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境界線上の魔王  作者: 羽山一明
第九章 『昏き追憶の水底にて』
210/212

9-51 散れり、ふたひら

 紅に重ね塗られた夕焼けの眼下、賽の目状に立ち並ぶ街並みの上空を駆ける人影があった。


 降りしきる雪がもたらす病魔に冒され、人をかたちどるものが少数派となりつつある惨状のなか、銀色の頭髪を靡かせたその人影――ファウストは、数を増してゆく魔物の氷像たちを辿りながら、まっすぐに西門を目指していた。


 もはや廃墟も同然たる煉瓦の屋根をひとつ蹴るたび、人為的に生み出されたのであろう、魔物どもの氷像が数を増してゆく。

 そこへやってきた一匹の魔物が、それを獲物と見たのだろう、大口をあけて氷像に齧り付いた。直後、大柄な魔物の全身は瞬きの間に凍り付き、後悔の暇すら与えられないままに氷像の仲間入りを果たした。


「……ポーラ……」


 残存する魔力から術者を察したファウストの声は、灰空のごとく深い失意を滲ませ、行く先に広がるであろう光景への不安を物語るように重い。

 焦燥ばかりが募り積もる一方、未曾有の事態を前に酷使した体は、もはや鞭打つことさえかなわない。千々に切れた呼気が寒空に白むことも、無尽蔵にも思えていた魔力の底が見えることも、二百五十の四季を生き抜いたファウストの知見には存在しなかった。


 観測者たれ。

 龍族の存在意義をそう訳していたファウストにとって、種の興亡も、地形や環境の変化も、平等に訪れる必然の具現化にすぎなかった。


『いつまで世界の神を気取っているおつもりですか?』


 観測という名の傍観を貫くその姿勢は、時に同族からの痛烈な批判の的になった。

 そのたびファウストは発言者の意を汲み、労い、その上で鸚鵡返しのごとき回答を提示した。


『いつまでも、ですよ』


 過ぎたる力は呪いである。

 たとえ善意から始まった助力であろうとも、超常たる龍の恩恵にあずかった生命は、必ずその甘やかな力に身を浸し、いつしか思考までをも停止させる。

 彼ら知的生命体は、災害や侵略といった可視的な脅威には一丸となって抵抗する強さをもつ一方、中毒のように蔓延する堕落に対しては、ひどく無防備であるからだ。


 ゆえに彼は、諦観を貫く姿勢を信じ続けていた。

 赤子のように、ただ漠然と信じ続けていた。

 その果てに迎えたのが、目の前の滅亡であった。


「…………」


 自責と悔恨に背を押されるように辿り着いた西門の様相に、ファウストは息を呑む。

 境界線という災厄に抗うため飛び出した少女。嵐の一過を思わせるほどに烈しいその軌跡は、彼の脳裏に負の結末を滲ませるに十分たりえる光景であった。


 果たして、その予感は的中した。


 瓦礫と化した西門を抜けた先、飛び込んでくるはずの自然はそこになく。

 目を覆うのみならず、反射的に防護魔法を展開するに至るほどの氷雪の暴風が、まるで異世界を思わせる異様さをもって、すべてを覆い尽くしていた。


「ポーラ……?」


 霞む視界の端、絶命しているのであろう、うつ伏せに倒れ臥す巨大な魔物の輪郭が浮かぶ。

 渡り合ったのであろう、少女の名を呼ぶ声に続いた吐息が、ぱきりと音を立てて凍り付いた。


 そして、その先。

 雪化粧に膝をついていた少女が、届いたはずのない声に呼応したように立ち上がり、振り返った。


「ねえ、ファウスト」


 白濁した世界に響いた声に、ファウストは応じない。応じられるはずもない。

 隙間を縫うように降り注いだ陽光が、死人の雰囲気を纏うポーラが胸元に抱えていた「それ」を、白日のもとに晒したからである。


「どこか見晴らしのいい場所、知らないかな? お墓、作ってあげないとだから」


 ファウスト、と。確かに前置きした表情は、しかし彼を一瞥すらしない。

 抱きしめた母の亡骸へ落ちたまま、呆然と剥がれない虚ろな眼は、目前の現実を許容できていないような。錯乱と当惑によって崩壊した精神が、辛うじて人としての体裁を保っているだけのような。

 ファウストには、そう思えてならなかった。

 だが。


「……面影が残ったのは、ここだけだった、から……」


 ふいに、淡々と紡がれていた少女の言葉と表情に綻びが生まれる。

 光を失っていた瞳が涙を滲ませ、頬がきらりと濡れる。途端、辺りに張り詰めていた魔力が、支え糸を失ったかのようにぷつりと切れた。


「……ねえ……ファウスト……私……」


 空の色、崩れた城壁、立ち尽くす龍。そして、自身の手で最期を迎えた、母親の生首。

 迎えた悲劇の数々を見渡したポーラの目が、涙の向こう側で生気と現実を取り戻していった。


「私……生まれてくるべきじゃ……なかったのかなあ……?」

「……っ……」


 無数の言の葉が脳裏を巡り、しかし声にならずに消えてゆく。涙ながらのその吐露は、人ならざる力をもつ龍族が同じく抱き続け、未だ解を見いだせない存在意義そのものであったからだ。

 齢十にして、理性を以て生を呪う娘に対し、説くべきは理性ではない。そう悟ったファウストが、慎重に一歩を踏み出す。


「ポーラ」

「……だめ……来ないで……」


 底すら見えず、制御もかなわず、理ではなく情によって顕現する。

 芽生えた不安定な魔力の危険性を、痛みをもって承知していたポーラが、じり、と後ずさった。


「そうはいきません。私はフレデリカから貴女を預かっている身の上ですから」


 その場凌ぎの同情や、取り繕っただけの同情は、むしろ逆効果だろう。

 この子は聡い。自分自身の行いも、そこから至った現実も、すべて理解し直視している。その上で、自己を否定し、現実から己を隔離することこそが、被害拡大を防ぐ最善策であると判断したのであろう。


 一見にして自暴自棄に見えるその境地は、命の諦観を是とする龍の思想に他ならない。

 ならば、問うべきは。


「どうでしょう。ラフィアのすべてを忘れて、私たちと一緒に生きていきませんか?」

「え……?」

「この国はもう終わりです。仮に再建が望めたとて、それには途方もない労力、時間、そして時には運勢までもが求められるでしょう」

「…………」

「よくよく考えてください。貴女の今後を賭ける程の価値がこの国にありますか? その義理は? 私には、どちらも欠けているように思えてならないのです」

「……そう、なのかな……」

「そうですよ。この国が貴女に何をしてくれましたか? 貴女の家族を宮殿という牢獄に縛り付け、挙句の果てに貴女を実験道具にしただけではないですか」


 そして迎えた惨劇を回避する道も、その選択を押し通す力も、自分にはあった。あったはずなのだ。

 湧き上がる自己嫌悪を血の味とともに飲み込んで、ファウストは薄皮一枚の平静を懸命に偽装した。


「……でも、だからって、私のしたことが許されるわけ……」

「許されますよ。誰もいない国で、誰が貴女を罰するというのですか?」

「あ……」

「王族はいまや貴女を残すのみですし、総動員した兵士たちは前線で仲良く魔物に変異しました。城下町は、魔物と人間が混同しているぶん、前線よりもなお酷い状況です」


 冷徹に、突き放すように。

 ラフィアの現状を指折り数えたファウストが、貼り付けたような笑顔をポーラに差し向けた。


「ほら、ね? この国はもう、罪を償う価値すらないんですよ。これ以上何を固執するというのですか?」


 甘やかな響きとともに差し伸べられた手のひらは、さながら獲物に這い寄る蛇のよう。

 応じて立ち上がったポーラは、だが、痛みにつけ込まれるまま異性の胸元に身を寄せるような意志の弱い娘ではなかった。


「ファウストは、今までもそうやって、色んなことを割り切ったり、忘れたり、捨てたりしながら生きてきたの?」


 鈍色ながら光を取り戻した瞳と、凍り付いた血が張り付いたままの唇。その双方が、ファウストを凛と捉える。


「ええ。でなければ、時と場を越えた世直しは務まりませんから」

「……そう。なら、その役どころは私には務まらないと思う」

「なぜですか?」


 曖昧、ながら意にそぐわない返答に対し、訝しげな声を投げ返す。そんな言葉の一方で、ファウストの口元はどこか満足げに、ゆるやかな弧を描いていた。


「忘れるのが怖いの。思い出がなくなるだけなら、寂しいけど我慢できる。でも、償うべきことも、どうせ全部忘れるから、なんて考え方をして生きてたら、いつか間違ったことにすら気づけなくなっちゃいそうだから」

「…………」

「私に足りないのは決断力じゃなくて、決断するための知識と経験だと思う。そのためには色んなことを受け入れて、自分の力にしていかなくちゃならない。だから、何かを捨てて何かを選ぶファウストのやり方には賛同できない」

「……ふっ」


 ごめんね、と。

 申し訳なさそうに付け加えたポーラが、ふいに零れ出たファウストの笑い声に小首を傾げる。


「……なに? なんで今笑ったの?」

「いや、失敬。まったくもってその通りでしたので、つい」


 己がもつ力を危険視し、自己否定に収束する思想だけでなく、長寿と俯瞰ゆえ生じる、神さながらの無頓着。

 ファウストが認識する龍族という生命体、その概要をほぼ完璧に言い当てて見せたポーラが、直後、寄せていた眉をはっと吊り上げた。


「……もしかして、私を励ますために嘘ついたの?」

「流石にそれは好意的に受け取りすぎです。勧誘の方も本心ですけれど、残念ながら振られてしまいましたので、妥協案で我慢します」

「妥協案……?」


 言葉に反し、欠片すらも残念そうにない笑みのまま、ファウストが手のひらを差し出した。


「龍の一族、第零位階、"不死"のファウスト。フレデリカさんとの約束を果たすため、貴女の国家再建に助勢します」

「…………? 龍族? 零位階?」

「……おっと。龍族のことについては初耳でしたか?」

「ううん。一応、ちょっとだけは。私も、その龍族になるための実験をさせられそうになったわけだし……」


 なんとも触れづらい話題に、ファウストの声が二の足を踏む。

 一方、遅れて事情を把握したポーラの瞳が、その杞憂をかき消すかのような光の花を咲かせた。


「じゃあ、ファウストって、メイベルやクラウディオ先生の上官だったの?」

「人間社会ほど上下関係に厳しいわけではありませんが、おおむねその通りです」

「……じゃあ、私たち、またみんなで暮らせるの?」


 質問から、確認へ。ひそめた声に不安が滲む。

 そこにいたのは、責務をもって玉座を引き継いだ王女ではない。数奇な運命に翻弄され失った、平凡で何気ない生活を望むだけの、ひとりの女の子であった。

 張り詰めた糸を解いたポーラにつられるように、ファウストがほっと胸をなで下ろす。


「ええ、もちろん。クラウディオはヘイゼルに任せてきましたし、メイベルもそろそろ――」


 ――凛、と。

 ポーラを労うファウストの言が、涼やかな音に遮られた。


「…………?」


 つられるように落ちた紅緋色の瞳が捉えたのは、メイベルとのやり取りに用いていた、紅色の宝玉。対になったそれに互いが魔力を込めることで、簡易的な意思疎通を実現させる魔法具であった。

 鮮やかなはずの彩は見る影もなく、明滅はおろか魔力の欠片さえ感じない。


「……メイベル……?」


 凍り付いた地面の上、不穏をまとって静止する宝玉。持ち主の名を呟きながら、ファウストが手を伸ばした。

 瞬間、乾いた亀裂音とともに宝玉が砕け、今際の輝きすら残さずに、塵と溶けて消えた。


 ……彼には、知る由もなかった。

 完全なる龍ではなかったクラウディオの命は、王との戦いですでに終幕を迎えていたことを。

 魔物化した軍を打ち倒してみせたメイベルが、激戦の果てにみずから命を絶ったことを。

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