9-52 いつかまた逢えたなら
時は、ポーラとファウストが再会を果たし、希望のさなかに絶望を垣間見た瞬間から、ほんのわずか遡る。
魔物と成り果て、一個の災害と化したラフィア軍に単身立ち向かったメイベルの眼前で、いま、最後の兵が膝を折った。
「……腕を……上げましたね……」
長年にわたり、魔物の脅威から国を守り続けた精鋭。一般兵ですら、その多くが過酷な実戦を乗り越えた実績をもつラフィア軍である。万にものぼるその兵たちが、ひとたび境界線の魔力を帯びたならば、脅威はもはや語るべくもない。
ましてや、それと真っ向から立ち向かう行為など、水滴のひとつをもって荒れ狂う大河へ挑むようなものであろう。
だが、彼女は成し遂げた。
制する上官を振り払い貫いてみせた、龍族としての矜恃。そして、十余年にわたり国土を不可侵たらしめた、傭兵としての信念。
人と龍、相容れぬはずの想いを捨てることなく両立せしめた彼女は、可不可の境にそびえる鉄壁をみごと破砕してみせたのである。
ともに戦地を駆け抜けたかつての部下が、平原を薄く浸す境界線の水に落ちてゆく。
血に濡れ臥せったその巨躯は、もはや人として生きることも、魔として生まれ変わることもかなわない。戮殺をもってのみ果たされる平穏を、メイベルは慈悲に惑わされることなく守り抜いた。その一方で。
「…………」
理すら覆しうる戦果、その代償が軽微であるはずがなかった。
身に纏う魔力はいまや紙より脆く、それにより守られていた衣服は上下問わず千々に切れて、返り血にすら穢されぬことのなかった地肌には、無数の痛ましい生傷が浮かんでいる。
噴き出す汗はとうに尽き、ゆるく固まった傷口は血の一滴すらこぼさない。目は霞み、呼吸は浅く、返り血に染まった表情の隙間からは蒼白が覗く。
吊るし糸をもって直立を保っているだけの死人。そう形容する他ないほどの満身創痍。
それでも、彼女は満足気に微笑んだ。
龍は死ねば宝玉となる。そして、仲間に見いだされるまでの間、強固な魔力の防壁の内側で、悠久の眠りにつく。
ゆえの、死に対する無頓着――では、なく。
「……あと、任せましたよ、ファウストさま……」
大切な人たちに迫りゆく厄災を、身ひとつと引き換えに晴らしてみせた安堵。
その心が、笑みとして現れた。それだけのことであった。
間もなく、ひとひら残された気迫をも使い果たしたメイベルが、ふらりと天を仰ぐ。
心地よい水音が耳朶をくすぐり、跳ね遊んだ飛沫が虹のように弧を描いた。背を濡らすものが境界線から溢れた水と知りつつも、もはや忌避の感情すら湧くことはない。今際の際、任務を果たした達成感と、諦観に似た多幸感のまま、メイベルはやがて迎える終わりの時をただ待ちわびた。
だが。
「…………?」
波紋ひとつない思考の水面に不穏な揺らぎが生まれて、メイベルの眉が違和に歪んだ。
生じた懐疑は、かつての部下たちが辿った命運の経緯。
ラフィア軍とは別行動をとっていた彼らは、いったい、いつ、いかなる理由で魔物化に至ったのか。
準透明なその疑問に触れたメイベルの思考は、回れども巡れども、納得のできる解を見いだせない。
「国軍を止めようとして? いや……」
彼らは、メイベルが手ずから見いだし、鍛え上げた精鋭である。
隊員すべてが単独で格上の魔物を撃破しうる技量をもち、万が一にも遅れをとるような状況に陥った際は、逃げの一手をとることを徹底している。
玉砕の美という思考は、不死たる龍のみが戦術として成立させうるものであり、誰よりも隊長たるメイベルが理解しているからである。
では、彼らは何故、と。
ふたたび回帰したメイベルの思考が、死に向かっていた冷たい体にゆるやかな熱をまとって――
「……違う……」
――真相を悟った瞬間、悪寒へと変異したそれが、メイベルの体温を奪い去った。
平熱をぶち抜いて零度と化した体が、錆びた人形のように微震しながら、懸命に向きを変える。
見据えたのは、魔物と化した部下たちの亡骸。
有象無象の兵でさえ一騎当千と化すほどの魔物化にさらされながら、あの程度の脅威にとどまった理由。
記憶のなかに凝らした目が、邂逅時点で刻まれていた無数の傷を思い起こす。
魔物化の時点で負傷していた背景と、隊員がひとり残らず犠牲になっていた事実。
ふたつの状況から推測される経緯が、自身の現状と音もなく重なった。
「……彼らは国軍と戦い、勝った。そこを狙われたんだ……」
今の自分のように、と。
そう続くはずの言葉は、直後に絶句となって吐き出された。
眼前に横たわる部下の骸が、乾いた水音をたてる。彼らを魔物へと変貌せしめた境界線の魔力が、宿主を棄て、地を浸す泥水をまとって、新たな獲物へと鎌首をもたげた。
驚愕の暇すら与えられず、水音が連鎖する。積み上がるほどに夥しい数の遺体から、目に見えるほどにいびつで色濃い魔力が抜け出して、メイベルめがけ放射状の足跡を描き始める。
「なるほど……最初から……私が狙い、ですか……」
ラフィアの一般兵らを魔物化させ、メイベル麾下の兵を誘い出す。
戦闘後で疲弊した不意をつき、彼らを魔物化させ、そして本命の龍族にぶつける。
意思や自我はおろか計画性すら見せた、人とも龍とも異なる生命体『境界線』の、それが真の目的であったのだ。
本流に引きずり込み養分とするのか、それとも強力な手駒を欲しているのか。
真意は定かではない。しかし、それを探り当てる猶予や体力は、もはや残されていない。
いずれにせよ、このままでは、自分は自分でなくなってしまう。
ならば、せめて。
「……ふふ……」
メイベルは、わずかな休息にて回復した魔力と気力を、三度振り絞る。
頼りなげに起こした腕と、爪を模した抜き手。その先端に集中させた魔力の矛先を、自身の左胸に向けた。
「思い通りには……させませんよ……?」
後悔はない。
龍として生まれ落ち、人間の傭兵として数多の命を散らしてきた。報いを受けるべき必然を思えば、惨めに死を厭うことなど赦されるはずもない。
「…………」
自死を覚悟したメイベルの脳裏に、龍族としてはあまりにも短い命の記憶が去来する。
蛍火のごとく滲み消えた光景の最後。花咲く景色を背に浮かんだ青年の笑顔に、メイベルは薄桃に上気した口元をふわりと緩ませて。
「さようなら、ヘイゼル……。もしも生まれ変われるのならば、今度こそ人として出逢えますよう……」
告げられなかった想いを散らすかのように、みずからの心の臓を貫いた。
龍族に宿る奇異なる魔力が、死にゆく宿主を守るべく、その肉体を宝玉へと変異させる。赤々とした輝かしい魔力が四散をはじめると、這い寄る境界線の魔力どもが、怖じ気づいたかのようにびくりと動きをとめた。
弾けた光が晴れる頃、メイベルであった紅緋色の宝玉が、からりと音をたてて地に落ちた。
獲物を失い硬直していた境界線の魔力が、みじかい空白ののち、互いの身を勢いよく衝突させはじめた。飛沫を散らしながら巨大化していくそれは、ラフィア兵たちを飲み込んだ津波の姿を取り戻すと、うねる水音と飛沫を連れながら、故郷たる境界線へと立ち去っていく。
ほどなく、ひび割れた大地のうえに、薄暗い魔力の光が蛍火のごとく浮かび始めた。消え去った脅威との合流を逸した魔力の稚児どもが、無念を語るかのように蒸発と四散を繰り返してゆく。
高濃度の魔力に汚染された大気が、国境を霞ませていた魔力の銀幕を、より色濃く塗り固める。ラフィアとルーレインの国境をなぞるように立ち上った膜は、境界線によく似た威圧的な魔力を放ちながら、以北を閉鎖する地上の檻と化した。
こうして、栄華をきわめた国家ラフィアは、わずか数刻の間に亡国の名を冠した。
自責に苛まれながら苦悩の生を選んだ王女と、故郷を二度滅ぼされた龍族の胸に、燻る怨嗟の炎だけを灯して。
……
…………
………………
……………………
◆
#アルティア暦498年 6の月
世に境界線が生まれてから半年ほど経っただろうか。人里での生活もそろそろ板に付いてきた。
正体を隠すために名乗っただけの『流れの傭兵メイベル』は、いつしか私の生業と本名としてそのまま定着してしまった。
非常時だからだろう。圧倒的な龍の力に対する畏怖は、謝礼と喝采に姿を変えて、私をあたたかく出迎えてくれる。
潜入捜査の体裁は、もう守れそうにもない。
けれども、誰かのために表立って働くほうが、私の性に合っていそうだ。
あと少しだけ、続けてみよう。
◆
#アルティア暦498年 12の月
いつの間にやら増えていた部下と仕事の量に、完全に引き時を失ってしまった。
怖がらせようと見せつけた本領も、裏目に出る一方だ。
非常時だからだけではない。これは人間という種の異質な好奇心の成せる技だろう。
観念して、傭兵として生きる道を選ぶべきなのだろうか。
女王さまに余計なご心労を掛けてしまわないことを願うばかりだ。
◆
#アルティア暦499年 1の月
魔物に襲われていた女性を助けた。
フレデリカと名乗った彼女は、遠路はるばる幼子を抱えてシルヴィアからやってきたらしい。
彼女によると、どうやらかの国は国としての機能を失ってしまったようだ。
先代女王さまのお力ですら守り切れなかったのだろうか。
龍族が亡国の仲間入りを果たすのも、そう遠くないのかもしれない。
◆
#アルティア暦499年 3の月
フレデリカが傭兵団に加わってくれた。
彼女の魔力は、他の人間とは何かが違う。
魔力の性質は、出生や育成の環境に依存するというけれども、それだけではなさそうだ。
彼女の子ヘイゼルからも、幼いながらに稀有な素質を感じる。
他の男性はみな私が触れると挙動不審になるというのに、この子だけは違う。魔力耐性の賜だろう。
龍と肩を並べられる力をもつ存在は貴重だ。同性ならばよき友に、異性ならばよき恋人になれる。
この縁が長く続くことを願うばかりだ。
◆
#アルティア暦499年 8の月
フレデリカの成長が目覚ましい。
武術の心得があったとて、実戦で活躍できるとは限らない。
むしろ、その逆の方が多い。型式に則った経験がかえって枷になることがあるからだ。
その点でいうと、彼女は例外のほうに位置するようだ。
わずか半年で、最前線を守り続ける傭兵団の副長にまで登り詰めたのだから、相当なものだ。
例の不穏な国軍兵の勧誘から、そろそろ半年が経つ。
彼女が勧誘の対象になったその時は、今度は私がこの手を汚す番だ。
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#アルティア暦500年 3の月
あれから国軍に動きはない。
嵐の前の静けさを感じるものの、事が起こる前に手を出すのは龍族の指針に反する。
同じく国境を守る他国兵との関係も良好だ。いざとなれば彼らを頼り、亡命することもできる。
いざとなったら、今や国内最強ともうたわれる傭兵団を率いて、人として国に反旗を翻せばいい。
そうだ。どうとでもなるのだ。焦る必要はなにもない。
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#アルティア暦501年 1の月
やられた。
兵ではなく、王妃としての招聘。つまり、事は軍のみならず、王家にまで及んでいるということだ。
断るという選択肢をリカに見せてしまったのは、明確な私の落ち度だ。
傭兵団を招集して、力尽くで国家に反抗する。彼女はその可能性を考慮に含めて、私達が叛徒となる未来を未然に防いだのだ。
私が彼女の枷になってしまったのだ。
龍としても、人としても、私は失格だ。
◆
#アルティア暦501年 12の月
前線の状況が芳しくない。
龍族として王都の情勢を調査したいこんな時に、人としての職務に縛られて動けないのは皮肉でしかない。
幸い、ファウストさまが帰参の予定を変更して、王都に滞在してくれる運びになった。
私がヘイゼルの話を始めた途端ににやつきはじめたことだけが憎たらしい。
この人は、なぜ必要の無いときにだけ察しがいいのだろうか。
先代さまが戻られたら告げ口して差し上げよう。
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#アルティア暦503年 1の月
激戦が続いている。
領地を失っていたルーレインが前線を押し戻し、新興国フェルミーナも前線に兵を送り届けてくれている。
それにもかかわらず魔物の勢いがとまらないのは、経験の浅い兵たちが魔物化しているからだろうか。
……それとも、他に原因があるのだろうか。
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#アルティア暦503年 5の月
リカが戻ってきた。しかも乳飲み子を連れて。
正確には抜け出してきただけのようだけれども、平穏無事に過ごせているならそれでいい。
久しぶりにヘイゼルを抱きしめたら、「もう子供じゃありません」と怒られてしまった。可愛い。
「5歳は子供ではなかろうか」と言いかけたけれども、また怒られそうだからやめておいた。
とにもかくにも、これで日常が帰ってきた。ようやく反撃開始だ。
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#アルティア暦506年 10の月
ヘイゼルの魔法修練が順調だそうだ。
彼の才覚が花開いたことは素直に喜ばしい。
その一方で、乳飲み子だった彼が物心ついた今なお争乱を終わらせられない自分たちが情けない。
より平和的な魔力の研究をもっと進めるべきなのだ。
その旨をファウストさまに伝えると、他人の力の使い方の善悪にまで口出しすべきではないと思います、と返ってきた。
断言ではない理由を聞くと、力の使い方は自分で考えるべきだから、押しつけたくはない、とのこと。
5年前なら断言されたことだろう。彼もまた変わっているのかもしれない。
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#アルティア暦514年 10の月
前線への出立前日、リカがポーラ王女を連れて遊びに来た。
お茶を用意して戻ってくると、そこには隊服に着替え終えた彼女がいた。
驚く間もなく、次は王女までもが。どこでどうやって設えたのか、そっくりな仕立てで。
なんとふたりは、王女の腕前のお披露目がてら、道中まで同行すると言い出した。王女の母親似は魔力だけにとどまらなかったらしい。
ヘイゼルは、と尋ねると、本当のことを打ち明けると怒られるから黙って出てきたとのこと。当たり前だ。
呆れる私の前で、世界一破天荒な母娘がにやにやと口元を歪める。問いただすより早く、リカが笑いをこらえながら、王女にこう言った。
「な? 開口一番でヘイゼルのこと聞いてきたやろ?」
その瞬間、私はヘイゼルに告げ口することを神に誓った。怒られてしまえ。
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#アルティア暦514年 12の月
アルフォンス第一王子の件は、表向き試験中の事故として片付けられてしまった。
どの国も魔物退治だけで手一杯だ。この上、人間同士の戦乱など始まろうものなら、国防は完全に瓦解する。
ラフィア国家の闇は、もはや国家の存亡をすら問わない段階にすら至っているのかもしれない。
これ以上に状況が悪化するならば、もはや人と龍を隔てる事情など語ってはいられない。
一個の生命体として、目の前の脅威に抗うだけだ。
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#アルティア暦516年 11の月
戦争が始まる。
ファウストさまとノインさまが手段を尽して、それでも止められなかった。
圧倒的な個の力を誇る龍族が、専制政治という人間の個の極地に屈した瞬間だった。
望むところだ。国家自身が不義を掲げるのならば、武力による謀反は正当防衛になりうるだろう。
たとえ万の軍勢であろうとも退けてみせよう。
そして、かなうのならば、人として生きていこう。
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リカ、ヘイゼル。
単刀直入に告白します。私は人間ではありません。
失った命を魔力で補い蘇った、龍族の名を冠する少数組織。その一員です。
仲間のなかには生前の記憶を持っている方もいるようですが、私には人であった頃の正確な記憶はありません。
本来、私たちは身を寄せた人里にて知見を養うのですが、戦いに明け暮れるばかりの私はその機会に恵まれませんでした。
ですから、なにもない私が人として生きていけたのは、紛れもなくあなたたちのおかげです。
龍族は、その強すぎる魔力から、人と馴染むことが難しいといわれています。
部下たちも私を慕ってはくれましたが、それはあくまで傭兵としての私に向けられたものです。
孤児院の子たちも私に懐くことはありませんでしたし、私から触れることも避けていました。
同様に、強い魔力を持つ人間もまた、その強さから生じる孤独感や責任感から、陰気に育つことが多いようです。
事実、私もそうなりかけていました。
ですが、あなたたちは違いました。
自身とこの国を取り巻く現状を漠然と憂うことなく。かといって、肩肘張って毅然と立ち向かうわけでもない。
私の魔力に耐えうるだけの力がありながら、様々なものを柔軟に受け入れ、適応する器の大きさを持ち合わせていたのです。
だからこそ私も私を偽ることなく、ただのメイベルとして振る舞うことができたのです。
この文章を目にしているということは、少なくとも私は無事ではなくなっていることでしょう。
でも、安心してください。龍は死にすら抗って、いつの日か蘇ることができる生命なのです。
こればかりは、人ではない我が身を喜ばしく思います。
だから、悲しまないでください。
では、またいつか会えるその日まで、しばしのお別れです。
再会する頃には、ポーラは素敵な女王さまになっていることでしょうか。
その時には、改めて傭兵として重用していただけると嬉しいです。
さようなら。そして、ありがとうございました。
◆
ファウストさまへ
私の身に何かがあったときは、このノートをリカかヘイゼルに手渡してください。
何もなければ、改めてまた語らいましょう。
それと、秘匿主義はほどほどに。私以外の人にもずっとその調子なら、いつか本当に殴られてしまいますよ。
卑屈にならずに自信をもって、もっと誰かに頼ってください。
あなたが守ろうとしている生き物は、あなたが思っているよりずっと強いんですから。
◆
戦いの後日、遺言に則り譲渡されたメイベルの報告書より、一部抜粋




