のように弱々しく繰り返したファウストが、瞼を閉じ、涙を切る。紅を帯びた顔色とうっすら刻まれた軌跡に、彼の人間たる証を確かに見たサティが、ほう、安堵の一息をこぼし、手を離す。そのまま跳ねるように数歩を遡ると、先ほどとは打って変わって、満面の笑みとともに息を整えた。


「すみません、お見苦しいところを……」

「いーえー。むしろいいものを見られた気分ですから、お気になさらず」


 くすりと笑ったサティが、では改めまして、と、やや恥ずかしげに言葉を継いだ。


『――翼よ』


 声を追いかけて顕現した魔力が、風に乗って泳ぐ金の髪に跳ねて、工芸品を思わせる輝きを放ちはじめる。


『地の底より、天の果てより舞い出ずる風よ。我が身を彼の地へと導き、吹き荒れろ!』


 淀みなく、振り返ることもなく。見送る紅緋色に映る光の柱に溶けるようにして、サティは彼方へと飛び去っていった。

 ひとり残されたファウストは、消えゆく光の残滓をたっぷりと見届けたあと、何かを思い出したかのように声をあげ、困り顔がてらに頭をひと掻きした。


「……ああ、忘れてた。代わりを頼まないと」


 何かを探して懐に忍び込んだ指先が、砕けてなお輝きを放つ、銀鎖に繋がれた紅緋色の宝玉が掬い上げる。

 その輝きに硬直していたファウストは、しばしの後に小さく頷くと、手にしたその首飾りをそっとメイベルの墓標に据え置いた。


「サティにも貴女と同じ怒られ方をしてしまいました。つくづく上官失格ですね、私は」


 木漏れ日と沈黙を心地よさげに浴びながら、訥々と。

 龍族の例に倣わない、彩度の薄いその瞳には、まるで過去を振り返るかのような遠い色が揺蕩っていた。


「私は人間なのかもしれません。しかし、この身に宿る力は人智の範疇に非ず、それがゆえ過ちを犯すのであれば、私は人里に身を置くべきではないのだと思います」


 だからといって、魔たる龍にもなりきれませんけれどもね、と。

 みずから補完した語尾に自嘲を乗せながら、ファウストはゆっくりと腰をあげる。その半ば、魔力めいた光の欠片が、言葉を追いかけるかのように口元ではためいた。


「じきにこの国へは、調査のための優秀な人材が派遣されることでしょう。彼らにみなを救っていただいたあと、私は死を装ってポーラたちと決別します」


 堰を切ったかのように溢れ出した燐光が、薄笑みを浮かべる表情を、ローブに纏われた全身を、瞬く間に覆い尽くしていった。

 人であって人にあらず。龍を率いて龍にあらず。その事実を戒めとするかのように、光に包まれたファウストの外見が変異を遂げてゆく。


「それまでは、私の全てを賭して彼女たちを守りますので、どうか見守っていてくださいね」


 燐光が晴れた先に佇んでいたのは、見上げるほどに巨大な空想上の生物。人と魔との境界、その狭間で揺らめく獣が選んだ仮初、その姿であった。

 のちにリュートと名乗りを改めることとなる彼は、表情のない会釈をひとつ捧げ、振り返ることなく彼方へと飛び去っていく。

 ひそやかに、だが確と込められたファウストの思惑は、果たして寝食をともにする兄妹に勘付かれることはついになかった。

 ふたりが一人前の使い手になれるよう、別れの先も強く生きていけるよう、ファウストは己の贖罪を熱意に変え、応じたふたりも今まで以上に研鑽に励んだ。


 そして、時は流れ――


「やっぱ、見つからんかあ……」


 ――亡国と化した自領の南端、銀色に垂れ下がった魔力の壁めがけ、ポーラが乾いた落胆を吐き出す。

 小動物のような外見こそ大きな変化はなく、しかしてその身にかつて注がれた魔力を、今や彼女は完璧なまでに我が物としていた。

 飛翔の魔法の使い手ではない彼女が、ここ南方にまで遙々と遠征する理由はふたつ。母とメイベルの後を継ぐような魔物の掃討と、行方知らずのままのメイベルの宝玉捜索がそれであった。


 専守防衛の重要性と、ヘイゼルの傍を離れられないファウストの弱みを突いて飛び出したポーラは、ある日、境界線上にて何者かの――魔物には決して持ち得ない、透き通った色をした――魔力の痕跡を見いだした。

 他国からの救助。ファウストと見解を一致させた言祝ぐべき期待の蕾は、だが、希望の花を咲かせることはなかった。

 単純に引き返したのか、はたまたその場で魔物の腹におさまったか。どれだけ時を経ようとも、姿形はおろかその他の痕跡すら見当たらず、それでもポーラは根気よく待ち続けた。


 だが、それももう限界であった。城内に保存されていた食糧が尽きようとしていたのだ。

 およそ二百人。もとの国家規模を思えばごく少数ながら、魔力にまみれた国土で生き続けることの負担は計り知れない。支援要請を望める立場ではないならばなおさらだ。

 ラフィアの滅亡経緯は紛うことなき自業自得である上に、その直前には戦争を仕掛けた加害者側である。壁を越え、足を運び、理を説いたとて、助力はおろかその場で拘束される危険性すらある。

 そうなれば、真の意味でラフィアは亡国となろう。


 ともすれば、退廃へと向かう現状を目の前に動くこともままならず。

 ポーラは、ただただ鬱積するだけの歯がゆさを、雑草の如く現れる魔物にぶつけるだけの日々を送っていた。


「……あかんわ。今日はもう帰ろか――」


 呟き返した踵に、別の物音が重なった。

 反転した視界の端、魔力に抗い生い茂る木陰の一点に魔物の影を捉えて、緩みかけていたポーラの魔力が気迫を纏う。

 感情そのままに地を蹴り、空中で掲げた手のひらに氷の鎌を創り上げたその先。針のように差し向けられた殺気を察した魔物が、慌てたように身を翻し、哀れにも森の奥へと逃げ去っていった。だが。


「逃がすかあああーーーっ!!」


 もはや八つ当たりに近い怒声を放ちながら、それでもあくまで冷静に。

 振りかざした鎌が魔物の命を刈り取る。まさにその瞬間、矛先から吹き抜けてきた何者かの魔力が、宙空を舞うポーラの全身をびくりと竦ませた。

 串刺しにされた魔物が、か細い声とともに小さく足掻く。ポーラとは比較すらならないその巨躯が、引き抜いた鎌のひと振りによって両断された。

 目もくれずとどめをさしたポーラの目線が、千々に消えてゆく魔物の向こう側に差し向けられる。


「……人間か?」

「そらこっちのセリフや。なんや自分、人間か?」


 国家を隔絶する壁の麓、現れた黒髪の少年が滲ませる禍々しい魔力は、常人ならば警戒して然るべきものである。

 だが、ポーラにとっては。龍族とともに戦い、生き抜いたこの少女にとっては、その限りではなく。


「どぎつい魔力しとったから、魔物や思たわ!」


 かき消した鎌の燐光の裏側、遂に訪れたその時に弾む心のまま、嬉しそうに口元を緩めた。

第9章 昏き追憶の水底にて ― 了

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